1-03歴史上一度だけの政権交代1.政権交代論

戦後初、総選挙の結果を踏まえた政権交代の問題点

ここで、まともな政権交代とはし得ない、つまり有権者が政権を選択したとはいえないと評価した、第23回総選挙後の政権交代を、その前後の状況と合わせて見ていく。日本の議会史上初めて、社会(民主)主義政党が第1党となった総選挙である。他の先進国であれば、以後、保守政党(従来の保守政党か自由主義政党、または双方が合流したもの)と、穏健化した左派政党(社会民主主義政党)が交互に政権を担うことになるはずのところ、そうならなかったのはなぜだろうか。この疑問を解く上でも重要な事象である。見ていこう。

戦後、日本はアメリカの圧力の下、国会議員が総理大臣を選ぶ制度に変わった。そう変わってから、つまり日本国憲法が施行されてから初めて迎えた第23回総選挙では、第1党が入れ替わり、政権交代が実現した。筆者は以前、総選挙の結果に基づく政権交代に、この例を含めていた。つまりそのような政権交代が2回あったと考えていたのである。しかし、国民が政権を選択したとするには無理があると考えるに至った。説明したいが、その前に確認しておかなければならないことがある。

比例代表制を採用している先進国では、総選挙の結果が出て見ないと、政権がどのような枠組みになるか分からないことがある。つまり有権者は政党を選んではいても、政権を選択しているとまではいえない場合があり、これが民主主義的でないというわけではない。しかしそのような場合でも、政党の規模、政党間の距離から、第1党がその地位を維持する場合、第2党が第1党になる場合に、それぞれどのような連立政権が誕生するのか大まかには予想可能である場合が多い(このところそうでない例が多くなっているが、改めて述べる)。

しかし、日本の第23回総選挙は、そのような先進国の状況とは遠い。それをこれから見るのだが、明治以来続く「重要時には挙国一致で」という慣習が残っていて、総選挙の後にも、全主要政党による連立政権が目指されていたことも念頭に置いて見ていく必要がある。なお、比例代表制の先進国について述べたが、当時の日本は3~5人区において候補者1人の氏名を記す中選挙区制(大選挙区単記制)であった。比例性の高い選挙制度であったが、いわゆる比例代表制ではなかった。

さて、当時の状況は複雑なので、とりあえず整理する。

第22回総選挙:日本自由党140、日本進歩党94、日本社会党93、日本協同党14

→自由党の吉田茂を総理大臣とする、自由、進歩両党連立内閣が成立

→日本進歩党と芦田均ら自由党の一部、国民協同党(日本協同党の後継)の一部が民主党を結成

→自由、進歩両党連立は自動的に、自由、民主両党の連立政権に

→衆議院解散当日の議席数:民主党145、日本自由党140、日本社会党98、国民協同党63

→第23回総選挙:日本社会党143、日本自由党131、民主党126、国民協同党31

→日本社会党の片山哲を総理大臣とする、社会、民主、国協連立政権が成立

→片山内閣が総辞職、連立を維持したまま、民主党の芦田均が総理大臣に

→日本自由党が民主党の離党者を吸収し、衆議院第1党の民主自由党を結成(政党の議席数が社会>自由>民主から民自>社会>民主に)

→芦田内閣が総辞職し、吉田茂の民主自由党内閣が成立

→第24回総選挙:民主自由党264、民主党69、日本社会党48

…民主自由党が過半数を獲得、日本共産党が4から35議席に

→民主党も日本社会党も大きく2つに割れて、民主党の一方は民主自由党と合流して自由党を結成

非常にややこしいが、これこそが問題で、有権者は自らの投票がどのような影響をもたらすのか、そしてもたらしたのか、よく分からない状況に置かれたのである。そのような問題を招いた点を1つずつ見るが、読み飛ばして頂いても問題はない。

 

①総選挙の前に第1党が入れ替わっている。

政権交代が起こった第23回総選挙の前に、与党第1党(日本自由党)が、党内の反主流の大物(芦田均)を切り崩されたことなどによって、第2党になってしまっている。

 

②政権交代の後も前も、総選挙前の第1党=総選挙後の第3党が、政権に参加している。

これは、例えば自民党と連立を組む公明党が、民進党が政権をとったら今度は民進党と組む、というような感じだ(もし仮にそのようなことになれば、節操がないと言われるだろう)。しかし当時の民主党は、公明党と比べるには大きすぎる。何より、再編によるものであったとしても、総選挙前の、衆議院における与党第1党である。これが引き続き政権に参加しているのだから、実態がどうであれ、政権が交代したという面は小さくなる。

