日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
第2章 ~1892年2月、第2回総選挙~

第2章 ~1892年2月、第2回総選挙~

① 選挙干渉の結果、中央交渉部の結成

自由党96、立憲改進党38、他166(→独立倶楽部21、中央交渉部84)、計300

品川弥二郎内務大臣の激しい選挙干渉により、2大民党の合計議席は過半数を割り込んだ。そして大成会系、国権派も含めて選出地域ごとにまとまった薩長閥政府支持派が、1892年4月に結成した会派、中央交渉部が、同年6月には第1会派となった(本来名称は中央交渉部であり、中央交渉部は本部の名称であった(佐々木隆『藩閥政府と立憲政治』238頁)。

 

② 独立倶楽部の再結成

巴倶楽部系は、衆議院の解散と共に解いた会派を、再結成しようとした。しかし、その民党寄りの姿勢に、かつての参加者から異論が出るなどして実現しなかった。一方の独立倶楽部は、巴倶楽部系、新人の参加者を得て1892年4月、中央交渉部の結成に先駆けて、再結成を実現した。

 

③ 衆議院議長選挙

1892年5月、第3回帝国議会(特別回、~6月)が召集された。自由党は同党の河野を議長候補とし、自由党九州派の山田武甫を希望していた立憲改進党も、それに従うはずであった。しかし独立倶楽部が、2大民党が星亨を候補とするなら星に投じ、そうでないなら吏党、中央交渉部の候補に投じるという姿勢を示した。民党、吏党とも過半数に届かず、同派がキャスティングボートを握っていたため、2大民党は星を候補とし、星が選出された。独立倶楽部が自由投票を決めた副議長選挙は、中央交渉部の曽祢荒助が制した。自由党内では星系(星は大井系が強かった関東派に食い込んで、基盤を形成した。当時は親土佐派)と、河野系(大同倶楽部系、東北派)、院外に力を持っていたが星の党改革で影響力を削がれた大井系(大同協和会系、関東派)の対抗関係が明確化してきていた。特に大井系は、地盤の関東を星に切り崩されたことで、非主流派の色を強めていた。

 

④ 国民協会の結成

1892年6月、西郷従道(薩摩閥)を会頭、選挙干渉の責任を取って内務大臣を辞任した品川弥二郎(長州閥)を副会頭に、社交団体として国民協会が結成され、中央交渉部の多くの議員が参加した。しかし、熊本国権党は参加したものの、福岡玄洋社は参加せず、長州閥伊藤系の末松謙澄、後藤系の井上角五郎は参加せず、近畿団体系からのは参加は3名に留まった(他は2名が溜池倶楽部に参加しており、その2名を含む6名は大阪派を形成した。当時の報道によれば、近畿系は、一旦近畿倶楽部を結成し、少し遅れて中央交渉部に参加したようである。その近畿倶楽部のメンバーは、『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部の近畿団体のメンバーに、田中源太郎、竹村藤兵衛を除く12名である)。国民協会は薩長閥政府を支持し、主張も政府と同様の、(抑制すべきは抑制する)積極財政志向であった。このように結成に至った国民協会であったが、これを政党とすることについては、会員の一致を得られず、別に国民政社が結成され、政党化に賛成の者が両属した。他の中央交渉部の議員は、一部が実業団体を、井上角五郎達広島県内選出議員が井角組を結成した(井上組とも呼ばれた)。国民協会を含め3派とも、しばらくは中央交渉部と両属する形を採ったが、中央交渉部は第5回帝国議会が開かれるまでには確実に消滅し、これに専属していた大阪府内選出議員の一部が大阪派を形成した。

