1-03歴史上一度だけの政権交代1.政権交代論

「政権交代」後の失敗をなぜ、何度も何度も繰り返したのか

日本が経験した16回の政権交代を挙げた。そのうちの①(第3次伊藤内閣→第1次大隈内閣)、②(第2次山県内閣→第4次伊藤内閣)、⑧(清浦内閣→第1次加藤高明内閣)⑬(第1次吉田内閣→片山内閣)、⑮(宮沢内閣→細川内閣・次の羽田内閣)は与党内の対立のため、いずれも1年半以内に崩壊している。

たった4つの例なのではない。これらは全て、非常に重要な政権交代であった。①は薩長閥政府が降参し、初めて日本に政党内閣が誕生した政権交代、②は薩長閥の中心人物であった山県の勢力と、立憲政友会(薩長閥のもう一人の中心人物であった伊藤博文が自由党の系譜と合流して政党を結成したもの)が交互に政権を担うようになった、約14年間(1898年11月成立の第2次山県内閣から1912年12月総辞職の第三次桂内閣、後ろにもっと長く見て取ることもできる)における初めての政権交代、⑧は政党内閣期の幕開け、⑬は初めて社会(民主)主義政党が政権の中心を担った政権交代、⑮は自民党結成以後初めての政権交代であった。有権者が選択したとはいえなくても、民主化、政権交代可能な政治への移行のための重要な転機となった政権交代である。同様の⑯(麻生内閣から民主党への政権交代)も、鳩山由紀夫内閣が約8ヶ月で総辞職、民主党政権自体も合計約3年3ケ月で幕を下ろした。なお、日本社会党を社会(民主)主義政党と記しているわけだが、それは同党が社会主義政党であるのか、社会民主主義政党であるのか、はっきりしなかったからである。以後も同様に記す。

ここまで見て来たことの中には、重要な点が2つ含まれている。1つは、政権交代のある議院内閣制へと進む過程において、その契機となり得る政権交代が、新与党の内紛によってことごとく失敗し、その歩みを遅らせてきたことだ。もう1つは、①と②で失敗をした自由党の系譜と立憲改進党の系譜、特に前者が、過ちを繰り返しながら徐々に安定していき、政権の担い手に成長したことだ。政権の担い手となった自由党の系譜は優位政党になった。次の通りであるが、読み飛ばして頂いても問題はない。

第1回総選挙:自由党系(立憲自由党→自由党)が立憲改進党よりずっと多い議席を獲得。

第4回総選挙後:立憲改進党が再編によって進歩党となり、自由党と並ぶ議席数に。

第6回総選挙前後:自由党と進歩党が合流した憲政党が衆議院に圧倒的に多くの議席を持っていたが、その中でも第6回総選挙では、進歩党系が自由党系より多くの議席を得た。さらに旧自由党系が憲政党を脱して憲政党を結成したため、旧進歩党系等の憲政本党よりも議席数が少なくなった。

第6回総選挙後:憲政党(自由党系)が伊藤系と合流して立憲政友会を結成した際、他の全政党、会派から参加者が現れたため、立憲政友会は衆議院の過半数を上回る優位政党に。その後、離党者が続出して過半数を割るも、入復党者や総選挙によって過半数を回復、基本的には優位政党の地位を守り続けた。

第13回総選挙後:立憲政友会から半数以上の議員が離党して政友本党を結成、第1党が政友本党、第2党が立憲政友会、第3党が憲政会(2つに分かれた改進党系の一方等)、第4党がそれらより小さい革新倶楽部(2つに分かれた改進党系のもう一方)。優位政党は存在しなくなった。

第14回総選挙:第1党が憲政会、第2党が政友本党、第3党が立憲政友会になり(護憲三派の勝利)、憲政会と立憲政友会と革新倶楽部の連立内閣が成立。

第14回総選挙後:立憲政友会が革新倶楽部の多くなどを吸収して連立を離脱。憲政会の単独内閣となり、政友本党は憲政会と立憲政友会の間をフラフラ、憲政会内閣の失政によって立憲政友会は議席を獲得。政友本党は憲政会と合流して立憲民政党を結成、その前後、離党者がでて立憲政友会に合流。この再編により、立憲政友会と立憲民政党がほぼ互角の勢力となり、交互に政権を担うようになった。