 

③日本自由党と民主党の関係が良くなかった。

両党は連立与党であったが、戦後の混沌とした状況の中の、挙国一致ならぬ「挙保守一致」政権であった。しかし政策等を共にするものでも、すり合わせたものでもなく、前後の経緯を見ると、社会党を排除するための連立でもなかった。つまり、とりあえず組んでいたという域を出ていなかったのである。だからこそ、与党第2党が与党第1党を切り崩すなどということができたのだろう。

 

④総選挙後の政権の枠組みが示されていなかった。

これについては、詳述する必要はないだろう。総選挙後、社会主義の日本社会党左派と組まないという選択をした日本自由党は間違っていなかった。第1党の日本社会党が首相を出すということも、間違っていなかった。そうであれば、民主党が連立に参加するしか、衆議院に過半数の基盤の与党を持つ政権は誕生し得なかったのだということになる。しかし、少数内閣になっても総選挙前に提示されていない連立政権を避け、日本社会党単独内閣を誕生させるという道はあった。また、日本自由党と民主党が合流するか、または総選挙前に連立政権を組むことを謳い、(事実上の)第1党となって政権を担うという道もあった。そうであれば、誕生した政権について有権者に責任があると言われても、当時の有権者もまだ、納得がいったであろう。

 

⑤総選挙前に3大政党の議席数の差が比較的小さかった。

このこと自体に問題はない。しかし①、③、④と合わせて、どの政党が中心となる、どのような枠組みの政権が選択肢としてあるのかということを、分かりにくくさせてしまっていたといえる。

 

⑥3大政党の議席数の差が、総選挙前よりも小さくなった。

確かに日本社会党は総選挙で第1党となったのだが、保守対革新(右対左)で見れば、五十五年体制下と同じく、前者がずっと多かった。日本社会党は確かに衆議院第1党になった。しかし過半数には遠く及ばず、衆議院の多数派になったわけではなかったのだ。社会党は自らに民主党と国民協同党を加えた内閣の成立を実現させたが、それは政策が近いからというわけではなかった。確かに、日本自由党よりは両党の方が日本社会党に近かったが、主要4党による挙国一致内閣構想から、日本自由党が離れたのだという面の方が大きかった。同党の離脱には、自党と日本社会党の左派とが相容れないという、主義、政策の面があったから、政権が成立する過程に、政策が無関係であったわけではない。しかし、各党の主義、政策を中心に政権が形成されたとは言い難い。もし仮に、政策が近い政党同士が組んで多数派を形成する場合、日本自由党と民主党の連立政権が成立するべきであった。社会、民主、国恊3党は、日本自由党よりも、国が経済に介入することを志向していたが、その後の歴史を見れば分かる通り、やはり社会主義にこだわる左派を含む日本社会党と、他の政党の差異の方が大きかった。しかし民主、自由両党は連立政権をつくることを予告していたわけではなかったから、両党が連立を組む場合、それが衆議院で最も大きな勢力となるものの、有権者が最大勢力に選んだ日本社会党が野党になるという、問題が起こる。第23回総選挙の結果とは、そのような曖昧なものであったのだ。

 

番外:それではなぜ、そのような結果になってしまったのだろうか。確かに日本人は保守的であり、戦後の社会(民主)主義勢力の急伸にも、限界があった。しかし、当時の中選挙区制にも大きな原因がある。繰り返しとなるが、中選挙区制とは、基本的には3~5人区において、有権者が1名の候補に票を投じる仕組みである。日本自由党、日本進歩党→民主党、日本社会党、その他の政党・無所属が対等であれば、全勢力が同水準の議席数となる(支持基盤の地域的な偏りなどを度外視死した場合)。しかしその中で日本社会党(とその他に含めた日本共産党)は戦後になって議席を伸ばした勢力である。日本社会党の系譜は確かに、戦前から衆議院に議席を持っていたが、最大で、466議席中の36議席であった。1924年から続く中選挙区制では、自由党の系譜の議員や改進党の系譜の議員が、それぞれ強い地盤を形成していた。それぞれの議員は1つの選挙区に1名とは全く限らなかったから、戦前は男子、戦後は完全な普通選挙制となっても、そこに社会民主主義政党が割って入る隙は、なかなか無かった。それでも躍進して、やっと自由党の系譜、改進党の系譜と渡り合えるようになったばかりであった。1つの選挙区における候補者を増やせば共倒れのリスクがあり、特に都市部以外では保守系の議員の地盤が強く、急伸には限界があったのである。