※1892年5月1日付の東京朝日新聞は弥生俱樂部(自由党)を93人、中央交渉会を80人、独立倶楽部を31人、近畿倶樂部を12人、無所属議員を46人、議員集会所(立憲改進党)を38名としている。「近畿倶樂部」とされている12人は大阪派とされる6名を含んでおり、それ以外の議員は次の通りである。粟屋品三(大成会→中央交渉部→国民協会→実業団体)、高井幸三(中央交渉部→国民協会)、佐々木政乂(大成会→中央交渉部→国民協会→実業団体-第4回総選挙後-→実業同志倶楽部→中立倶楽部)、村野山人(中央交渉部→実業団体-第2回総選挙後-→中立倶楽部-第3回総選挙後-)、渡邊徹(中央交渉部)、後藤敬(中央交渉部→国民協会)、1892年5月21日付の読売新聞は、協同会と近畿団体が解散して中央交渉会と合併すると報じている。『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部は4月27日に九州団体33名、東海団体18名、中国団体15名、近畿団体14名、四国団体4名の計84名が中央交渉部を結成したとしており、近畿団体として挙げられているのは、上の近畿倶楽部に挙げられている12名と、田中源太郎(大成会→中央交渉部→芝集会所→政務調査所)、竹村藤兵衛(中央交渉部→中立倶楽部→大手倶楽部→実業同志倶楽部→山下倶楽部)の、共に京都府内選出の2名である。なお、14名のうち田中、竹村、橋本、俣野は第3回帝国議会会期終了日(1892年6月14日)の中央交渉部の議員には含まれていない(田中、竹村が無所属、橋本、俣野が溜池倶楽部となっている)。協同会とは関東、東海の薩長閥政府寄りの議員の勢力であった(1892年5月7日付東京朝日新聞』。記事は渡邊洪基の協同会入りを報じたものである)。1892年5月18日付の読売新聞によれば、曾我部道夫、窪田畔夫、原亮三郎、太田實、湯本義憲、青山朗らがメンバーであった。

 

⑤ 独立倶楽部の分裂

2大民党は選挙干渉を批判する上奏案を提出したが、独立倶楽部、東北同志会という2つの中立会派には、その文言が穏やかでないことなどから、民党に共感を示しつつも、賛成しなかった議員達がいた。しかし独立倶楽部では、陸奥系(選挙干渉に反発して農商務大臣を辞した陸奥の地元の和歌山県内選出議員)等10名が賛成をして、1892年5月に同派を離脱、陸奥系は紀州組を結成した。独立倶楽部は同月、この分裂の前に、すでに地価修正派の離脱による分裂を起こしていたといえる。同派、無所属の地価修正派が、独自の会派、溜池倶楽部を結成したからである。選挙干渉に関する決議案は、自由、立憲改進両党、陸奥系と、独立倶楽部、溜池倶楽部、東北同志会のそれぞれ一部の賛成により、5月に可決された。また貴族院でも、選挙干渉を批判する建議案が可決された。

 

⑥ 第2次伊藤内閣の成立

民党と縁のある副島種臣、河野敏鎌が1892年3月、第1次松方内閣に入閣した(肥前藩出身の副島は品川内務大臣の後継、土佐藩出身の河野は陸奥農商務大臣。この人事には、自らに近い人物の入閣を期待していた国民協会も否定的であった。副島は、選挙干渉について内務官僚の処分をすることができず辞任し、河野が内務大臣になった。河野は処分を実行したが、高島鞆之助陸軍大臣、樺山資紀海軍大臣(両者とも松方と同じ薩摩閥)らが反発、第1次松方内閣は閣内不一致に陥り、1892年8月、第2次伊藤内閣が成立した。同内閣には、外務大臣として陸奥宗光が入閣した。陸奥は、条約改正交渉の一新を唱えた。そして実際に、清、朝鮮両国に対しても含め、強気の外交を展開する。陸奥の外務大臣就任まで、条約改正について進展は見られなかったわけではない。1889年12月の閣議において、外国人判事の大審院任用を回避すること、法典の公布、実施を条約への明記を避けること、領事裁判権の存続期間中は外国人の不動産所有を許さないことを決定し、それに沿って交渉が進められていた。しかし、薩長閥政府には、国内の反発がさらに高まることを恐れて、交渉に及び腰なっていた面があった。自由党は、超然主義を採りながらも薩長閥内で政党に比較的理解のある伊藤に、期待をした。同党の星亨は、自身と近い陸奥の外交を支持するのが自然であった。同党は当時、インフラ整備、産業振興を中心とした積極財政志向へシフトする兆候を見せ始めていた(ただし当初は、板垣ら党の指導者層に限られる)。そして立憲改進党の島田三郎が自由党を批判、星衆議院議長が、立憲改進党との連携を否定するような発言をし、2大野党の間の溝が広がった(星の発言は、立憲改進党が立憲制になる前、時勢が非常手段を擁する時にはおとなしく、立憲制になってからおとなしくなくなったという批判であり、その反対であった星・自由党系の路線の正しさをアピールするものであった)。一方で、山県は品川の内務大臣辞任に反対であり、品川を批判した伊藤との間の溝は、広がった。