終戦後:総力戦体制のために解散していた政党が復活する際、改進党系でありながら自由党系の流れの一部も加わった日本進歩党が圧倒的に多くの議席を持つ状況となった。しかし公職追放の影響が一番大きかったため、結局、自由党系の流れの一部を汲む日本自由党が第1党になった。その後も、日本進歩党は民主党を結成して第1党の地位を取り戻したが、総選挙や日本社会党との連立による動揺で、結局、日本自由党→民主自由党→自由党と、民主党の離党者を吸収して発展した自由党系が優位政党になった。自由党が分裂し、以前とは反対に自由党の離党者と合流した改進党系(日本進歩党→民主党→国民民主党→改進党→日本民主党)が自由党と並ぶ勢力となり、政権も得た(第1次鳩山一郎内閣)。しかし衆議院の過半数を上回っていたわけではなく、分裂していた左右両派が合流へと向かっていた日本社会党に対抗するため、日本民主党と自由党が合流して自由民主党を結成、この自民党が基本的には今日まで、優位政党の地位を守っている。

要は、優位政党であることが多かった自由党の系譜に改進党の系譜が合わさり、共に1つの優位政党となったのだ(その中では、やはり自由党の系譜の優位が確立し、2001年まで基本的には維持された)。

結論を述べる。再編や失敗を繰り返した勢力が政権の担い手に成長したという変化の経験があるにもかかわらず、それに対抗しようとする政党に同じような機会を、日本の有権者が与えないこと(1度は与えても、その失敗を見て2度と与えようとしない)が問題なのである。このため、1つの勢力が優位にある状況が、変化しなかったのである。

自由党の系譜に政権担当の機会を与えたのは、それを支えた有権者の多数派と、皮肉にも、首相を事実上決める権利を持っていた元老であった。薩長閥の支配層でもあった元老達は政党を否定していたのだが、その勢力の大きさ、それによる強さを目の当たりにし、考えを変えていったのである。

しかし戦後の日本には、元老はいない。有権者が同じ第2党に複数回機会を与えない限り、第2党に政権担当能力は備わらないのである。

最後に、上に挙げた重要な政権交代の失敗の概要をまとめておく。同じく読み飛ばして頂いて構わないが、上に述べたことを補足する、面白い傾向が見て取れる。

・①第1次大隈内閣の失敗:自由党と進歩党という第1、2党が合流した憲政党による内閣であったが、旧自由党系と旧進歩党系の対立の果てに前者が憲政党を解党、再度憲政党を結成し、内務大臣を出していたことを利用して、旧進歩党系による憲政党の名称使用を阻み進歩党は憲政本党を結成した。この分裂で内閣は存続できなくなったのだが、以上の事態の裏には、薩長閥の山県系の動きもあり、第2次山県内閣が成立した。

・②第4次伊藤内閣の失敗:自由党系や伊藤系が合流した立憲政友会は、当時の状況下、緊縮財政政策を採らざるを得なかった。しかし、伊藤系の大蔵大臣が、本来積極財政志向の旧自由党系が受け入れられないほどの緊縮政策をほぼ独断で採用しようとしたことに、自由党系のみならず、自由党系に配慮した伊藤系の多くの反発を招いた。そして総理大臣の力が弱かった当時の制度の影響もあって、閣内不統一のため内閣が総辞職、山県系中心の第1次桂内閣が成立した。

・⑧第1次加藤高明内閣の失敗:政権を獲得した憲政会、立憲政友会(大分裂後の残部)、革新倶楽部であったが、憲政会が中心であることに不満を持っていた立憲政友会が、資金難にあった革新倶楽部の多くなどを吸収し、拡大した上で連立を離脱、このために第一次加藤高明内閣が総辞職を決め、第2次加藤高明内閣が、憲政会単独内閣として成立、多数派形成に苦しみながら政権を運営した。(加藤は再度総理大臣に任命されたものの、辞表が受理されていないことから、加藤高明内閣を第1次と第2次に分けないという捉え方もある)

・⑬片山内閣の失敗:与党第1党の日本社会党、与党第2党の民主党の一致が難しかっただけではなく、それぞれの内部もまとまらず、両党から離党者が多く出て分派も発生し、総辞職するに至った。

・⑮細川、羽田両内閣の失敗:総選挙で半減したとはいえ、日本社会党はなお第2党であった。しかし政権担当能力については疑問が持たれていた。また党首同士の関係が良かった日本新党と新党さきがけは共に、なお衆議院第1党であった自民党との連立に含みを持たせていた。それでは非自民・非共産勢力が過半数に届かず、その勢力の主導権を握っていた新生党の小沢一郎代表幹事が日本新党の細川護熙代表を彼らの総理大臣候補にし、左派が連立政権参加に消極的であった日本社会党の土井たか子元委員長を衆議院議長候補とした。こうして非自民・非共産のほぼ全ての政党、会派の連立政権(細川内閣)が成立した。しかし政策や主導権を巡って、新生党・公明党と、日本社会党・新党さきがけの対立が起こった。結局細川総理をはじめ、他の与党が小沢に従ったため、首相の献金不正処理疑惑で野党の追及を受けていた細川内閣の総辞職を機に、新党さきがけが閣外協力に転じた。残りの与党、自民党からの新たな離党者の協力によって羽田内閣が成立した。しかしその過程において、日本社会党を除く多くの与党が統一会派を結成し、それをはっきり知らされていなかった日本社会党が閣外に出て、社さ両党は事実上の野党となった。両党は少数与党内閣となった羽田政権を存続不能にし、自民党と連立政権を発足させた。つまり、やっとのことで万年与党の地位から引きずり降ろした自民党を、1年もせずに与党に戻した。