中選挙区制についてはまた述べるとして、イギリスについて少し触れたい。イギリスでは、保守党と自由党が議席の多くを占める状態から、日本よりも早く社会民主主主義政党であった労働党が台頭し、自由党が没落した。そして保守党と労働党を担い手とする、新しい2大政党制へと変化した。しかし、それは1、2回の選挙によって成し遂げられたわけではない。なお、この間はイギリスにも、戦時下の挙国一致内閣の形勢があった。ただし参加派と不参加派に割れる政党があった。

 

⑦政権交代後、与党第1、2党の議員が続々と離党した

片山、芦田両内閣期、民主党からは、日本社会党との連立に反対の議員達が離党した。その背景には、党首となった芦田に対する、日本進歩党以来の議員達の反発もあった。日本社会党からは、保守系の政党との妥協に批判的な左派の一部が離党しただけではなく、右派同士の主導権争いの中、右派の一部も離党した。

 

⑧総選挙を経ずに、総理大臣が日本社会党の片山哲から、民主党の芦田均に代わった。

日本社会党、民主党、国民協同党の3党連立の枠組みは維持されたが、総選挙を経ずに総理大臣が変わったのである。政権のたらいまわしであった。しかも芦田均は、当時の総理大臣吉田茂が党首を務めていた日本自由党を脱して、民主党の結成に参加した議員であった。第1次吉田内閣の与党であった日本自由党から、第1次吉田内閣、次の片山内閣の両方で与党であった日本進歩党の系譜に移り、そこで総理大臣となったのである(日本自由党を離党し、日本進歩党等と民主党を結成)。この移動は政策を軸にしたものだとは言い難かった。

 

⑨総選挙を経ずに、日本自由党の系譜が衆議院第1党となった

日本自由党に、民主党離党者による民主クラブが合流して民主自由党を結成、これにより自由党の系譜は、衆議院第1党に返り咲いた。民主党の議員達が続々自由党の系譜に移り、結局は自由党系と民主党系(改進党系または進歩党系)が自民党を結成した。国民協同党の系譜はその間に民主党の残部と合流していた。このことから分かるように、日本社会党・民主党・国民協同党連立政権対、野党日本自由党という構図には、日本社会党対、日本自由党・民主党・国民協同党という構図が重なっていたといえる。分かりにくい矛盾と、それを解消するための、やはり分かりにくく、有権者の手が届かない次元での、再編があったのである。

 

⑩芦田内閣が疑獄事件のために総辞職した際、日本社会党、民主党、国民協同党の3党が、次の総理大臣の地位を、民主自由党の吉田茂に渡さないために、同じ民主自由党の山崎猛を総理大臣にした、4党連立内閣をつくろうとした。

これについては、現在から振り返って、より客観的に見ることができる我々でさえ、判断に迷う。有権者が第1党にしたのは日本社会党だが、当時の衆議院第1党は民主自由党になっており、革新全体よりも保守全体の方が議席が多いことに変わりはない。誰を総理大臣にするべきだろうか? 悩むところだが、ポイントは、民主自由党吉田支持派の総理大臣候補(吉田茂)も旧連立3党と民主自由党の一部の総理大臣候補(山崎猛)も、民主自由党の議員であったということだ。いくら第23回総選挙後の多数派であっても、あるいは、どうせ第23回総選挙で有権者に提示されたのではない多数派であるからといって、他党の、党首でもない人物を担ぐのは問題だ。社会、民主、国協連立政権に問題があったことは事実であり、本来は民意が問われるべきだが、そうでないのなら、戦前の政党内閣期ではないが、せめて、野党第1党の党首を務める吉田が総理大臣になるべきであった。そして山崎が、まさにこの問題のために衆議院議員を辞して、戦後の制度上総理大臣になれなくなったため、実際にも吉田が総理大臣となった(第2次吉田茂内閣、民主自由党単独政権)。

 

①、③、④、特に③、④は、有権者が判断を下すことを難しくした。そして➀、②、⑦、⑧、⑨、⑩は、有権者の判断の意義を弱めるものであり、次の第24回総選挙において、有権者を悩ます事象であった。⑥は、そのような中で形となった、有権者の総意に関する問題点である。敗戦後間もなくの苦しい時代、自分達の手の届かないところで、これだけ目まぐるしい離合集散があり、各政党の名称、議席数、そして位置関係が変化したのだから、有権者が状況を把握することは至難の業であったはずだ。それでも敢えて、有権者の投票行動を問題にしたいと思う。ただしそれは、第23回総選挙ではなく、次の第24回総選挙についてである。民主党も大敗したが、日本社会党をあそこまで負かせるものかと思うのだ。与党第1党であった政党が、466のうちの、わずか48議席である。

