日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
高支持率の小泉内閣と、その限界

高支持率の小泉内閣と、その限界

小泉内閣の成立は、自民党の歴史における、最大級の激変である。

まず小泉内閣は、福田赳夫内閣以来の、岸派の系譜(→福田派→安倍派→三塚派→森派)が中心の内閣であった。そして小泉がリーダーシップを発揮し、小泉内閣が長期化すると、同派は田中派の系譜に代わり、自民党の優位派閥となった。優位派閥とし得るものの交代は、これは初めてであったといえる。

福田赳夫内閣は1978年12月、田中派・大平派に負けて総辞職をした。2000年4月には森喜朗内閣が成立したが、これは橋本派の傀儡政権という面が大きい。また1992年の竹下派の分裂によって、三塚派が第1派閥となったことはあったが、党内でリーダーシップを発揮しないまま、竹下派の系譜(小渕派)の復権を許した。

そのような状況下、長い田中派支配が終わって、ついに福田派が自民党の中心となったのである。これは自民党内の政局を面白がる人々にも喜ばれたが、ばらまき型から緊縮型・新自由主義への変化という、当時の有権者の志向と合っていたから、意味のある、中身のある変化であった。

緊縮志向の改革は橋本内閣も行った。しかし、消費税を上げるという、新自由主義的改革とは別の政策で景気を悪くし、主張もぶれて、1998年の参院選で大敗した。この橋本内閣の政策は、財政規律を守るためであったが、景気に対しては、大雑把に言えば、節約プラス増税という、悪い影響を与えやすい政策であった(なお、消費税の増税を決めたのは村山内閣である。社会党系中心の内閣が消費税を上げるという矛盾については、改めて述べる)。

また、政官財の癒着構造の中心的な担い手であった自民党による改革であったから、根本的なものとはなり得なかった(省庁再編ですら、激しい抵抗の中で中途半端に終わり、既得権益に本格的にメスが入れられることなど、期待し得なかった)。

その後は民主党が、新自由主義的な改革の担い手として、主に都市部で期待をされた。今から考えると、社会党の流れを汲む民主党が新自由主義というのはおかしな話だが、当時は、イギリスの労働党のブレアが、社会民主主義に固執せず、新自由主義的な要素も取り入れた「第三の道」を掲げ、1997年に政権を獲得した。ドイツでも似たようなことが起こった(1998年の社会民主党・同盟90/みどりの党の連立内閣の成立)。また、民主党は社民党とさきがけを離党した議員達によって結成され、穏健派であり、かつ既成政党が出来なかった改革を行うという立場を掲げていた。「官から民へ」というスローガンも掲げていた。既成の権力集団から権限を奪い、民間に自由を与えるということであれば、所属議員たちのそれまでの姿勢と全て矛盾するわけでもなかった。そして新進党の崩壊によって、民主党にはさらに自民党の出身者、民社党の系譜が加わった。新進党が為そうとしていた改革を、民主党が引き継いだと見ることが、十分に可能であったのだ(なお、小沢一郎は細川内閣期、消費税を福祉目的税として7%に上げようとしたが、新進党においては消費税の5%への引き上げを中止することを公約にした)。

しかし、都市部で議席を増やしても、多くの利益団体の支持を得る自民党と、創価学会を基盤とする公明党の連立を前に、民主党が政権を得ることはなかった(自公連立が成立する前に、大きなチャンスを逃したこともあったのだが、改めて述べる)。1993年のような、自民党の離党者の力を借りた政権交代が模索された、2000年11月の加藤の乱も失敗に終わった。

小泉人気が爆発するよりも少し前、加藤の乱というのがあった。野党4党(民主党、自由党、社民党、共産党)の内閣不信任案に、自民党の加藤、山崎両派が賛成しようとしたという出来事だ。民主党、自由党、社民党、そして共産党の票に加藤派の票が乗るだけでも、不信任案は可決される勢力分野であった。しかし加藤派では、野党の不信任案に乗ることに否定的な議員、自民党執行部に切り崩される議員が続出し、加藤、山崎両派の賛成派の票が乗っても、不信任が否決されるという可能性が、じりじりと高まっていった。そしてついに両派は欠席するにとどまり、敗北をした。

