日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
戦前の政権交代は順序が逆だった

戦前の政権交代は順序が逆だった

戦前は天皇が総理大臣を選ぶ制度であったから、そもそも国民は政権選択をしようがなかった。それでも民主化は進んだ。だからこそ、戦後の本格的な民主化が容易に進んだという面もある。しかし残念ながら、国民が自ら政権を選択するという、民主制の根幹については、まだまだである。これは、戦前からの政治文化が存続しているのだといえる。それについて見てみよう。

大日本帝国の時代、2大政党が交互に政権を担当した時期がある。昭和初期の約8年間だ。具体的には、1924年6月成立の第1次加藤高明内閣から、1932年5月に五.一五事件により総辞職した犬養内閣までである。ただし、加藤高明内閣期は、3大政党(憲政会、立憲政友会、そして立憲政友会の離党者達による政友本党)+小政党、小会派という勢力分野であった。それでも、憲政会→立憲民政党と立憲政友会が交互に政権を担当するようになったスタート地点であるため、含めた。立憲政友会は、第2次加藤高明内閣(憲政会内閣)に代わって政権を担い、憲政会は政友本党と合流して立憲民政党を結成した。同党が結成された1926年6月に、正確には2大政党制に準ずるものとなった。「準ずる」としなければならないのは、これから述べる、当時の政権交代の特徴が、国語辞典で見る「二代政党制」と一致していないためである。

そう、この政党内閣期の政権交代には大きな特徴があったのである。当時の政権交代のプロセスを見ると、次の通りである。

A党内閣が行き詰まり総辞職をする

→元老がB党の党首を次の総理大臣候補として天皇に推薦する

→天皇が第2党であるB党の党首を総理大臣にする

(※現代であれば、総理大臣等を替えて、第1党であるA党の内閣が続くのが基本)

→B党は衆議院第2党であるため、B党内閣は過半数を得ようと、衆議院を解散する(厳密には天皇に解散をさせる)

→総選挙で新与党、つまりB党が第1党となる(多くの場合過半数を上回る)

以上である。そして次は、A党とB党を入れ替えて、上のプロセスが再び起こる。つまり有権者は、元老が選んだ政権を追認しているだけであった。ここが大事だ。日本人は与党を勝たせ続けたのである。前の政権が失政に倒れ、新たな内閣については、評価するには早すぎる段階で選挙になるのだから、当然だと言うこともできる(第16回総選挙では与党立憲政友会による選挙干渉の中、立憲民政党が1議席差にまで迫ったが)。しかし自ら選び取るという経験は、蓄積されないことになる(第16回総選挙後も、結局立憲民政党から多くの離党者が出て立憲政友会に移った)。また、政権交代が失政によるものであったことは間違いないが、元非優位政党の憲政会(改進党系の一方)の第1次若槻内閣には、薩長閥の牙城とも言われた枢密院の協力を得られなくて倒れたという面もある。その点を重視すると、政権交代の定着が、薩長閥の系譜によって阻まれたという面も多少はあるのだ(当時、元老の中心であったのは薩長閥の出身ではない西園寺公望であった。西園寺は立憲政友会の元総裁であり、同党中心の内閣で2度首相を務めたものの、政党内閣期には、憲政会→立憲民政党を、より評価していた)。

政党は、そう未熟でなくとも、露骨な足の引っ張り合いを、する時にはするものである。しかし上の政権交代のシステムでは、相手の内閣を総辞職に追い込めば、不利な野党として総選挙を戦うリスクなしに自らの政権が誕生する。そして選挙を管轄する内務大臣のポストも得て、安心して衆議院を解散させられる。「安心して」というのは、日本では総選挙において、2大政党のうち、政権に近い方が有利であったからだ(政党が政権の中心であった第6、10、11、12、14回総選挙、そしてここで述べている政党内閣期の第16、17、18回総選挙では全て、与党が勝利していた―第16回総選挙は1議席差のきわどい結果であったが、第2党の離党者を大量に加えて乗り切った―)。戦前の2大政党は足の引っ張り合いが特に激しく、国民を幻滅させ、また政党内閣以外の内閣が許されていた(というより、そもそも政党内閣の出現を回避し、回避できなくても与党の力を強くさせないよう、内閣、衆議院の影響力を抑える分権的な制度設計がなされていた)から、政党を中心としない内閣が簡単に復活した。

なお、辞書を引くと、「二大政党制」は、総選挙によって多数派が入れ替わり、政権が交代することを条件としていることが多い。つまり、戦前の日本の、第1次加藤高明内閣から犬養内閣までの政党内閣期は、不完全な2代政党制なのだ。おまけで2大政党制とされているに過ぎないのである。