※自由党系の変化については、伊藤之雄『立憲国家の確立と伊藤博文』が詳しい。

 

⑦ 東洋自由党の結成

1892年11月、自由党内で劣勢となった大井憲太郎が同党を離党、東洋自由党を結成した。しかし追従する者は少なかった。大井の離党の直接的な契機となったのは、薩摩閥と接近して第1次松方内閣の海軍拡張案を支持したことであった。当時、自由党の(主に衆議院では新井章吾らである大井系)の切り崩しを高島陸軍大臣、独立倶楽部の懐柔を後藤逓信大臣が担っていた(佐々木隆『藩閥政府と立憲政治』243頁)。大井は議席がなかったが、新井章吾らが棄権し、共に離党した)。東洋自由党は、党に普通選挙期成同盟会、日本労働協会、小作上映調査会が設けられたように、当時の衆議院の最左派である一方、これは当時矛盾するものではなかったが、対外強硬派であった(清や朝鮮の民主化を日本のそれと結びつけて考えていた)。

 

⑧ 中立会派の再編

独立倶楽部、溜池倶楽部、無所属のそれぞれ一部が1892年11月、民党側の同盟倶楽部を、溜池倶楽部の他の一部が、無所属の一部と同月、中立の芝集会所を結成した同盟倶楽部には、かつて巴倶楽部に属していた議員達がいた。芝集会所は1893年11月、有楽組と政務調査所を結成した。有楽組とは、1892年5月結成の東北同志会と人的連続性の見られる東北団体に、京都府内選出の対外強硬派の無所属議員が加わり、1892年12月に結成された会派である。同盟倶楽部は1893年11月、陸海軍省の軍政改革、特別市制廃止、警視庁廃止の政策を決定した(1893年11月21日付東京朝日新聞)。

 

⑨ 内閣弾該上奏案の可決と和衷協同の詔勅

第4回帝国議会(通常会、1892年11月~1893年2月)において、伊藤総理は地価修正を行うことで野党に譲歩しつつ、新たな軍艦製造を含む積極財政を採った。そして酒税、煙草税、所得税の増税で不足する歳入を補おうとしたが、これには変化を見せ始めた自由党も同意せず、衆議院では地価修正案のみが可決された(貴族院で否決され不成立に)。伊藤と関係の良くなかった国民協会も、地価修正賛成、増税反対の立場を採った。野党は建艦費を中心として、予算を1割以上削減した。そして67条費目の削減に同意しない第2次伊藤内閣を弾劾する上奏案を提出した。この上奏案は、中央交渉部系と無所属の多くを除く大部分の賛成を得て、1893年2月に可決された。これに対して政府は、宮廷費や官吏の俸給からも建鑑費を捻出することで野党の歩み寄りを促す内容の勅令により、自由党の動きを一旦静めることに成功した。政府は行政、海軍改革を約束し、同党と接近した。政党との接近に否定的であった山県は、3月に司法大臣を辞した。立憲改進党も詔勅に従うより以上に、政府に協力的になることはなかった。

第4回議会ではまた、民党中心の衆議院が貴族院に一定の譲歩をして集会及政社法の改正案が成立、政党が支部を置くことができるようになるなど、規制が緩められた。

 

