日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
1列の関係・2大民党制(⑫)~立憲政友会より桂内閣の方が進歩的であるという面~

1列の関係・2大民党制(⑫)~立憲政友会より桂内閣の方が進歩的であるという面~

工場法案とは、職工の最低年齢を15才とする事や、女性の深夜就業、危険・有害業務への就業の禁止を定めた、労働者・年少者を保護するためのものであった。しかし例外も認められた(勅令によって適用を除外できた)。法案は、常時10人以上の職工を使用する工場に対象を限定していたが、衆議院ではむしろ、それが15人以上に修正された。立憲政友会が、経営者側に立ったためである。立憲政友会の前身の自由党~憲政党は、自由主義政党であった。政党内閣を目指す点でこそ、薩長閥より進歩的(左)であっても、現在で言えば保守に分類される勢力であった。一方の薩長閥は、それより保守的(右)だと言えるわけだが、政界の優位勢力であったからこそ、国民の不満が爆発しないよう、社会政策の実現を進めたのである。この点、立憲政友会はまだ与党経験が浅かったし、社会の一部分の代表という面が大きかった(今でも政党にはそういう面があるが、ある程度大きな政党ならば、表面上はそれを隠すものであるし、自らが度々政権を担えば、政権にまた就くため、政権を維持するためにも、国民全体の事を考えざるを得ない)。

工場法は、施行の期日を勅令で定める事となっており。施行は結局、5年後の2016年となる。桂は他にも貧困者への御内帑金の下賜(皇室からの給付金と言っても良いだろう)、恩賜財団済生会とその病院の創設を実現させている。そのための寄付も積極的に集めている。しかし一方で、戊申詔書のようなものも出すのわけである。戊申詔書とは1908年10月に出された、国民にその在り方を説くものであった(勤勉や倹約。小村寿太郎外務大臣、斎藤誠海軍大臣は反対していた)。第2次桂内閣はさらに、地方改良運動(財政再建・強化)を指導した。これは、日露戦後の混乱、個人主義的傾向、社会主義運動を抑えるものであった。現在の価値観で見る事はできないが、上から国民を抑えつけ、指導しようとするものであった事は確かだ。

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