日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
この繰り返しだけは成功・・・ 倒れてもまた復活する1党優位

この繰り返しだけは成功・・・ 倒れてもまた復活する1党優位

※『政党、会派の系譜』の「主要政党・派閥簡略系譜」のような、簡易的な政党の変遷を参照しながら読んで頂けると分かりやすくなると思う。

 

日本の政治は、優位政党の形勢、対抗政党の再編による強化、まれであり中途半端な政権交代、政権党となるなどした対抗政党の分裂、という過程をしつこいほど繰り返している。次の通りだ。

・優位政党といえるものであった薩長閥政府に対抗して野党が結集して憲政党を結成

→憲政党が政権を獲得するも、自由党系の憲政党と改進党系の憲政本党に大分裂をして、薩長閥に政権が戻った。

 

・議席数の多い自由党系に対抗して改進党系が他の政党、会派と合流して進歩党を結成し、肩を並べる議席数になった。

→自由党系の憲政党が立憲政友会を結成して優位政党になる一方、改進党系の憲政本党は分裂によって、議席数で大きく見劣りする勢力に転落した。

※この間に上の過程(薩長閥政府に対抗して自由、進歩両党が合流して憲政党を結成、政権を得るも分裂して薩長罰に政権が戻った)が入る。

 

・薩長閥と協力して度々与党となる立憲政友会(自由党系)に対抗するため、憲政本党(改進党系)が他の会派と合流して立憲国民党を結成するも、真っ二つに分裂。

 

・薩長閥の桂が政党(立憲同志会)を結成した。真っ二つになった立憲国民党の一方が吏党系(薩長閥政府支持派)などと共にこれに参加した。この立憲同志会は後に与党となったものの、野党に転落した後、立憲政友会が優位政党の地位を取り戻すことを許した。

 

・立憲政友会が真っ二つに割れ、政権を得た憲政会(立憲同志会の後継政党)がその一方と立憲民政党を結成、立憲政友会と肩を並べ、交互に政権を担当するようになった。

→立憲民政党内閣が軍の暴走によって動揺し、立憲同志会の結成に参加していた、かつての吏党系(薩長閥政府支持派)の流れを汲む議員らが離党して、国民同盟を結成した。

 

・戦後、まだ状況が確定したわけではなかったが、優位を取り戻した自由党系に対抗するため、日本進歩党(改進党系)が他党の離党者達と民主党を結成

→民主党が社会党、国民協同党と連立政権を形成

→民主党から連立に反対する議員達が離党、民主クラブを結成して自由党と合流し、民主自由党を結成した。これを契機に、自由党系は第1党に返り咲いただけでなく、第2党以下を大きく引き離す勢力になっていった。

→民主自由党政権になると、野党に転落した民主党が連立派と野党派に分裂、連立派が民主自由党と合流して自由党を結成、野党派が国民協同党と国民民主党を結成したが、自由党との議席数の左派は非常に大きかった。

→与党となった社会党から最右派と最左派が離党、社会革新党、労働者農民党を結成、野党に転落すると、残部がさらに、右派と左派に大きく分裂した。

 

・自由党に対抗するため、改進党(国民民主党の後継政党)が自由党離党者達と日本民主党を結成し、政権を得たものの、間もなく自由党と合流し自由民主党を結成、社会党も統一された。

→自民党と社会党の2大政党制になるという予測もあったが、社会党から多くの右派の議員が離党し、民主社会党を結成、公明党も結成され野党の多党化が進んだ

 

・冷戦が終わると、自民党の離党者、社会党、民社党、公明党等が一時期政権を得たが社会党が離脱、残りが野党に転落した後に合流して、新進党を結成した。

→新進党が分裂してバラバラになり、自民党は優位政党の地位を取り戻した。

→自民党と連立を組み総理大臣のポストを得た社会党も、与党となったことや、それによる不人気に動揺して、社民党と改称した後に大分裂、離党者が民主党を結成した。民主党は野党になり、残部もやがて連立を離脱、民主党に移る者が続出し、選挙でも振るわず、小政党に転落した。

 

・自民党に対抗するため、民主党に、公明党系を除く旧新進党系の多くが合流、2009年に政権交代を実現した。

→政権を得た民主党内にもめごとが絶えず、小沢系が離党して国民の生活が第一を結成するなどして、議席が減少した。

→総選挙によって自民党に政権が戻り、自民党が優位政党の地位を取り戻した。

 

・自民党に対抗するため、民主党と維新の党が合流して民進党を結成、2016年の参院選では、野党転落後の民主党時代と比べ、復調する傾向が、より顕著に見られた(ただし、民主党が与党であった2010年の改選であり、議席数は減ったし、復調も一時的なものである可能性があった。)。

→小池ブームに圧倒された民進党が分裂、衆議院議員の多くが小池の希望の党に参加、左派等が立憲民主党を結成した。

 

ところどころ「優位政党の地位を取り戻した」と記したが、むしろ第2党になったり、野党になったりしたことが短期間の例外であり、基本的には議会開設当初から、自由党系(立憲自由党→自由党→憲政党―分裂後の自由党系の憲政党―→立憲政友会→→日本自由党→民主自由党→自由党)→自由民主党が優位政党であったといえる。その自民党の中でも、2001年までは長く、旧自由党系の派閥が優位にあった。