⑩ 対外硬派の形成と星の失脚

政府に接近した自由党は、列強になかなか強く出ることのできない薩長閥政府に、理解を示した。これに反発した立憲改進党は、条約励行を唱えて対外硬派に接近した。民党と異なり、外国人の日本人との(条約の完全なる対等化の前の)内地雑居を時期尚早とする対外硬派は、1893年10月、内地雑居講究会を基に、大日本協会を結成した。衆議院議員では、東洋自由党(1893年12月解散)、有楽組、そして国民協会内の国権派等が参加した。専属の議員は少数であり、彼らは会派の上では無所属であった。政府との関係が悪くなった準与党、国民協会も、野党化して対外硬派の戦列に加わった。自由党と接近する第2次伊藤内閣に反対するということは、超然主義と矛盾する姿勢ではなかった。しかし立憲改進党と組むとなると、内閣とも野党とも一線を画すという立場を捨てることになりかねず、そうなれば、超然主義に応じた姿勢を採っていることにはならなくなる。

国民協会全体の参加により、対外硬派は衆議院の過半数を超える勢力となった。第5回帝国議会(通常会、1893年11~12月)において彼らは、収賄の疑惑が持ち上がった星亨議長の不信任上奏案(自由党反対)や官紀振粛上奏案(自由党も賛成し、自由党と一定のつながりがあり、星と同様の疑惑のあった後藤農商務大臣が辞任に追い込まれた)を可決させた。それでも星が衆議院議長を辞任しようとしなかったことによって反発は強まり、星の衆議院除名処分が可決されるに至った。後任の議長には、駐仏公使となって辞任した曽祢前副議長の後任に選出されていた(同年11月)、同盟倶楽部の楠本正隆が選ばれ、その後任の副議長には、政務調査所の安部井磐根が選出された。新たな正副議長は、共に対外硬派であった。対外硬派はさらに条約励行建議案を提出、これを受けて第2次伊藤内閣は、大日本協会を禁止とし、予算案の可決を見ないまま衆議院を解散した。そしてさらに翌1894年1月、国民協会、同盟倶楽部、同志倶楽部(本章⑬参照)を、集会及政社法による取締まりの対象となる、政社に指定した。これを受けて国民協会と国民政社は、国民協会という1つの政社となる道を選んだ。同盟倶楽部は同盟政社、同志倶楽部は同志政社となった。自由党の星の失脚は、党の長州閥伊藤系に対する窓口としての、同党土佐派の重要性を高め、その影響力を、より強めた。陸奥-星ラインから伊東-土佐派ラインに、縦断の動きの中心も移った。

 

⑪ 中国改進党の結成

犬養毅は1893年10月、立憲改進党の会派に留まったまま、衆議院議員1人で中国改進党を結成した。

 

⑫ 同志倶楽部の結成

1893年12月、星の処罰を求めていた議員が、星を擁護する姿勢を採った自由党を離党、同志倶楽部を結成した。同派には自由党の九州選出議員7名中5名が参加した。これは同派の議員の約4分の1であった。彼らは元々九州改進党→九州連合同志会の系譜にあった。九州同志会後継の九州連合同志会は、立憲自由党結成の際、立憲改進党を含めた合流を目指していた。彼らは2大民党の連携を志向する点で、それに否定的な星とは相容れなかった。同志倶楽部は対外硬派に加わった。同盟倶楽部は同派と近かった。しかし同月の衆議院の正副議長選挙において、同志倶楽部が自らと近かった河野広中(自由党)を議長に、さらに片岡健吉(自由党)を副議長に推すこととしたことには、自由党に対する反発から同調しなかった(1893年12月15日付東京朝日新聞)。同志倶楽部の議員の約5分の1は、河野と同じ福島県でこそないものの、同じ東北地方の選出であった。

 

 

補足~巴倶楽部再結成の挫折と独立倶楽部の再結成~

 