これをなぜ問題視するかと言えば、有権者が実績によって支持政党を変えることは当然だとしても、自由党や民主党と社会党とでは、代弁する有権者の層、志向が大きく異なるからだ。社会党が議席を減らすのは良いが、あそこまで減るというのは、本来社会党が代弁すべき労働者の声、社会(民主)主義を志向する有権者の声が政治に届かなくなる危険性が高まるということである。確かに共産党は議席を増やしたが、最も左で孤立していた共産党には限界があったし、何より社共両党の合計議席ですら、総選挙前の社会党の合計議席を大きく下回った(総選挙前社会党111、総選挙2党合計83、日本社会党の分派も含めると総選挙前143、総選挙後95)。そもそも、共産党が社会民主主義を志向する有権者の声を代弁できるはずはなく、社共両党が自由党と民主党のように協力し得るかも不透明であった。左派の陣営がより混乱することは目に見えていたのである。あの選挙結果は選択肢の破壊以外のものではなかったのだ。

このことを言うと、与党が2議席というとんでもない少数に転落したカナダの例はどうなのだと言われる。カナダは進歩保守党と自由党の2大政党制から、多党化が多少進む状況にあった。それが1993年、総選挙で、2大政党の一方であった進歩保守党がわずか2議席となったのだ。

もちろん有権者の支持を失った進歩保守党に問題があり、自由党への政権交代は評価すべきである。しかし壊滅した進歩保守党の代わりに躍進したのは、ケベック州の独立を主張するケベック連合と、西部諸州の保守派が結成し、極右政党の性格も備えた改革党であった。以上には、進歩保守党政権が、ケベック州の独自性等を憲法に盛り込もうとして失敗したことなどが背景にあるのだが、国内の分断、しかも状況を決定的に変えることはない分断が進んだのだから、有権者も意義に乏しい分断を、ただ深刻化させたのだと言わざるを得ない。

自力での党勢回復を果たせなかった進歩保守党は改革党の系譜と合流し、保守党を結成することで再起を図るしかなかった。極右政党、ポピュリズム政党の性格を持つ勢力が勢いを強めている現在、考えさせられる事象である。保守党において極端な主張は後退していたし、一定の有権者の支持を得る政党を、極右政党だと頭ごなしに否定することはいけない。しかし進歩保守党については、もう少し良い「負かせ方」があったのではないかと思う(結果が極端になりやすい小選挙区制であったことは分かっていて)。なお、ケベック連合は2011年の総選挙で惨敗し、現在も復調の傾向をほとんど見せていない。良い悪いは別として、変化も分断も中途半端なものであったということがわかる。

日本の第24回総選挙に一度話を戻す。この総選挙では、政権を獲得して以後初めての総選挙を迎える前に日本社会党が分裂(最右派が社会革新党を、最左派が労働者農民党を結成)、そして迎えた総選挙でそれらがボロ負け、日本共産党が躍進・・・。この状況、見覚えがないだろうか。最近の民主党政権崩壊の時とそっくりなのだ。さらに社会党が首相を出した村山内閣総辞職後の状況ともよく似ている(双方の場合と異なるのは、第24回総選挙の時にはすでに、社会党が野党となっていたことである)。

日本社会党、その流れを汲む民主党が政権をとった、つまり保守政党以外の政党が政権を握った歴史上わずか3回の例が、全て、その政党の分裂、総選挙惨敗、より左の共産党の躍進、保守勢力が左派勢力に対して圧倒的に優位にある状況の回復という点で、一致しているのだ。こんな国は少なくとも先進国の中には見当たらない。真の政権交代が日本で定着しないのも無理はない。

日本社会党、民主党を総選挙で惨敗させたこと、それは国民の少なくない部分を代表していた政党を、本来の規模を大きく下回る議席数に貶めたということだ。それは有権者だけによってなされたのではない。いずれの例もその前に、日本社会党、民主党の分裂があった。しかし分裂したからといって、離党者、残留派の双方を見捨てるのであれば、自民党もとっくに壊滅しているはずだ。やはり日本人は野党、特に経験の浅い左派政党に厳しすぎると思う。

