日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
1列の関係・(準)与党の不振(⑫、補足~貴族院会派~)~山県-桂系と立憲政友会、上院と下院ですみ分け~

1列の関係・(準)与党の不振(⑫、補足~貴族院会派~)~山県-桂系と立憲政友会、上院と下院ですみ分け~

山県-桂系と立憲政友会、上院と下院ですみ分け~:貴族院の伯、子、男爵議員の互選は情意投合の後であった。山県-桂系は立憲政友会の協力に助けられたこともあってか、自らが政権の中心を担っている時期に、つまり有利な時期に、有爵議員の選挙を迎えることができた(立憲政友会の協力がなかった場合、第2次桂内閣は互選の日まで、―安定的には―存続できなかったかも知れない。しかしだからと言って、山県-桂系と対立するような内閣ができていた可能性は高くはない)。そして山県-桂系は実際に、親政友会を含む他の勢力を弱らせたのである。ただし山県-桂系は、衆議院の総選挙については、立憲政友会中心の内閣の下で行われる事を許していた。であればこれも、両者のある種の協力関係の、範囲内の事だと捉える事ができる。それはつまり、山県-桂系が強い貴族院では立憲政友会(寄り)の議員が犠牲になり、立憲政友会が強い衆議院では、山県-桂系(寄り)の議員(中央倶楽部)が犠牲になるという事である。ただし立憲政友会の原敬は、貴族院の7、8人の欠員の分の2、3人、つまり半数程度を、立憲政友会の党員(記述は会員)から挙げる事を求めている((『原敬日記』第4巻246頁―1911年4月26日付―)。欠員の分の勅選議員を決める際に、立憲政友会に割り振るという事だと言えるが、桂がそれをやるか、桂が2,3人分を残しておいて、政友会内閣成立後に同内閣が決めるかは、どちらでも良いとしている)。原はこれを求める理由を、議員の向上心を養うためだとしている。向上心を養えるという事は、立憲政友会の衆議院議員等が、入閣まではできなくても、貴族院議員になれるという意味だ。貴族院は制度上は衆議院と対等であっても(むしろ予算案の先議権が衆議院にあった)、やはり格は上だったし、勅選議員には選挙もなかったから、十分目標になり得る地位であった(しかし8月25日付-同325頁-にもあるように、桂は「内約に背き」現任の次官等で補欠を埋めた)。少し後の事であるが、1911年7月3日付の原の日記には、次の事が記されている(同301頁)。原が、府県議員の選挙は、現内閣でも後継内閣(この時には第2次西園寺政友会内閣となることがほぼ決まっていた)でも良いが、現内閣なら立憲政友会は選挙に対する方針を変えないといけないと桂総理に述べた。それに対して桂は、「いや此選擧は君等の方にて施行する方宜しからん」と述べた。これは、選挙を薩長閥(の山県-桂系)の内閣で行うか、政友会内閣で行うかという、事実上の調整だ。

なお、情意投合は、桂総理が両院の立憲政友会所属議員を招待した午餐会で表明される形となったが、桂は、これに中央倶楽部の議員も招くことを原敬に提案し、断られている(『原敬日記』第4巻180~182頁-1911年1月28日付、29日付-)。同派の浅野順平、安東敏之は情意統合に反発し、安東は中央倶楽部を特別扱いするよう求めた(『財部彪日記』海軍次官時代上181頁-1911年1月29日付)。一方で原は、立憲政友会の主な幹部に次の事を内話している(『原敬日記』第4巻185頁-1911年2月6日付-)。桂が貴族院その他の官僚派の重立った者に、立憲政友会との協同の必要を説示中である事から、立憲政友会が予算案にあまり反対するのは将来の政局に不得策である。その前の、1月26日付の日記において原は、次の事を記している(『原敬日記』第4巻177~179頁)。桂が広軌化は後藤というより自分の発案であるため、通過を望んでいるとし、原は、政党員の立場を失わせては、政党が発達せず憲政の進歩にならないとした。これに桂は同意した。世論は広軌化反対に傾いており、これに賛成すれば立憲政友会の対面が傷つく。反対して否決させれば政府の対面が傷つく、よって賛否を表明せずに延期の方針を取る。藩閥、官僚は永久に存続するものではないが、今打破一掃すべきものではないから、桂のように大まかには一致するのは幸いで、彼の心中、周囲の事情がどうであれ、一新生面を開くしかない。これは、まさしく薩長閥と立憲政友会(自由党系)の取引きだ。同時に、先進国に遅れて立憲君主制を導入した日本が、安定を維持したまま民主化を進めるための、現実的な路線だという面もある。これに付随する事として、広軌化反対の民意にも色々ありえる。例えば消極財政税負担軽減の立場や、広軌化よりも既存の線路を広げる事が重要だする立場が、個人や地域のため、あるいは国家のために重要だとする立場だ。民意に応えるという事にも、単に利益誘導政治を進めるためだという理由は、含まれ得るのである。なお原は、官僚の残党が原らに反抗する事はあろうが、桂の英断によって表面には跡を絶つとしている。