そもそも、国会(帝国議会)ができる前から、日本はすでに「1党優位」であった。ただし優位にあったのは政党ではなく、明治維新を実現させた、藩閥(その中でも長州閥と薩摩閥)であった。政府の主要なポストは、彼らと、彼らに従う人々で占められた。現在は国会という名称である帝国議会というものができても、議員達には、総理大臣を選ぶ権限がなかった。総理大臣は、元老と呼ばれた薩長閥の要人のアドバイスで、天皇が決めるという仕組みになっていた(元老というポストに法律上の裏付けはなかった)。

明治期の日本は事実上、薩長閥による独裁に近いものであった。弱肉強食の世界で、日本が欧米列強に追いつかなければならない状況下、独裁体制で上から改革を進めることには、一定の合理性があった。つまり仕方のないことであった。議会制度を経験していなかった日本人は、たとえ参政権を裕福な者に限ったとしても、選挙で与党を、そして間接的にであれ、総理大臣を選ぶには、未熟であった。

このような制度であったから、衆議院の多数派であっても政権を担当出来ないことが多々あった。むしろ当初はできないのが普通であった。それでも貴族院と衆議院からなる帝国議会は、予算案や法案の成立を事実上決める機関として力を示し、特に、選挙で選ばれた議員達による衆議院では、政党が力をつけていった。

衆議院で否決されれば、予算案、法案は成立しない(予算は前年度のものを執行できる制度であったが、それでは不都合であることが多かった)が、衆議院が可決させた法案も、政党の手が入りにくかった貴族院で否決されれば成立しない仕組みであった。さらに、帝国議会の外にも、枢密院、軍部など、独自の役割、権限を持つ機関があった。このため衆議院に議席を得た政党(ごく短期間の例外を除き、合わせて衆議院の過半数を上回っていた2大政党)は、拒否権だけは手にしていた。

となると、政党はどうすべきかということが問題となる。1つには、独裁的な体制を終わらせて、政党内閣を成立させ、日本を事実上の議院内閣制にするという道、また1つには、議会における支持者の利害の反映に徹するという道があった。前者を叶えるシステムはなかったから、前者の実現のためには、薩長閥政府を困らせ、政権を投げ出させるしかなかった。後者については、衆議院において実行しても、民選でない貴族院に阻まれることが十分あり得た。

当時の列強を見ると、アメリカは大統領制であったが、2大政党以外の候補者が大統領に当選することはなかった。それ以外の国はドイツ、ロシアを除き、上の前者が実現していた。つまり議院内閣制であった。そしてドイツでは、政党が基本的には上の後者(政権を狙わず、議会で支持層の利害の反映に徹する姿勢)に甘んじていた。

ドイツは統一こそ遅れたものの、社会自体は先進的であり、このため、国内の特定の地域、社会を構成する多様な層を支持基盤とする諸政党が誕生した。1つの党が過半数を上回ることはなかった。それどころか、3分の1を超える政党が存在することすら、ほとんどなかったのである。だからドイツの宰相(総理大臣)は、特定の政策を利用して、互いにライバルである諸政党の中から複数の政党を味方にし、過半数の支持基盤を形成することができた。そしてこれに失敗した場合、たとえ宰相が辞任しても、政党に政権が渡されることは、第1次世界大戦の終盤、つまり帝政の末期を除いてなかった(そもそも異なる様々な政党が存在する中で、過半数を上回るような組み合わせが自主的に形成されることは難しかった)。失敗した宰相、あるいは新たな宰相による、過半数の支持基盤形勢への再挑戦が始まるのであった。

日本の政党はどうしたのかと言えば、政権の奪取を狙ったのである。2大政党は選挙で選ばれたことによる正当性、拒否権を持っていることによって、その影響力を示した。

明治23年(1890)年の第1回総選挙後しばらくは、板垣退助らの立憲自由党が100議席程度、大隈重信らの立憲改進党が50議席程度、薩長閥政府を支持する勢力、それに近い議員が残りの100議席程度、計300議席という勢力分野が維持された。これはかなり大雑把に見たものであり、立憲自由党(自由党に改称)、立憲改進党、それに両党と歩調を合わせる議員達の合計はほとんどいつも、過半数を上回っていた。

だからこそ、民党と呼ばれた日本の2大政党(筆者は2大民党と呼ぶ)は、拒否権を使って薩長閥政府を追い込むことができた。薩長閥政府支持派は吏党と呼ばれたが、薩長閥が政党に否定的であったことから組織化が遅れ、衰退する傾向にあった(大成会→中央交渉部→国民協会→帝国党→大同倶楽部→中央倶楽部と、再編を繰り返し、桂の立憲同志会の結成に参加した)。衆議院においては薩長閥の勢力が弱くても、貴族院を含めた他の機関ではそうではなく、政党中心の政治が実現するプロセスは単純ではなかった。具体的には、衆議院で薩長閥を圧倒し、合流した2大民党が政権を得るも失敗、その一方の自由党系が、薩長閥と協力しながら時に政権を得て経験を蓄積、その前後薩長閥を含めた政界全体で政党の影響力が認知され、薩長閥を巻き込んだ政党の再編の結果、政党内閣が定着、というものであった。