補足~政党~

奥羽同志会:東北の薩長閥支持派が奥羽同志連合会を結成した。1892年4月の大会で東北の進歩主義者と団結して名称を決定して結党式を挙行しようとし、これに反発した秋田県の勢力が離脱した(1891年7月23日付読売新聞)。

 

補足~貴族院会派~

懇話会:対外強硬派の谷干城らが結成した。

大和倶楽部:1892年6月、鳥尾小弥太(序章の補足~政党~保守党参照)らが結成したが、早期に消滅した。野党的であった。

茶話会:1891年よりグループとしてあったものが、国民協会結成の動きなどに応じて、1893年に会派として結成された。山県系。後に男爵議員も吸収するが、勅選議員の会派であった。

 

 

図②-A(④他):吏党の再編

図②-A(④他):吏党の再編

 

図②-B(⑧):中立会派の再編

図⑧:中立会派の再編

※独立倶楽部から直接芝集会所に参加した議員は1名のみ。
無所属からの参加者、再編の過程で無所属となる議員も多い。

 

 

図②-C(⑨):自由党内の主な派閥

図②-B(⑨):自由党内の主な派閥

 

 

図②-D(①~⑬):与野党の別

図②-C(①~⑬):与野党の別

※一度は自由党、立憲改進党、同盟倶楽部による野党ブロックが形成された。

 

 

図②-E(⑩他):薩長閥と民党の位置関係

図②-D(⑩他):薩長閥と民党の位置関係

・薩長閥側の伊藤-陸奥と自由党の星・土佐派は中心によることで、互いに接近した。前者が消極財政に近付いたわけではないが、財政についても星らに一定程度接近し得た。

・中立には様々な議員がいる。全体的に見れば、図➀-Bで中央付近に出現したものが、左に移動したといえる。

 

 

(準)与党の不振政界縦断(①)~薩長閥内の民党対策の差異~

 

キャスティングボート政界縦断(①②)~薩長閥側の政界縦断の土台~

 

(準)与党の不振第3極(①④):本章(準)与党の不振政界縦断(①)において、選挙干渉が中立派を、薩長閥政府から遠ざけたとした。だが吏党系(中央交渉部)すら、問題を抱えたということも重要である。吏党の正当性は、民党が自らの政権獲得、自らの支持基盤の地主層の利益しか考えない(と見られることがあった)のに対し、大局に立って物事を見ているというところにあった(従って、国権を民権よりも優先する国権派と勢力を共にすることも可能であった)。しかし選挙干渉は、民党を抑える策としては、それと完全に矛盾するわけではなかったものの、薩長閥側が自らの陣営の勝利のために行う策でもあったから、大成会の分裂後も、少なくとも建前上は完全には消されていなかった吏党の中立性は、危機に瀕した。吏党系の更なる分裂(国民協会結成による中央交渉部の分裂)は、まさにこの中立性を巡るものとなったのである。

 

政界縦断(③⑨):伊藤と近かった陸奥の中立派を利用した動きによって、長州閥伊藤系と、自由党の一部(陸奥と関係のあった星と土佐派)を結ぶラインが形成されていった。これは新党構想、政権構想を実現に移す具体的な動きではなく、自由党も、野党として薩長閥政府と対峙する姿勢を表向きには採り続けたことから、薩長閥からも自由党内からも、この接近を妨害するほどの大きな反発は起こらなかった。このことも重要である。しかし対外硬派は反発し、特に星を倒そうとした。

 

1列の関係(③⑥⑨⑩)~自由党の変化と立憲改進党~

 

