日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
野党第1党の分裂・1党優位の傾向(⑫)~再編後にも離党者がでる第2党~

野党第1党の分裂・1党優位の傾向(⑫)~再編後にも離党者がでる第2党~

立憲国民党からは、その結成後、1911年2月15日に田川大吉郎、3月8日に木下謙次郎、同18日に佐藤庫喜、7月10日に石郷岡文吉、市田兵七、竹内清明が離党した(田川のみ又新会出身、他は憲政本党出身)。木下と佐藤は大分県選出であった。大分県には市部選挙区がなく、定数6の郡部選挙区を投じ、立憲政友会と憲政本党で3ずつ分け合っていた。その3名中の2名が離党したのである(他の1人は党の領袖の一人であったと言える箕浦)。7月の離党者は立憲政友会への移動であった。結成後、早期に離党者が続出するというのは、実に深刻だ。しかし当時は、元又新会小合同派の鈴木力などが離党する可能性、改革派と非改革派に分裂する可能性について報じられていた(例えば1911年2月26日付東京朝日新聞-鈴木は、立憲国民党が多士済々だと言っても、時代に遠ざかっている多士済々であって、今日に適応するにはあまりに旧式だとしている。また、立憲政友会の野党的な議員も糾合し、完全無欠の民党を結成したいという事も述べたという-、同3月15日付、4月20日付)。それを考えると、実際には6人の離党に留まったというのは、結成時の議席の約6.5パーセントではあるが、最悪の状況が回避されていたともし得る。

立憲国民党から離党者が出たことの背景には、全体をまとめる有力な指導者がいなかった事、党の展望が開けていなかった事があったと考えられる。田川は第27議会における党の態度決定が遅いことを離党の理由に挙げていたが、1911年2月15日付の東京朝日新聞は、それは表面上の理由で、実際には立憲政友会入りしようとしていると報じている。木下は党の動揺を宣伝したということで除名に至った(2月26日付東京朝日新聞。『安達謙蔵自叙伝』によれば、時期は明確にされていないものの、安達はこの頃、あるいはこの前後、木下、加藤政之助に接近した-118頁-)。実際には、田川は又新会系(同志研究会系)に戻るような形となり、中正会から憲政会の結成に参加している。木下は第11回総選挙後、立憲同志会の結成に参加する。佐藤は第9,10回総選挙のみの当選である。

なお、4月20日付の同紙は、立憲国民党の大浦系である加藤政之助、大熊三之助、鹿島秀麿、水野正巳、内藤利八、大津淳一郎、国井庫、天野董平、三浦逸平らが、離党を揚言して幹部に意見書を提出しようとしていた事を報じている(三浦のみ又新会出身)。ただし水野、内藤、鹿島は、選挙区の兵庫県全体で動くという申し合わせがあるなど、上の議員や他の官僚派が選挙区事情からすぐには動かないと見て、実際には数名のみが、「各本人の腹の据方一つ」で行動するとしている。実際に、彼らはこの当時離党していない。

青森県内選出の石郷岡(弘前市)、市田(郡部)、清水(郡部)の立憲国民党離党、立憲政友会入りは、全県的な動きであった。憲政本党の県支部では、第10回総選挙の頃から内紛があった。そこに立憲政友会が手を入れ、県支部が解散し、全て立憲政友会入りしたのだ(1911年7月13日付東京朝日新聞参照)。その内紛、経緯は次の通りであるが、前提として述べておくと、当時青森県選出の衆議院議員は、青森市が立憲政友会、弘前市が立憲国民党(石郷岡)、郡部が立憲政友会1名、立憲国民党3名(小山内、市田、竹内)であった。さて、弘前市で石郷岡が同市有力者の小山勝太郎と組んで、同市選出の「老代議士」菊池九郎を引退に追い込んだ(当時は立候補制ではないが、不出馬に至ったと言える)。小山内鉄弥(1905年より弘前市長)は、小山と組んで弘前市長再選を果たした。そして小山は弘前市から衆院選に立候補する事を決めた。同市選出の現職であった石郷岡がこの事に不満を持ち、小山、小山内らと、西郷岡らとの対立が生じ、小山内派が青森県支部を離れるような形となった(小山内は1911年11月に死去、立憲政友会の寺井純司が補選で当選)。これ以前に、青森県南部の市田兵七(郡部選出)と石郷岡の関係が感情的に悪化し、本部から合田福四郎が出張して融和させていた。石郷岡は竹内清明(郡部選出衆議院議員)、そして菊池と組んで、菊池を弘前市長にした(1911年4月当選。菊池は以前、同市の初代市町であった)。立憲国民党本部は、幹事不信任問題●もあり、また領袖が遊説に追われていた事から、つまり余裕がなく、この対立について冷淡であった。立憲政友会はこの状況、そして大政党であり、立憲国民党よりも政権に近いことを武器に、対立相手だけが立憲政友会入りするという事態になる事を恐れさせ、2名の衆議院議員と弘前市長を有する石郷岡派の方を吸収した(※)。これは自由党系(立憲政友会)にとっては、「取り戻した」という面もあった。青森県の立憲国民党の地盤は、元をたどれば自由党のものであったのだ(7月13日付東京朝日新聞でも触れられている)。ところが自由党の離党者が同志倶楽部を結成し((第2章⑫、野党第1党の分裂新与党の分裂(⑫)~同志俱楽部の結成~第3極連結器(⑫)~同志倶楽部の同盟倶楽部への接近~参照)、同志倶楽部を結成した。これが同盟倶楽部と合流して立憲革新党となり、立憲改進党と合流して進歩党を結成したのだ(進歩党の後継政党は憲政本党である)。青森県では、第6回総選挙(憲政本党結成はこの総選挙の後)までは4人の衆議院議員が選出されていた。そのうち第2回総選挙後の1人を除いて、全て、この自由党系→同志倶楽部→立憲革新党→進歩党→憲政党(自由党と進歩党が合流したもの)→憲政本党→三四倶楽部という流れの上にある(上述の菊池も、大同倶楽部→立憲自由党の時代に衆議院議員となり、この動きをし、憲政本党に復党している)。憲政本党離党者が三四倶楽部を結成した事で、青森県は全衆議院議員が三四倶楽部の所属となり、同派が解散すると、議員等の復党の動きもあり、青森県ではまた、憲政本党が強くなった。この三四倶楽部には、立憲政友会への合流の噂もあった(第6章第3極1党優位の傾向(⑱)~憲政本党と三四倶楽部~参照)。これが今回実現したと、見る事もできるのだ。

※ 1911年7月13日付の東京朝日新聞でも述べられている。また、1911年7月4日付の日記(『原敬日記』第4巻306頁)で立憲政友会の原は、青森県は政友3:国民7だが、1両年前から同県の立憲国民党員は、同党がどうにもならない事を認め、県のためにも国政のためにも、立憲政友会に入りたがっているとしている。そして7日付の日記(同307頁)には、青森県の両院議員、前衆議院議員、県参事会員の入会届(入党届)を、竹内と菊池が持参した事が記されている。非優位政党のままではどうにもならないというのは、現在でも聞かれる話だ。与野党、あるいは優位非優位が固定化すれば、理念に大きな違いがない限り(あるいはあっても)、強い方へと議員が移動する事が、(日本の場合は)残念ながらあるのである。

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