では、どうすればよかったというのか。これこそが大事な点である。筆者は、残留派を支持し続けることが重要であったのだと考えている。

確かに離党者にも正義はあったし、むしろ離党者が筋を通したという場合が多かったといえる面もある(このことを含め日本社会党、民主党の分裂については改めて述べる)。しかし日本の左派政党に足りないのは、現実的になることと、妥協を受け入れるやわらかい心だ。

たとえ公約違反であっても、言うことを言った後には党の決定に従うべきである。公約違反に対する審判は、選挙において有権者が下す。その党内の決定が民主的でない場合には、党改革に全力を尽くし、成否に関係なく結果を受け入れる。後は有権者が判断する。それでよいのだ。与党の経験が乏しい政党が与党第1党になれば、政策に変化が起こることは避けられない(民主党政権の様な、党のリーダーが変わることによる激変も、この未熟さの問題に含まれる)。大切なのは、必要な変化であるのか、不必要な変化であるのか、議論をし、それを有権者に見せることである。それによって、「良い政党になった」とするのか、「裏切られた面はあるが仕方がないことだ」とするのか、「間違った方向に進んでいる」とするのか、有権者に判断材料を与えるのだ(もちろん、有権者にも必要な変化を受け入れることが求められる)。党が変わったと嘆く左派、以前の党の決定について、本当は反対であったと言い訳をする右派。ここから出て来る離党者が新党を結成しても、それが政権を担い得る規模、バランス感覚を備える政党になることは難しい。分裂したのに結局は協力しているということも多々あるが、そのようなことでは、よほど説得力のある説明がなされない限り、有権者の不信を強くしてしまう。

分裂をすれば、よほど意味のある分裂でない限り、出ていった方も残った方も、その合計も、分裂前より弱くなる。特に、離党者による新党が活路を見出すということは、これまでほとんどなかった(離党者の数の方が多いという場合ですら、半々といったところだろう)。それではあまりに不毛だから、辛抱強い残留派が勢力を回復し、離党者による新党は消滅するべきなのだ(他の考えが近い政党に移るのなら、多少はましだという面もあるが、残留派を相対的に弱くし過ぎるという点では変わらないか、より悪い)。

主流派も含めて、日本社会党、民主党に残留した議員達は、党に大ダメージとなる分裂劇に、直接的には加担しなかったのだということになる。党に残った方が選挙に有利だからというだけで、残留した議員もいるだろう。そのような議員ばかりだと大問題だが、そうでない限りは、そのような議員達も党に残ることで、分裂した左派政党の本体は、妥協して党内をまとめることを覚えるのだと思う。なお、2017年の民進党の大分裂は、かなり特殊なケースであるから、ここで述べたことが当てはまらない面もある。改めて述べなければならない。

実現する可能性は低いのだが、離党者の政策(民主党離党者の場合は民主党の公約)を評価する場合、もう1つ方法がある。保守政党(自民党)を消滅させて、左派政党の残留派と、離党者による新党の、2大政党制等にしてしまうというものだ。ただし、これにはさらに条件が付く。左派政党の残留派の政策が、保守政党の政策と近いことだ(例えば民主党内閣後期、自民党も民主党も変わらないといわれたように)。保守政党を消滅させるとしたが、保守政党(自民党)が残留派に吸収されても良い。ただしその場合は、残留派が優位政党になる可能性が高い。その点でも非現実的な方法なのである。しかし保守政党が弱っているか、または分裂し、各勢力が左派政党の残留派と離党者達のいずれかに合流する、あるいは一部の議員達が別に、自民党と政策が異なる保守政党を結成すれば、政策を軸にした再編、いわゆるガラガラポンが可能となる。夢物語だが、実現すれば政策本位の政治への大前身となる道である。

ところで、日本人は自民党内部の不統一、分裂には寛容である。後述するように双方が健闘するか、少なくとも分裂のダメージを最小限にとどめる選挙結果が出ている。社会党の系譜についても、それに近い状況であったが(ただし民主社会党は結成直後に大敗し、以後低迷した)、冷戦終結の後になると厳しい。それについては、社会党の系譜に、より問題があるからだと説明することも出来る。しかし社会党の系譜だけに喧嘩両成敗を適用するのでは、結局保守政党しか存在しない状況となってしまう。