1月29日の夜、桂総理は中央倶楽部の議員を官邸に招いている。その際浅野は、立憲政友会と中央倶楽部は一視同仁なのかと桂に迫り、江間は情意投合が立憲政友会を強め、弊害があると批判した。桂は立憲政友会との提携に条件はなく、同党の総裁になるつもりはないと答えた(1911年1月29日付財部彪日記1911。1.29―坂野潤治『明治国家の終焉』95頁―)。桂が立政友会の党首に就く事すら、予想されていたのである。中央俱楽部と立憲政友会が合流し、その合流新党の党首に桂が就くという予想ならまだしも(そういう予想もなかったとは言わないが)、これでは中央倶楽部の存在は意味がないかのようである。実際に同派は、第2次桂内閣の鉄道の広軌化を支持し、同内閣が延期を決断したらしたで、それも支持した。これはおかしなことだとまでは言えないものの、広軌化を支持していたのであれば、その延期には強硬にではなくても、反対するのが自然であったと言える。そうでなければ、(薩長閥系の、または山県-桂系の)内閣の決定であれば、何でも支持するという姿勢に見える。中央倶楽部が4月1日に発表した報告書では、立憲政友会の変節を批判する記述が中心となっている(1911年4月2日付東京朝日新聞)。中央倶楽部の焦りを見て取ることができると同時に、同派が大同倶楽部の一時期のように、立憲政友会と協力する可能性は、低かったようにも見える。しかし広軌化の延期で、立憲政友会と結果的にとはいっても一致した事を考えると、桂との関係さえ悪化しない限り、同派はついてくるものだと考えられるし、原もそう考えていたのだろう。

なお、情意投合の少し前、1910年12月11日付の原敬の日記からは、大浦兼武(中央倶楽部を率いていた人物だと言える)の苦しい状況がうかがわれる。大浦は桂と野田卯太郎(立憲政友会)の会談の内容を野田から、桂と原の会談の内容を桂から聞き出そうとしている。桂総理と一体的であれば、そのような事はしなくてもすむはずだ。さらに桂は大浦に、立憲政友会を敵としないだけでなく、さらに一歩進める考えであり、中央派(中央倶楽部)の議員いわれなき風説を流布して自分の進路を防ぐのははなはだ迷惑だとしている。そしてさらに、自分は中央派とは関係ないから、自分の意思を聞き入れないならそれまでだと、突き放すような言い方もしている(『原敬日記』第4巻142頁。あくまでも腹の記述によればだが)。

以上から、桂総理と立憲政友会のトップとの間で対等な取引きが成立しているような状況であり、吏党系(や薩長閥-寄り-の貴族院議員達)は、桂側の従属物以上のものではなかったと言える。中村弥六は、中央倶楽部員としては批評できないとしつつ、政府と政党の妥協は人心を惰気に終わらせるもので、憲法政治発展の一大障害になると批判している(1911年1月29日付東京朝日新聞)。これはどういう意味だろうか。国民の手の届かないところで強い政治勢力が手を組んでしまうと、国民も立憲主義国家のそれとして成長しないという事だろうか。戦後であれば、選挙の意味がなくなってしまうとも言える。しかし大日本帝国憲法下では、選挙結果が政治に与える影響はそもそも、日本国憲法下よりも小さかった。中村は民党にもいたことがあるが(大成会→巴倶楽部→同盟倶楽部→公同倶楽部→立憲革新党→進歩党→憲政党→憲政本党→中立倶楽部→戊申倶楽部と歩んでいる)、当時の吏党系議員の言葉だと思うと、単に自らの不遇への不満のように捉えたくなる。薩長閥が衆議院で吏党系を基盤とし、堂々と総選挙で立憲政友会と戦うべきだという事なら分かるが、そこまでの意図はないのだろう。

Translate »