野党第1党の頑迷(③⑥⑨⑩):五十五年体制下の野党第1党であった日本社会党は、非現実的な社会主義、平和主義(非武装中立)のために自民党を下すことができなかったといわれる。しかしこのような頑迷さは左派政党に限らず、日本の野党第1党の特徴である。1党優位体制の影響であると同時に、それこそが1党優位の状況を固定化する要因であったと言える。立憲改進党は立憲自由党ほど、薩長閥政府に対して強硬的ではなく、政策を重視し、政策論争で薩長閥政府、自由党系の優位に立とうとしていた(五百旗頭薫『大隈重信と政党政治』)。しかし強硬的な自由党は、党全体を見れば、あっという間に強硬姿勢を捨て、いつの間にか閣僚を出していた(第4章参照)。立憲改進党は、自由党が地価修正を模索した際、低地価の東北地方、九州地方の議員を切り崩そうとしていた可能性がある(五百旗頭『大隈重信と政党政治』134頁)。これは進歩党の結成(第4章参照)を通して実現したともいえる。しかしこのような再編等によって改進党系が、議席数における劣勢を解消したところで、自由党系の政界縦断が、立憲政友会の結成という形で結実し、それは改進党系の劣位を決定的にした。政策重視も野党路線の重視も、消極財政も、そればかりに突き進めば、簡単に裏をかかれるのである。

 

第3極(③⑥⑨⑩):自由党の薩長閥への接近は、薩長閥と自由党系の間に位置していたはずの改進党系の、政界縦断の要(序章野党に対する懐柔、切崩し連結器(⑧)参照)となり得るという点での存在意義をも失わせた。改進党系には薩長閥と自由党系の連結器となる意思はなかったが、可能性は閉ざされていなかったといえる。薩長閥と自由党等の間に位置した立憲改進党の不振、同党の対外硬派への参列は、外交問題に関して政治勢力が、硬派と軟派の間を採るような、中立的な振る舞いをすることを難しくした。これは、第3回総選挙後の中立勢力の低迷にもつながる(第3章参照)。自由党と長州閥伊藤系は互いに歩み寄ったから、そもそも、薩長閥と民党の対立に与しないことを志向した中立勢力は、独自性を失い、単なるその他の勢力になってしまった(図②-E参照。中立会派にすら属さないような議員には、それでもよかったのだろうが)。だから対外強硬派でなかった中立議員が対外硬派に参加したというわけではないだろうが、最も右の極(薩長閥・吏党系の右に位置していた欧化政策反対派が消え、当時外交についていえば、それと重なる所もある対外強硬派が位置した)、最も左の極(従来の民党以上に民党的な、新民党)が誕生する要因であったとはいえるだろう。ただしこの2つの極は、対外硬派としては一致したから、薩長閥や自由党が左右から攻撃されたというわけではなかった。衆議院における自由党以外の勢力は、野党として、図②-Eの、2つの軸が交わる中央部分にある縦断勢力に対して、十字の周囲をくるくる回るように、その時々に有効であるような批判を加えることになるのであった。第4章で見るが、出自が薩長閥政府支持派の国民協会は、それに耐えられなかったのだと言える。

 

1党優位の傾向(③⑥⑦)~連携相手に関する優位勢力内の亀裂~

 

(準)与党の不振(④)~中央交渉部の分裂~

 

(準)与党の不振(④)~国民協会の結成~

 

(準)与党の不振(④⑥⑨⑩)~難しい立場に揺れる国民協会~

 

実業派の動き(④)~実業家中心の会派の誕生~

 

帝政ドイツとの差異(④)~実業家層と地主層~

 

第3極(⑤⑥⑧⑨⑩)~野党化した中立派の役割~

 

第3極(⑤⑥⑧)~紀州組の成功の後~

 

第3極実業派の動き(⑤⑥⑧⑨⑩)~2つの役割を巡る第3極の会派の分裂~

 

第3極実業派の動き(⑧)~中立派に現れた対外強硬派~

 

第3極(⑤⑨)~その投票行動~

 