小泉自民党で郵政民営化を巡る党内対立が起こったのに対し、野田民主党では消費税の増税を巡る党内対立が起こった。確かに郵政民営化は、自民党の党首となった小泉が総選挙の当時にも唱えていたものであり、消費税増税もTPPへの参加も、2009年総選挙の当時民主党の公約ではなかった。突如として浮上した、公約に示された民主党の立場と矛盾するような政策であった。この点で民主党の離党者は、自民党の離党者よりも、筋を通したという面が大きい。

自民党の郵政民営化反対派の多くは、2003年の総裁選で小泉と戦ったのだから、変節したわけではないが、綱領に掲げられていなくても、小泉が党首である限り郵政民営化は事実上自民党の既定路線であり、最終的には党の決定となった。この点が、党首の交代で突如変化した民主党の例とは異なるのだ。

だがそうであっても、自民党の郵政民営化も、民主党の消費税増税、TPPへの参加も、総選挙の公約に掲げられていなかったことは確かである(自民党の公約は、2004年の秋頃に郵政民営化について結論を出すというものであった)。

自民党には結成直後から党内抗争があり、総理大臣を選ぶ国会の首班指名投票において、票が2人の自民党議員に割れる深刻な分裂状態(1979年の四十日抗争)、小沢一郎らの離党に至った党内対立などがあった。この双方の出来事が起こってから初めて迎えた総選挙で、自民党はそれぞれ議席を増やしているし、離党した小沢らの新生党、武村正義らの新党さきがけも、議席を増やした。郵政民営化に反対した勢力は振るわなかったが、派手な刺客の演出があったにもかかわらず、公示前の37議席(国民新党4、新党日本3、無所属30)が18議席(国民新党4、新党日本1、無所属13)に、つまり半減する程度にとどまった。もちろん、自民党自体は大幅に議席を増やした。

それに対して民主党、同党の離党者等による日本未来の党の負け方はすさまじい。民主党が公示前の230から57議席へと約4分の1に、民主党の離党者を中心とする日本未来の党が61からわずか8議席へと激減した(日本維新の会に参加した民主党離党者もいたが、これはすでに期待を集めていた新党に加わったといえるものであり、離党者による新党とは言いえない)。

なぜこのような違いが生じるのか、たくさんの理由がある。あえて大雑把にいえば、日本社会党~民主党よりも、日本自由党の系譜~自民党の方が有権者に信頼されており、また身近だからだ。前者は戦前からの長い与党経験、後者は選挙区における日常活動や、選挙区への利益誘導が背景にある。日本社会党~民主党はこのような特徴、または代わりとなる特徴を持つ前に下野したのである。

有権者が日本社会党~民主党を再起が困難になるレベルにまで叩き落とすのは、有権者がその後のビジョンを持っているのでなければ、無責任な行為であると思う。あそこまで惨敗させておいて、日本社会党→民主党の、真の刷新を期待したというわけではないだろう。民主党を見限るのなら、せめて第3党以下に落として、新たなる第2党を生むべきであったのだ。

もちろん総選挙後に日本維新の会とみんなの党が合流しても、衆議院の第2党は余裕で入れ替わる状況であったし、民主党が大きく分裂する可能性もあった。しかし政策が近い日本維新の会とみんなの党すら協力し合えない状況は、最も協力が重要となる総選挙の前に明らかになっていた。それでも衆議院の第2党となることが予想されてもいなかった両党を評価して票を投じたことで、いたずらに一強多弱の状況を生んでしまったのだと、敢えて批判したい。衆議院第2党(野党第1党)になれなかった日本維新の会は、離合集散を経て、準与党、大阪の政党と見做されるようになり、政策主体の姿勢はなかなか認知されず、大阪以外では与野党の対立の中で、そして小池新党(希望の党)、枝野新党(立憲民主党)の存在を前に、埋没してしまった。

日本社会党の場合は、民主自由党、民主党に次ぐ第3党に転落したのだが、すでに見たように、あまりに混とんとした状況であったから、有権者が、第2党に上がったとはいえ議席数は激減した民主党を、民主自由党に対する第一の挑戦者に認定したとは言い切れない面がある(民主党が犬養健-犬養毅の息子―ら連立派と芦田ら野党派に分裂すると、社会党は衆議院第2党に浮上したが、民主党野党派と国民協同党が国民民主党を結成すると第3党になり、その後左右両派に分裂、双方が躍進し、左派が国民民主党の系譜に迫った)。何より、共産党を躍進させながら、これを日本社会党に代わる左派の代表にはしなかったという点では、民主党惨敗のケースと同じである。