加藤紘一も山崎拓も、自民党を離党して野党と連立を組む考えを示していたわけではなく、むしろ当時もその後も否定しているのだが、それは両者がよほど能天気でない限り、嘘だといえる。総裁選に出馬していたことからも分かるように、明らかに首相の座を目指していた(かつては共に自社さ派であったが、当時は自公保連立の中心であった勢力に、敗北を承知で戦いを挑むことでアピールをしたが、冷遇された)。不信任案が可決されていれば、当時の森内閣は、総辞職か衆議院の解散を選ばなければならなくなっていた。総辞職を選んだ場合、自民党が「裏切り者」を次の党首に担ぐだろうか、野党にならなくて済むためだけにそうしていた可能性もゼロではない。しかし同じ政党の中で、可決された内閣不信任案に反対した議員と賛成した議員が協力できるだろうか。これは森総理が衆議院の解散を選んでいた場合でも同じである。確かに自民党は内部対立を克服してきたが、内閣不信任案を巡って対立した宮沢内閣期、内閣不信任案に賛成をした羽田・小沢派は、自民党を脱した(加藤の乱の当時の加藤派の長老は、この羽田・小沢派の動きのために政権を失った、宮澤喜一であった。宮沢は加藤の動きに反対であり、それが加藤に追従する議員が少なかった一因であった)。

内閣不信任案が可決されていた場合、やはり1993年のように、政権交代が実現していたと考えられる。野党が加藤紘一を担ぐ可能性は高かった(加藤の乱の前の2000年6月の総選挙の時点で、民主党の代表であった鳩山は、加藤との連携に前向きな発言をしていた)。この光景を見たいと思う国民は、特に無党派層では少なくなかったと思われる。

本来は民主党が実力で政権を得るべきであったが、上がらぬ投票率、都市部では民主党が健闘していたものの(この傾向は2003年により顕著になる)、自民党と密着していることが多い地方に、都市部より不当に多くの議席を配分されていた状況下、また公明党が自民党と連立を組み、不人気の森自民党にも従っていた当時、それは非常に難しいことであった。細川、羽田両内閣のような変則的なものであっても、自民党から政権交代した新政権を見たいと、筆者も思った。自民党が分裂すれば、与野党の勢力の差も小さくなり、有権者が自ら政権を選択する、その第一歩になると期待もしていた。政策的にも、加藤派と民主党は近かった。

しかし実際は、内閣不信任案は否決され、野党との連立政権も考えていなかったと、加藤、山崎両氏は言う。それでは何を目指したのだろうか? 党内紛争に勝利することか、さらに自民党全体や民主党全体による、自社さ連立政権の再現か? (民主党の源流は社さ新党であった)

民主党を中心とする野党は自力では政権を取れないし、加藤の乱も失敗した。日本では政権交代は無理なのかとあきらめる有権者も多くいたであろう(根気がないと言っても、千歳一遇のチャンスであった1993年の変化から、それ以前の長期に渡る1党優位の時代へと、明らかに後退していた)。そこで小泉純一郎が名乗りを上げた。無党派層には不人気であった自民党、しかし野党に転落することのなさそうな自民党の総裁選に、「自民党をぶっこわす」などと言う候補が表れたのだから、人気は爆発した。

こうして、それまでも人気がありながら二度総裁選で敗れていた小泉が、三度目の正直で、自民党の総裁、そして総理大臣になったのである。

小泉は組閣の段階から、派閥からの推薦リストに基づかない人事を行った。そして道路公団民営化、郵政民営化を実現した。本当に自民党を変えたのである。

しかし問題もあった。それらを挙げておきたい。

・組閣においても、参議院の枠については、参議院のドン、青木幹雄(橋本派)の意向で決まった。副大臣や大臣政務官の人事は、派閥の推薦を基に行われた。

・・・いきなりすべてを変えるのは難しいが、国民から見えやすいところだけで、進歩的な姿勢を示したともいえる。

・派閥均衡人事は改められたが、森派偏重人事となった。

・・・小泉は形の上では森派を脱していたし、気心の知れた議員を要職に就けることでリーダーシップを発揮できるという面もあった。しかし、かつて福田赳夫内閣を倒したことなどから、小泉が田中派の系譜に反発していたということは、よく言われる通り、あったのではないかと思う。小泉(岸派→福田派の系譜)は田中派→竹下派の系譜に対抗するため、加藤紘一(池田派→前尾派→大平派の系譜)、山崎拓(河野派→中曽根派の系譜)と組んだが(YKKと呼ばれた)、加藤の乱では、(その竹下派の流れを汲む橋本派の傀儡であったとしても)同じ派閥の森総理を守る立場に立った。どのような背景があったとしても、変化が実のあるものならば良いのだが、その後の状況を見ると、自民党の古い派閥抗争の、勝者が変わったに過ぎないという見方もできる(田中派の系譜と福田派の系譜には、特に後者が右寄りであるという点で差異があるから、それを評価するのなら、実のある変化であったといえるだろうが、1派閥優位の状況に変化がないということも、重要である)。

