1-03歴史上一度だけの政権交代1.政権交代論

民主制が成功しているように見える、まやかしの政権交代の数々

約130年前に帝国議会が開設されてからの政権交代(筆者が「まともな」だと定義しているものに限らない)の一覧をここに掲載する。しかし読み飛ばして頂いて構わない。有権者が選択したものではない例がほとんどだということ、重要な政権交代は失敗に終わっていることを言うために挙げておくだけだからだ。

なお、上に述べた筆者の考えに基づき、戦前は薩長閥(藩閥)、立憲政友会、戦後は自由民主党に対する挑戦者という面を持つ政党が政権を得た場合を1回とし、それが元に戻った場合は1回とカウントしないこととした。煩雑さが少しは解消される措置にもなっていると思う。

補足をしておくと、戦前、つまり大日本帝国憲法下は、天皇が総理大臣を決めていた。しかし独断ではなく、天皇はむしろ元老の意見に沿って決めていた。元老とは明治維新の功労者達で、それまでの政変もあり、長州閥と薩摩閥の有力者達が就いていた(ただし、憲法等に明記されている役職ではなかった)。政争で敗れた土佐藩出身の板垣退助らが自由党を、肥前藩出身の大隈重信らが立憲改進党を結成したこともあり、元老は政党に否定的で、長州閥、薩摩閥が中心の内閣を、内閣制となった1985年から、1998年まで継続させた。

さて、まずは、元老等の推薦を得ることで、天皇が総理大臣を決めていた戦前を見る。

①第3次伊藤内閣(薩長閥―伊藤系―内閣)→第1次大隈内閣(自由党と進歩党が合流した憲政党の内閣)

・・・憲政党は結成時から衆議院の過半数を大きく上回っており、当時政権の要職を占めていた薩長閥の伊藤博文が、同党に政権を渡さざるを得なくなった。次の総選挙で憲政党はさらに議席を増やしたが、内輪もめによって党が崩壊し、政権を失った。

②第2次山県内閣(薩長閥-山県系-内閣)→第4次伊藤内閣(立憲政友会内閣)

・・・政党に否定的な、薩長閥の大物であった山県有朋が首相であった当時、伊藤博文系や自由党の系譜が合流して立憲政友会を結成した。同党は結成時から衆議院の過半数を上回っており、また薩長閥の大物と衆議院第1党が合流した政党として、他の政党を圧倒する存在であった。同党結成後、山県は伊藤に総理を譲り、立憲政友会中心の内閣が成立した。しかし党の内輪もめ(自由党系と非自由党系の渡辺蔵相の対立)によって崩壊した。

③第1次桂内閣(薩長閥-山県系-内閣)→第1次西園寺内閣(立憲政友会内閣)

・・・衆議院第1党の地位を確かなものとしていた立憲政友会を無視できない桂(山県系)が、同党総裁の西園寺に、自らの内閣への協力と引き換えに政権を譲渡した。

④第2次桂内閣(薩長閥-山県系-内閣)→第2次西園寺内閣(立憲政友会内閣)

・・・③と同様。

⑤第3次桂内閣(薩長閥-山県系-内閣)→第1次山本内閣(薩摩閥と立憲政友会の連立的な内閣)

・・・第3次桂内閣を護憲運動によって倒した第1党の立憲政友会と第2党の立憲国民党(立憲改進党の本流)であったが、次の首相が薩摩閥の山本に決まると、立憲政友会は与党となって山本に協力をした。一方、政党の結成を決断した桂に乗った立憲国民党の約半数、従来の薩長閥支持勢力等が合流して新たな第2党、立憲同志会を結成した。この再編で立憲国民党は第2党の地位を失った。第1次山本内閣は、収賄事件のために総辞職をした。

⑥第1次山本内閣(薩摩閥と立憲政友会の連立的な内閣)→第2次大隈内閣(立憲同志会中心)

・・・これは薩長閥の元老の動きによって成立した内閣であり、「元に戻った政権交代」という面も持つ。しかし桂が死去し、改革派の色を帯びた立憲同志会が与党第1党、当時は衆議院における最も左の勢力とされていた中正会が与党第2党と呼び得る状態になったことから、1回としてカウントした。立憲同志会は次の総選挙で第1党となり、内閣支持派が過半数を得たが、元老の支持を失って総辞職し、山県系内閣といえる、寺内内閣が成立した。

⑦寺内内閣(山県系内閣)→原内閣(立憲政友会内閣)

・・・政党を無視できなくなっていた山県が立憲政友会内閣を承認したことで、同党に政権が移った。ただし、政権交代前も政権交代後も立憲政友会は衆議院第1党であった。原内閣は安定したが、原が暗殺され、後継者の高橋是清が総理大臣になると、立憲政友会の内部対立が激しくなり、高橋是清内閣は総辞職をした。

⑧清浦奎吾内閣(非政党内閣)→第1次加藤高明内閣(憲政会、立憲政友会等の連立内閣)

・・・薩長閥系の非政党内閣に反対する3党が、総選挙で過半数を上回ったことで、元老となっていた西園寺の推奏によって政権交代が実現した。総選挙の結果が直接政権交代をもたらしたのだといる、初めての政権交代であった。しかし3党の合計議席は、総選挙の前から過半数を大きく上回っており、総選挙では2議席しか増えていなかった。第1次加藤高明内閣は、連立与党間の対立によって憲政会(立憲民政党へと発展)の単独内閣となった。

※総選挙の前は議席の多い順に政友本党、立憲政友会、憲政会であったのが、総選挙によって憲政会、政友本党、立憲政友会という順になった。たしかに非政党内閣を支持した政友本党が第2党に落ち、非政党内閣を批判していた憲政会が第1党になるという変化はあったが、当時は政友本党と、護憲三派(立憲政友会、憲政会、革新倶楽部)の戦いであったから、有権者が第1党を交代させて政権交代に結びつけたというのには無理がある。そもそも憲政会の浮上も、立憲政友会が政友本党と残留者に、真っ二つに割れたことで可能となった面が大きい。

