日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
連結器(⑫他)~すでに役割を失っていた2大民党の連結器~

連結器(⑫他)~すでに役割を失っていた2大民党の連結器~

又新会残留派の松本恒之助は、もともと、三重県郡部から出身地である高知県の郡部に選挙区を移した大石正巳から後継指名を受けて、第8回総選挙に立候補した。当時は第1次桂内閣期であり、松本は、立憲政友会の尾崎行雄と憲政本党の大石を引き合わせ(両者は元々改進党系だが、尾崎が離党して立憲政友会の結成に参加した)、両党の連合を実現させ、超然内閣(政党を無視する、あるいは特定の政党と組まない、特定の政党に偏らない、非政党内閣)を追い込む事を目指していたようだ(谷口裕信「松本恒之助の政治活動―代議士時代を中心に―」)。しかしこの時は松本は落選し、第9回総選挙において津市選挙区から出馬し、当選者死去による繰り上げで、初当選した。しかしその頃にはすでに、立憲政友会と憲政本党が組むのは(さらに)難しくなっていた。自由党系と改進党系は互いに対抗心を持っており、さらに、協力しては決裂するという事を繰り返していたのだ。だからこそ、間に連結器となる党派が入ることが必要なのだが、それが有効に機能し難いほどに、自由党系(立憲政友会)と改進党系(憲政本党)の力の差が大きかった。自由党系の関心は改進党系よりも薩長閥にあり、薩長閥に力を見せつけることで、政権を得ようとしていた(この段階までは、立憲政友会と憲政本党の一時的な連携もあり得なくはなかったが、それは自由党系が改進党系を、一方的に利用するという事に他ならなかった)。自由党系はそれを実現させられるだけの議席を持っていたから、それを本格的に目指すようになったとも言える。松本も、当時はもはや連結器の役割を果たそうとする意欲は持っていなかったようで、彼は又新会に残留し、憲政会の結成までは、又新会(同志研究会系)の流れを汲んで独自に存在し続ける、筆者が新民党に分類する会派に参加していた。

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