日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
第3章 ~1894年3月、第3回総選挙~

第3章 ~1894年3月、第3回総選挙~

① 選挙結果

自由党119、立憲改進党51、国民協会32、同志政社24、同盟政社19、

政務調査所5、無所属50、計300

第2次伊藤内閣は選挙干渉を基本的には行わなかった。結果は自由党が伸びて、第2回総選挙、及びその後の分裂で失った議席を取り戻した。国民協会は大きく減らした。他の対外硬派はおおむね現状維持の結果となり、対外硬派は自由党に対する優位を維持したものの、過半数を割った。これにより再度、対外硬派のような複数の党派の連携も含めて、過半数を超える勢力が存在しない状況となった。

 

② 対外硬派の新党派

犬養毅は1894年4月、他の岡山県選出議員を加え、中国改進党を中国進歩党に発展させた。同党の参加者は、第4回総選挙後の第7回帝国議会まで、会派上は進歩党に属した。同盟政社と同志政社は4月に統一会派、公同倶楽部を結成し、5月に新党、立憲革新党を結成することで、正式に合流した。旧大日本協会と政務調査所の当選者は会派、旧大日本協会・政務調査所派を形成した。また3月(総選挙後)には、大蔵官僚出身の実業家で、民党ともつながりのあった田口卯吉らが、帝国財政革新会を結成した。ただし、同党が衆議院に進出するのは第4回総選挙においてである(よって第4章で扱う)。

 

③ 新たな中立会派の結成

キャステングボートを握り得る状況となった中立の議員達は、会派の結成に動いた。しかし、発起人の一人であった檜山鉄三郎が、伊東巳代治、末松謙澄らの協議に基づいて作成された宣言書を、会派の主義、方針にしようとした。これは伊藤寄りとなることだといえ、そのことに反対の議員が参加を取りやめた。最初に参加を取りやめた議員達が湖月派を、次に参加を取りやめた議員達が独立倶楽部を、残った議員達が中立倶楽部を結成した(1894年5月6、8、9、11日付東京朝日新聞)。結成日は中立倶楽部が5月6日、他の2派は5月9日である。こうして、10議席程度の中立会派が3つ並立する状況となり、キャスティングボートの所在は明確にはならなかった。

 

④ 衆議院議長選挙

1894年5月、公同倶楽部の楠本衆議院議長が再選され、副議長には自由党の片岡健吉が選出された。対外硬派を1つのまとまりと見れば、これが議長を出し、これに続く勢力であった自由党が、副議長を出したことになる。

 

⑤ 対外硬派の攻勢

第6回帝国議会(特別会、1894年5~6月)が開かれると、対外硬派は衆議院の解散を批判、政府の外交姿勢を軟弱だと批判して、第2次伊藤内閣を弾効する上奏案を提出した。これは多数派工作の末、自由党、そして中立倶楽部の過半数が反対して否決に至った。しかし自由党は、衆議院の解散、不十分な行政改革と海軍改革を批判、和協の詔勅に基づく内閣と自由党の協力を促す意を含んだ(佐々木隆『日本の歴史21 明治人の力量』119頁)上奏案を、別に提出した。1894年度予算案が成立せず前年度のものが施行されることになったため、内閣は追加予算案を提出したが、これについては自由党も大幅に減額する姿勢であり、そのようになった。同党は第2次伊藤内閣を揺さぶるように、また党内の硬派を抑えるように、硬軟の姿勢を使い分けた。しかし自由党の上奏案には対外硬派によって、同派の主張に寄せる修正が加えられ、自由党が反対する中、1894年5月に可決された。このため伊藤総理は、再度の衆議院解散に踏み切った。

 

⑥ 日英通商航海条約締結

1894年7月、日英通商航海条約の締結により、日本政府は内地解放と引き換えに、領事裁判権の撤廃に成功した。その後、他の列強諸国とも同様の条約を結ぶこととなる。関税の一部引き上げは認められたものの、関税自主権の完全な回復による平等化の完成については、1910年の条約改正まで待つこととなる。

 

⑦ 日清開戦

1894年8月、日清戦争が始まり、開戦が対外硬派の主張に反するものでないこともあって、野党は政府に協力的になった。

 

 

補足~中立3会派分立の経緯~

 

 

図③-A:薩長閥政府と主要党派の対立関係の変化

図③-A:薩長閥政府と主要党派の対立関係の変化

 

 

(準)与党の不振(①)~国民協会の敗北~

 

2大民党制(①):自由党は中央交渉部の分裂によって、総選挙前から衆議院第1党の地位を得ていたし、立憲改進党は国民協会の激減により、以前からの第2党の地位に加え、衆議院の第2会派の地位を手に入れることとなった。つまり、準与党の不振が、民党と呼ばれていた差異に乏しい2つの野党を、2大政党としたのである。この2大民党系の議席占有率は以後、例外はあるものの、第2次大戦前最後の政党内閣、犬養政友会内閣期の総選挙まで上昇していく。

 

1党優位の傾向(①):立憲改進党が国民協会に変わって第2党となったことにより、対外硬派、それを支持する勢力における責任内閣、つまり政党内閣実現の主張が強くなる。それは国民協会、大手倶楽部の一部の考えとは異なる主張であり、対外硬派の一体性は弱くなった。相対的に地位の向上した立憲改進党であったが、もともと組織力では国民協会を上回っていた。そして何より対外硬派が過半数を割り、最大のパートナー(国民協会)が議席を大きく減らして、不安定さを増したのだから。立憲改進党にとって、状況が良くなったわけでは全くなかった。自らと大きく異なる勢力と組み、その風下に立つことは、当然ながらリスクが高い。しかし、その連携相手が議席を減らすこともまた、自らの議席がその分増えるというのでない限り、困ることだ。このような矛盾を抱えるのは、議席数が少ない非優位政党の宿命である。

 

1列の関係(①・議会開設後の吏党系を巡る状況)~国民協会敗北がもたらす変化~

 

第3極実業派の動き(①)~第3極・中立派の交代~

 

第3極1列の関係(①)~新たな中立派の出所Ⅰ、自由党の躍進~

 

第3極実業派の動き1列の関係(①)~長州閥伊藤系と第3回総選挙~

 

第3極・実業派の動き(①)~新たな中立派の出所Ⅱ~

 

第3極実業派の動き(①)~伊藤が期待した実業派の浮上~

 

第3極実業派の動きキャスティングボート(①③⑤)~中立派の投票行動~

 

第3極実業派の動き連結器(②)~2つの新党~

 

 

 

 

 

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