ここで見た政権交代はしかし、日本ならではのものではない。実は、民主化の一過程として、イギリスも経験したものであった。だがイギリス人は、自らが政権を選ぶことにこだわった。国王が選んだB党政権を拒み、総選挙でA党を勝たせ、A党政権に戻した。

1834年のことである。ホイッグ(後の自由党)内閣の総理大臣メルバーンは、前任の推薦があって総理大臣となったが、党内左派の閣僚起用に反対した国王に更迭された。続いてピール保守党内閣が成立したが、翌年の総選挙では、ホイッグが第1党、保守党が第2党という結果が出た。有権者が、国王の成立させた政権ではなく、前の政権を支持したのである。議会を乗り切れなくなった内閣は総辞職をし、国王は第2次メルバーン内閣を成立させざるを得なかった。また1868年の総選挙では、成立して日の浅いディズレーリ内閣の与党保守党が自由党に敗北し(ただし前内閣も保守党内閣であり、保守党は総選挙前から、第2党以下の主要勢力が合流してできた自由党より議席は少なかった)、グラッドストン自由党内閣が成立した。

日本と違って失政があったわけではない。しかし戦前の日本人がイギリス人とは反対に、内閣の失政ばかりを問題にして、自ら政権を選ぶことを軽視していた点は、今と似ているという印象も持つ。そもそも、与党を野に下らせるべきほどの失政であるかどうかは、主観の問題である。その判断の機会を、戦前の日本の有権者は、政党内閣期にすら、得ることが出来なかったのである。その後で新内閣の是非を問われるのは、それに前内閣の是非と表裏の面があるとは言っても、それだけではないから、困るはずだ。だから当時の日本の有権者を、責めることはできない。しかし、それで良かったとすることも、もちろんできないわけである。

イギリスの例を日本に当てはめるなら、元老の反発によって内閣が倒れ、新内閣が迎えた総選挙で、新内閣の与党が旧与党に敗北し、元老が旧与党に政権を再び担わせることを余儀なくされた、といったところだ。日本でも、政党中心の内閣が元老の意に沿わないことをするということはあった。例えば第1次西園寺内閣の郡制廃止案提出や、第2次大隈内閣の対華二十一箇条の要求だ。双方とも時の与党は、政権を降りる(降ろされたともいえる)前に総選挙を迎え、与党として勝利している。だが、第1次西園寺内閣も、第2次大隈内閣も、総選挙において与党が勝利したにも関わらず、その後、元老の支持を失ったことで総辞職を余儀なくされた。そして双方のケースで、次に元老の山県の派閥が中心となった内閣が成立した。次の内閣は、前者では第2次桂内閣である。同内閣は衆議院を解散しないまま、再び西園寺(立憲政友会)に政権を譲った。後者では寺内内閣であり、衆議院を解散し、前与党の立憲同志会を中心に結成された憲政会が、総選挙で敗北した。それぞれ異なる展開ではあるが、元老の影響による政権没収のような内閣交代が、総選挙によって直接否定されることはなかったのである。

国民が立ち上がった例はある。第1次護憲運動と第2次護憲運動だ。前者は、第2次西園寺内閣の中心となっていた立憲政友会が総選挙で勝利(議席は1減ったが過半数を維持)した直後、陸軍大臣の辞任によって内閣が総辞職を余儀なくされ、山県系中心の第3次桂内閣が成立したことに対して起こった。第3次桂内閣はこの運動で倒れたものの、次には薩摩閥と立憲政友会の協力内閣ができて、それも汚職事件で倒れ(国民の反発も背景にあった)、元老が大隈を推薦したことで、立憲同志会中心の内閣ができた。そうとう省略して書いているし、それでも、あるいはそれで分かりにくくなっていることもあるだろうが、要は、非民主的な政権交代に対して、選挙で有権者の審判が下されるというところまでは、いかなかったということである。

後者の第2次護憲運動は、高橋是清内閣が倒れてから非政党内閣が続いたことに対して起こり、上に見たように護憲三派が総選挙で勝利した。これによって政党内閣の復活が実現したのだが、護憲三派が総選挙の前から衆議院の過半数を大きく上回っていたため、有権者が自分の手で政治を動かしたという面が弱かったのである(ただし、立憲政友会残留派も、離党者による政友本党も議席を減らし、新内閣は、立憲政友会と革新倶楽部との連立ではあっても、憲政会中心のものとなった)。イギリスでは1868年、与党保守党が総選挙で敗れ、自由党内閣が成立した。総選挙の結果が直接政権交代をもたらす、前例がつくられたのである(それまでにも、総選挙で与党が第2党に落ちるなど少数となり、重要法案が通らなくなった結果、政権交代が起こるということはあった。しかし、しばらくそのようなことすらなくなり、与党が勝利する総選挙が続いていた-与党の分裂によって政権交代が起こった例はあり、それは政策の相違を背景としたものであった-詳しくは『他国の政党・政党史』イギリス参照-)。