キャスティングボート(準)与党の不振(⑤⑥⑧⑨⑩):自由党、立憲改進党、同盟倶楽部の合計はまだ過半数に5議席程度足りなかった。このため、中立の芝集会所→政務調査所は、準与党と野党の間でキャスティングボートを握ることができたが、国民協会の野党化(と自由党の準与党化)が進む状況下、その有効性は失われた。当時、新たにキャスティングボートを握り得る勢力があったとすれば、過半数を超えるものの、対外強硬姿勢以外に共通点の乏しい対外硬派にあって、ここから離脱する可能性が最も高い、一定規模の勢力であったといえる。それは、本来薩長閥政府支持派であり、政府の影響を断ち切ったとはいえない、国民協会であった。同派には、第3極としての要素があったのである。ただし同派の姿勢は、第2次伊藤内閣に積極的には協力しなかった山県の態度に影響を受けるものであった。小勢力(第3回総選挙後はそうであったといえる)でありながら、政府の中心(薩長閥)と最も関係が深いという、議院内閣制ではありえない存在であった国民協会は、日本の2大政党化に落とされた、影であったといえる。

 

1列の関係(⑥⑨):第2次伊藤内閣の成立は、長州閥伊藤系とのパイプについて、立憲改進党に優る自由党にとってチャンスであった。ただしそれは、準備をして待っていたチャンスであった。星らが野党的な姿勢を採る場合、それは薩長閥政府に自らの影響力を示すためであって、取り返しのつかない攻撃はしないよう、注意してのことであった。野党が衆議院で過半数を得ても、地租軽減に関する法案は貴族院で否決される可能性が高く、いくら政府に対して強硬姿勢を取っても、少なくとも短期的には、実現が困難であることが明らかになった。また、余剰金の使途(第1章⑧参照)を巡って、自党の主張と矛盾しない軍拡や産業振興に否定的にならざるを得なかった状況も、野党の立場を難しくしていた。一方で、物価の上昇によって、定めてある地価の2.5%であった地租の実質的負担が減ったこと、近代化の進展により、実現しそうにない地租軽減よりも、インフラ整備を求める有権者が増えていく。この状況への対応について、立憲改進党は自由党に先を越されたのである。また自由党には、選挙干渉がなければ定数の半数(以上)の議席を得られていたという見方もあり(自由党『党報』第33号21頁)、薩長閥と接近することが議席増につながるという、期待もあったと考えられる。

 

連結器(⑧):同盟倶楽部は、互いに対抗意識を持っていた2大民党の間に立って、その連携を助けていた。例えば第4回帝国議会では、内閣を不信任とする上奏案が可決された後、衆議院の休会によって内閣に対抗しようとする自由党と、審議を放棄する手法に否定的な立憲改進党の間の連絡役となった(1893年2月7日付東京朝日新聞)。地価修正派を多く含む同派が、中立から民党寄りに変わった背景は、以下であるといえる。明確な政策を持つ中立の場合、それがなかなか実現しなければ、実現を阻む勢力に批判的にならざるを得ない。この場合、地価修正を阻んだのは、薩長閥寄りの多い、貴族院の反対であった。また地価修正派は民党内にもおり、その主張は民党の地租軽減の要求と一体的なものとなっていった。以上により、地価修正派の野党化が進んだのである(所属議員角利助の『第三議会』等から窺える。1892年11月3日付の東京朝日新聞は、自由党と意見が同じことが多い溜池倶楽部が同党と同一の運動をなすに至る可能性があるとしている)。中立志向を残したまま野党となるということは、野党間の不毛な対立に与せず、これを調整することへとつながる。これは、野党陣営に順応しつつ、自らに存在意義があると示すことが可能な選択でもある。もちろん、政策を度外視して調整することがあれば問題だが、当時の野党間に、そのような状況を招き得る政策の差異があったとはいい難い。

 

野党第1党の分裂(⑦):自由党の準与党化が始まったばかりの時期の分裂であり、政権を獲得したわけでは当然なく、野党から与党になったことによる分裂という面は弱い。大井系には、長州閥に接近する星や土佐派に対抗して薩摩閥に接近したという面があったから、与党内の分断線に応じた分裂という、野党の分裂の1つの型を見出すことはできる。また東洋自由党は小勢力であったが、対外硬派の中心的な構成要素の1つであった。優位政党の離党者が野党側の中心的な勢力となる例は、後にも度々見られる。第2次大戦後では、政権運営の経験などによって優位政党が得た安定感がそうさせたのだが、優位政党から非優位の野党側へ、一定の有権者を移す働きによって、影響力を持てることも要因だといえる。しかし、東洋自由党の場合は、このような例に当てはまるとは、やはり言い難い。東洋自由党は、指導者の大井が自由党の別動隊を自負したように、離党者がしばしば持つ、「母体を正す」という主張を、少なくとも当初の東洋自由党も採っていたのである。