⑨第1次若槻内閣(立憲民政党内閣)→田中義一内閣(立憲政友会内閣)

・・・民政党内閣が失政によって総辞職した後、元老の西園寺が政友会総裁の田中義一を天皇に推奏し、政友会内閣が成立した。当時第2党であった立憲政友会は、総選挙で第1党となった。

⑩田中義一内閣(立憲政友会内閣)→濱口内閣(立憲民政党内閣)

・・・⑨の反対の事象であり、立憲民政党は総選挙で過半数を上回る第1党となった。

⑪第2次若槻内閣(立憲民政党内閣)→犬養内閣(立憲政友会内閣)

・・・⑩の反対の事象である。

 

犬養内閣は犬養も殺された五.一五事件によって総辞職、政党内閣の時代に幕が下りた。その後は、薩長閥の流れを汲むという面もある軍人や官僚の内閣が続いた。そこで次に戦後、第一次吉田内閣の成立によって、政党内閣が復活した後について見る。この政党内閣復活を通し番号で⑫とし、⑬からを見ていく。

⑬第1次吉田内閣(日本自由党中心)→片山内閣(日本社会党中心)

・・・総選挙で日本社会党が衆議院第3党から第1党になった。総選挙の前も後も日本自由党、民主党、日本社会党が並び立つ状況で、その他中規模、小規模の政党、無所属の当選者も多く、政権の枠組みが有権者に示された上で行われた総選挙だとは言い難かった。また日本社会党が議席を伸ばしても、保守対革新という区分で大雑把に見れば、保守派(日本自由党や民主党)が革新派をはるかに上回る議席数であるという点は、自由民主党が万年与党、日本社会党が万年野党であった五十五年体制下と変わらない。保守が分裂していたために社会党が第1党となったが、片山内閣期には、与党第2党の民主党から、野党第1党の日本自由党側に移る議員が続出した。内閣自体は社会党の内輪もめによって崩壊、同じ3党によるものの、首相を民主党が出した芦田内閣も疑獄事件で総辞職をし(日本社会党と日本民主党の内部不統一も深刻であった)、自由党中心の内閣に戻った。

⑭第5次吉田内閣(自由党内閣)→第1次鳩山一郎内閣(日本民主党内閣)

・・・衆議院第1党であった自由党から、鳩山派等が離党し、第2党の改進党と合流して日本民主党を結成した。第2党となった同党が左右両派社会党と倒閣に限定した協力体制をつくり、総選挙を経ずに、自らの単独政権への、政権交代を実現した。次の総選挙では日本民主党が第1党となったが、過半数には遠く及ばず、自由党と合流、自由民主党を結成した(自民党の誕生である)。

⑮宮沢内閣(自由民主党内閣)→細川内閣(非自民・非共産のほぼ全党による連立内閣)

・・・自民党の小沢一郎らの造反によって、野党の内閣不信任案が可決された。そして小沢らは自民党を離党し、同党は衆議院の過半数を下回った。総選挙が行われても、自民党が圧倒的な第1党だが過半数には届いていないという状況は全く変わらず、野党による細川連立内閣が誕生した。しかし細川内閣では新与党間の激しい対立が起こった。首相の献金不正処理疑惑を追及されると内閣は総辞職、次にほぼ羽田非自民・非共産連立内閣が成立したが、その過程で日本社会党が政権から離脱、自由民主党等と連立を組む、村山内閣を成立させた(この村山自社さ内閣の成立で自民党は与党に戻り、次の橋下内閣の成立によって総理大臣の地位も奪還したことから、村山内閣の成立を、自民党政権に戻ったものと捉え、政権交代に含めなかった)。

⑯麻生内閣(自由民主党・公明党内閣)→鳩山由紀夫内閣(民主党・社会民主党・国民新党内閣)

・・・総選挙によって、単独で過半数を上回る衆議院第1党が、自由民主党から民主党に入れ替わり、政権交代が実現した。しかし民主党内閣は迷走し、鳩山内閣では社会民主党が連立を離脱、後継の菅内閣(民主党・国民新党内閣)は、民主党内の不統一のために倒れ、後継の野田内閣では、民主党も国民新党も分裂し、2012年の総選挙で、両党とも壊滅的な敗北を喫し、自公連立内閣が復活した。

 

以上がこれまでの政権交代である。このうち、⑬と⑯が以前挙げた例であり、さらにそのうち、⑯のみが、有権者の判断によって政権が交代した例だといえるのである。

もう一つ、注目すべき点がある。政党内閣、議院内閣制の実現、政権交代のある政治の実現のための第一歩となるような重要な政権交代が、いずれも失敗に終わったことである。

次に詳しく述べるが、ここで補足をしておきたい。本格的な政権交代が一度しかなかったから、野党に転落した優位政党が与党に戻るということも、選挙結果に基づくものとしては、一度だけであった(厳密にはイコールではないが、実際に2012年の自民党の1回だけである)。そして(奇跡的に)与党になったものの、野党に戻った非優位政党は、一度もない。これについては、本格的な政権交代という条件を外しても、同じようなものである。これでは、党の理念、指導者、組織、政策、戦略を点検し、自力で立ち直るという希望を持つことが難しい。もちろん先例も皆無である。本格的な政権交代が定着しなければいけないわけだが、このようなマイナス要因があることを、政治家も国民も、知っておかなければいけないと思う。

 

「政権交代」後の失敗をなぜ、何度も何度も繰り返したのか →