・⑯民主党政権の失敗:民主党、社会民主党、国民新党による鳩山由紀夫内閣が、正式な選挙公約ではなく、鳩山由紀夫民主党代表が個人的に唱えた普天間基地の県外移設を進めることができず、総辞職した。同内閣が県外移設を断念した段階で、これを支持していた社会民主党が連立離脱を決めた。そしてその後の菅、野田両内閣は、民主党の政権公約と異なる消費税の増税、TPP参加へと動いた。これに反発する多くの議員達が民主党を離党して、国民の生活が第一、みどりの風を結成したり、日本維新の会に移ったりした。また民主党の方針転換に反発した国民新党の亀井静香代表が連立離脱を決めたが、入閣していた議員等が連立残留を望み、同党は分裂した。そのような状況下で迎えた総選挙において、両党は壊滅的な敗北を喫した。

頭が痛くなるが、ここに挙げた例には傾向があり、それが分かると意外とすっきりはする。

戦前は、他の勢力と共に政権を握った自由党系が、その、他の勢力ともめて、半ば自ら政権を降りたというパターンが多い。①と⑧がそうであるし、残る一つである②も、自由党系と伊藤系の溝が一つの形となって表れたものである。伊藤系の中でも、薩長閥の出身でなく、②の時に旧自由党系に積極的に同調した原は、自由党系の星、松田と共に立憲政友会の中心人物となった。一方で伊藤は、立憲政友会を②から約2年後に去った。つまりいずれのケースにおいても、自由党系は野党に転落しながら、有権者からの支持を維持し、それによる議席数の力を背景に、ついに単独政権を手にした(もちろん立憲政友会には伊藤系も一部残り、星亨、松田正久の死去、尾崎行雄の離党によって指導者は原に一本化された。それでも、そういえると思う)。

戦後はどうか、⑬と⑯は与党第1党となった日本社会党の系譜(民主党もこれに含まれる)の、内部分裂を最大の原因として崩壊した。⑮は、与党第1党の日本社会党等と、与党第2党の新生党等との対立によって、崩壊した。その際、日本社会党内には右派と左派の対立が見られた(改めて述べる)。そしてもう一つ、日本社会党が首相を出した村山内閣、同党が連立に加わった、次の第1次橋本内閣(双方とも自社さ連立政権)の間、日本社会党は同じく与党であった片山内閣期、芦田内閣期、細川内閣期、連立政権に戻るか否かが問題となった羽田内閣期と同様、左派と右派の政策、路線を巡る対立のために揺れた。そして真っ二つに分裂するに至った。残留派は総選挙で半減し、閣外協力に転じた。

つまり戦後は、政見についた社会(民主)主義政党が、内部対立と、他の与党との対立、主に前者のために政権を降り、有権者の信頼を失ったのである。戦前との相違は、主語が自由主義政党ではなく社会(民主)主義政党であったこと、戦後の後者が、戦前の前者と違い、有権者の信頼を失ったことである。

しかし他の先進国の国民は、自由主義政党の次に、社会民主主義政党を育てた。確かに、日本の社会(民主)主義政党は、現実的ではなく、日本社会党に限っては、社会主義政党(「民主」がつかない)の性格を残していた。しかし、自由主義政党も社会民主主義政党も、必要だからこそ、多くの先進国で育ったのである(アメリカでは民主党が、社会民主主義政党の主張を取り入れている)。日本は特殊だから不要なのだと言っても良いのだろうか。慎重に考えなければならない。

日本人は政権を得た日本社会党~民主党に失望する度、同党とその分派を総選挙で大惨敗に追い込み、かわりに日本共産党を躍進させて来た。かといって、日本共産党を、日本社会党~民主党に代わる、第2党に育てる意志は持たなかった。一度政権交代があってもそれが有効に機能せず、1党優位制の維持が許され、また何十年かすると、同じ社会党の系譜がちょっとだけ政権を取る。という状況が永続することになりかねない。というか、そうなっている。非生産的に過ぎるループだと思う。