 

野党の2択(⑦):東洋自由党を結成した大井系は、薩摩閥とのさらなる接近と、野党色の強化という選択、つまり後の改進党系と同様の選択を迫られていた。薩摩閥主導の内閣が総辞職した後であり、大井への同調者が少なかったため、薩摩閥と大井系は互いに利用価値の低い状況にあった。一方で、第2次伊藤内閣の陸奥外務大臣が条約改正交渉を進展させたことは、陸奥-星に敗れ、対外強硬派の気質を持つ東洋自由党を、対外硬派の重要な位置に押し上げた。しかし、議席数が少なかった大井系は存在感を弱めていき、衆議院における同党の生き残りといえる新井章吾は、再度薩摩閥に寄ることとなる。同党の指導者であった大井はむしろ、普通選挙運動など、社会運動における役割を評価されている。

 

連結器(⑧⑪)~中国改進党結成の背景~

 

第3極(⑨):中立会派であった芝集会所の姿勢について、1892年12月4日付付東京朝日新聞は次のように報じている。他の党派についても報じられているが、省略する。

昨日午前九時より芝山内の同事務所に於て植田、岡崎、川越等の諸氏十餘名集會し今回政府提出の三税則に對し協議の末酒税、煙草の兩税に對してハ絶對的に反對することに決し所得税に付てハ會員の意見各派に分れたる爲め決定に至らず尚調査の上來る六日の常集會に於て恊議することに決せり

第2次伊藤内閣の増税の方針には、中立会派を敵側に追いやった面もあるといえる。

 

野党再編(⑩)~条約励行での野党・準野党団結~

 

1党優位の傾向(⑩):対外硬派が、外交問題優先の国権派等と、野党共闘優先の改進党系等から成り立っていたことは、同派の弱点であった。これは、優位政党に反発するために様々な勢力が合流し、その内部に旧党派の対立が持ち込まれるという、日本によく見られる傾向の一例である。ただし、自由党は当時まだ、優位政党と呼べるような政党ではなかった。それでも他の党派を引き離す規模の大政党ではあったというところである(この位置関係と規模が相まって自由党系を優位政党にするのだと言えるが、改めて述べる)。

 

第3極連結器(⑫)~同志倶楽部の同盟倶楽部への接近~

 

(準)与党の不振連結器(④⑩):国民協会でも、中央新聞を経営する実業家の面を持つ大岡育造(かつての自由党出身)は、内地雑居に反対ではなかった(米谷尚子「現行条約励行をめぐる国民協会の実業派と国権派―初期議会の対外硬派に関する一考察―」)が、やはり事業を営んでいた熊本国権党は、税権回復なき内地雑居は不利だとしていた(佐々博雄「熊本国権党系の実業振興策と対外活動―地域利益との関連を中心として―」)。和衷協同の詔勅より先、国民協会の大岡育造らは、官吏の俸給に課税し、それを建艦費に充てることを内容とする俸給税法案を提出していた(村瀬信一「吏党」『近代日本の政治構造』151頁)。薩長閥と民党の間に立ち得る、大成会時代の中立派という一面が表れたようにも見えるが、吏党系(国民協会)はすでに大成会であった当時よりも中立性を弱めており、このような提案は、少なくとも民党にとっては、薩長閥の側からの譲歩という性格を持つものであった。国民協会がこのような姿勢をとることで衆議院において重きをなす可能性は低かったといえる。しかも内閣のお墨付きのある提案ですらなかったから、民党が乗るはずはなく、法案は否決となった。

 

 

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