以上の結論を言えば、薩長閥や政党が動くことで状況がどんどん変わり、脇に追いやられたままであった有権者は、意思表示をしにくい状況にあったのである。

ここで述べておかなければならないのは、帝国議会開設当初、日本の有権者が野党を勝たせていたことである。これまでに見たことと矛盾するようだが、そうではない。制度上、衆議院において多数派とならなくても政権を獲得、維持することが出来た薩長閥は、衆議院においては野党(板垣の自由党と大隈の立憲改進党の系譜)が多数派になることを、第1回総選挙の前から見越して、衆議院での勝負を避けたのである。一度は選挙干渉で自らの支持派を第1会派にすることに成功した(第2回総選挙後)が、衆議院で戦わないためにも政党を評価しなかったことで、自らの支持派も無所属議員中心の会派に留まり、その一部は政党となったものの、総選挙で勝つのに十分な組織力を持つことができなかった。与党対野党という構図が満足にない状況下、有権者の多くが野党に票を投じたと言っても、それは地元の有力者に投じたという面が大きく、薩長閥と野党のうち、後者を、自らの手で多数派にしたとまでは言い難い。

そして自由党の系譜(立憲自由党→自由党→憲政党―分裂後―→立憲政友会)が、与党か、薩長閥政府の支持派であることが多くなると、有権者は、結成時から優位政党の資質を持っていた同党を、1回の例外を除いて第1党にし続けた。

その1回の例外というのは、立憲同志会を与党第1党とする第2次大隈内閣期の第12回総選挙である。ここでは立憲同志会が勝った。つまり、自由党の系譜が完全に野党である時は、時の与党が勝ったのである。そして上に見た、時の与党が勝つ政党内閣期に突入するのである。その契機となった第14回総選挙では、総選挙の前から、護憲三派が多数派であったこともすでに述べた。

イギリスの有権者のようには、問われるべきタイミングで総意を問われず、何より選挙に関する経験が浅かった日本の有権者は、イギリスの有権者のようには、政権選択を重要視して投票をしなかった。

イギリスでは日本と同じく、総理大臣を選ぶのは国王であった。しかし、国王は国民の選択を尊重せざるを得なくなり、有権者が政権を選択するという、今の民主的な形が事実上定まったのである。下院の総選挙で第1党となった政党の党首を総理大臣にするという慣例である。日本人は外圧による憲法改正によって、いわば強引に政権を選ぶ機会をつかまされたものの(いや、強引につかまされたからか)、機会を有効に活用していない。

他国と比較した以上、補足しなければならないことがある。政権交代が定着はしていても、国民が政権を選べないに近い国もある、ということについてだ。例えば2つの民族から成り立っている場合、多数派の民族を代表する政党が万年与党になる可能性がある(双方が混在していれば大部分の選挙区で勝つだろうし、そうでなくても、合計で常に過半数を上回る可能性が高い)。そうすれば国内の溝が深刻なものとなり、不満を持った方が反乱を起こすかも知れない。そのようなリスクを抱えた国において、それを避けるために主要政党全てが恒常的な協力体制を築いている場合がある(スイスでは、閣僚よりも大きな権限を持たない大統領を、恒常的に連立を組んでいる主要政党が、1年ごとに交代で出している)。これは仕方のないことだろうし、日本の様に1つの政党がほとんど常に、圧倒的に優位にあるのとは違う。

次に、比例代表制が採られている場合に比較的多いのが、選挙の結果が出ないと連立政権の枠組みが決まらないというケースだ。終戦直後の日本も、比例性がやや高い選挙制度(中選挙区制、1回は大選挙区制)であったこともあり、そうであった(その後始まった冷戦に準じて自民党が結成され、万年与党になったと言う面がある)。これについて筆者は、問題なしとしない。しかし少なくとも2つの政党に、第1党となる可能性があり、その2党が自らに近い政党と組むというのであれば、ある程度予想はできるし、良いと思う(そのような状況が定着すれば、選挙前に政党の連合ができている状態―2、3の大きなブロックが対峙する状態―になる)。権力をに握るためならどの党とでも組むという状況になれば問題であり、そうなる可能性も低くはないということで、問題もあるということだ。ただし、どんな選挙制度でも長所と短所があるのであり、比例代表制について単に短所を強調するのではなく、短所を小さくする工夫や努力をするべきなのだ。

 

戦後初、総選挙の結果を踏まえた政権交代の問題点→

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