・橋本派の基盤となっていた利権ばかりが改革のターゲットになった。

・・・これは小泉の反橋本派感情と一致する事象だが、橋本派が最も利権構造に密接に結びついていたのだから、改革が橋本派を狙ったものに見えても仕方がないという面もある。

・自民党1強、自公連立が変わることはなかった。

・・・それでも有意義な改革が進められ、バランス、チェック機能も働くというのであれば良いが、そんなはずはない。それは2006年9月成立の安倍内閣以降を見れば分かる。古い自民党政治に戻る傾向も、確かに見られたのである(いずれ改めて具体的に述べたい)。

・民主党が左に回帰した(筆者は、左派の大政党が必要だと思うが、かつての社会党のように非現実的なのは、問題だと考える)

・・・これは民主党の問題と見られがちだが、何をしても勝てない民主党が、小泉自民党が新自由主義的な改革を進めることで、自らの独自性さえ、さらに失う結果となったことについて考えるべきである。改革には良い影響もあれば、悪い影響もある。悪い面が格差の問題として浮上した時、社会党の血を引き、自民党に勝てないでいた民主党が、それを問題として攻勢をかけないはずが無い。しかし改革が必要なのか、必要であればどのような改革が必要なのか、議論をすることよりも、現になされようとしている改革にとにかく抵抗すること、そして新自由主義的な改革のために自民党に不信感を抱くようになった、利益団体の支持などを手に入れることが重視された。

なお、「社会党の血を引き」と表現したが、民主党の左旋回を主導したのが、かつての新自由主義的政治家で、自民、公明両党との連立を離脱し、民主党に合流していた小沢一郎であったことは、重要である。ぬえのような自民党が新自由主義の色を強めたことで、内政面における対立軸が浮上した。これに乗らなければ民主党が埋没することは、郵政解散の時、姿勢が曖昧であった民主党の大敗が示している。また、その後の前原代表の、改革を競う対案路線が特に注目されることがなかったことから、反対派とならなければ埋没することも明らかになっている。小泉の新自由主義志向、対米追従路線、靖国神社参拝などの右寄りの姿勢に反対することで、民主党は社会党への「先祖返り」を果たし、一度は政権を獲得したのである。

対案路線について補足すると、前原が代表であった期間はあまりに短く、その後も根気強く続けていれば、評価されたという可能性もある。しかし、民主党の議員達が対案路線に手応えを得られなかったこと自体は確かであると思われる(結局は、前原とは反対の、小沢の路線が成功したことは間違いない)。そんな時こそ、国民、報道機関が、対案路線を強く支持することが、政策を巡る対立を日本に定着させるためには、必要であったと思う(小沢はそれが決定的に足りないことを踏まえて対決路線を採ったのである。また、前原の政策に対する評価は、また別の話である)。その後について言えば、日本維新の会の対案路線が、国民の強い支持を得たということもない。

・小泉内閣期が終わると、自民党が先祖返りをした。

・・・自民党の先祖返りは、党内の亀裂を修復して、2007年の参院選を一丸となって戦うためでもあり(郵政民営化反対派の復党が良い例)、経済状況の変化(リーマンショック)を受けた軌道修正でもあった。前者は、ご都合主義が過ぎるというものだが、そうしなければ勝てないのであれば、有権者に問題があると言わざるを得ない(だが全体的に見れば、実際はそうではなかった)。後者は決しておかしなことではない。しかし何より、新自由主義路線からの軌道修正が、総括なしに行われたことが、自民党が実際は変わっていないという不信を招いたのであって、それは当たっていたといえる。そしてこのような、変わったのか? 変わっていないのか? という疑問を持たれる状態では、野党も批判はできても、与党と有意義な戦いをしにくい。自民党がばらまき型と新自由主義型の間を、優位政党の地位を組織票によって維持しながら揺れ動くと、挑戦者の民主党→民進党も、ただでさえ非自民勢力の糾合によって党内の幅が広い状況下、ぶれざるを得ないのだ。

 

以上を見ると、優位政党の地位を維持してきた自民党が、それを失わないために一定の改革を行い、批判が弱まれば先祖返りをするということが、単に繰り返されただけだと分かる。これに対する失望が、上に見た改革に対する反発と合わさって、ついに日本の議会史上初めての、真の政権交代を実現させ、民主党が政権を獲得したのである。

しかし、民主党は新自由主義的改革の進展と、新自由主義的改革の中止、是正という、互いに矛盾する期待の双方を受けてしまっていたし、それでなければ政権交代は実現していなかったと考えられる。

民主党政権の失敗により、現在のところ1党優位に戻ったという可能性が高く、従って、有意義かつ欧米でスタンダードなものであった、穏健な左右の大政党の間の政権交代も、定着しなかったといって良さそうである。この現状については改めて述べる。

 

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