イギリスでは、議会の中に徐々に政党が形成されていった。そして以前から国王が議員を首相にする中で、第1党の党首が首相になることが定着した。しかし日本では、政治の実権を握る薩長閥という勢力が天皇と一体的なものとして存在し、議会開設当初から、それらと政党が対立していた。だから政党内閣(が定着した議院内閣制)が、イギリスのような形で実現するということは考えにくかった。かといって、天皇を倒そうとする動きはないに等しく、フランス革命のようなものが起こる可能性は低かった。

日本の状況は、イギリスなどともドイツとも違い、その間にあったように見える。そんな日本の特徴はやはり、薩長閥という優位勢力である(政党を形成していなかったから優位政党とは呼べない)。民党の指導者層は、薩長閥と共に明治政府にあったものの、それと対立して下野した人々であり、それに対抗心を持っていた。ドイツと異なる点である。また、これもドイツと違って、薩長閥に連なる政党も民党(野党)も、有権者の多数派であった地主層の支持を巡って競合していた。

かくして、衆議院では少数派だが行政府を握る薩長閥勢力と、立法府を構成する二院のうち、衆議院でだけ多数派であった2大民党(2大政党)が、政治闘争を行なった。

複雑なことだが、その2大民党も、共に野党でありながら、ライバルでもあった。

薩長閥と対抗するならば、2大民党が1つになれば良かったのだが、其れも容易ではなかった。明治政府を先に辞めていた板垣退助を中心とした自由党は、各地の地主層に浸透した。一方、立憲改進党の中心となった大隈重信は、板垣より8年遅れで政府を抜けた。当時の日本は第1次産業の比率が非常に高く、同党も地主層を支持基盤としていたが、自由党と比べて知識人のウエイトが高く、穏健であった。また、板垣は土佐藩、大隈は肥前藩の出身であった。このような違いから、大きな差異のないはずの2党は、互いに対抗心を持っていた。合流して憲政党を結成するまでには、5回もの総選挙でしのぎを削っていたのだから、それはすでに簡単には解消し難いものであった。憲政党の分裂は、元通り2つの党に戻った2大民党の対立感情を、強めるものでしかなかった。

長州藩出身者と薩摩藩出身者は基本的には協力していたのだから、2大民党も協力すればよかったのだが、そうはいかなかったわけである、優位政党が、内輪もめをしたとしてもまとまりを崩さず、それに対抗する野党が仲間割れで墓穴を掘るというのは、この時も今も変わらないのだ。自分たちが劣位にあることに不満を持って優位勢力をやめてしまう気質、それがそもそも問題なのかもしれない(そのような議員達が新進党にも民主党にもいた)。

民党が独力で政権を獲得することが難しい制度であったことも、2大民党の協力を難しくしたといえる。

民党が薩長権から政権を奪うには、衆議院で予算案や重要法案を次々と否決して(ねじれ国会となった時の野党の戦術と同じだ)、度重なる衆議院の解散にも負けず、勢力を維持して、遂には薩長閥が音を上げて政権を放り出すのを待つしかなかった。しかし、薩長閥が総理大臣を決められる状況下、これは非常に根気のいることで、度重なる解散によって、いつ議員でいられなくなるか、資金がもたなくなるか、有権者の支持を失ってしまわないか、そもそも成功するのか、大きな不安の伴う戦略であった。これが実を結んだのが、上で述べた大隈憲政党内閣の成立なのだが、実はそれまでに、すでに自由党も進歩党(立憲改進党等が結成)も、薩長閥に接近していた。

それはそうだろう。いつ成功するかもわからない戦い(薩長閥の一部には憲法を停止する考えまであり、それは違憲であったとしても、絶対にあり得ないということはなかった)で疲弊するよりも、薩長閥の有力者と協力関係を結べるのなら、比較的容易に政権入りを果たし(政権の主体にはなり難かったし、譲歩も迫られたであろうが)、ライバル政党(2政党の他の一方)より優位に立つことができたのである。

2大民党のうち、より現実的であった自由党が、立憲改進党を裏切って薩長閥(伊藤系)と接近した。2大民党の双方とも、指導者が明治政府の出身であったのだから、薩長閥とはパイプを持っていた。現に改進党系の大隈重信も、帝国議会が開設される前、外務大臣を務めていた。

その時に大隈が進めた不平等条約の改正交渉が、外国人判事の任用を認めたために反発を招いて挫折した。立憲改進党はこのダメージもあり、以後野党らしい野党となった。

野党らしい野党とはどういうものか。当時、薩長閥政府は税金を多く取って国を発展させる路線であった。軍事や経済のために金を使う積極財政志向であったのだ。一方、選挙で有権者の支持を得なければ政治の表舞台に立てない2大民党は、薩長閥政府の基本的な路線を否定できなかったものの、節約を求めて色々と注文をつけ、税金を下げようとしていた。具体的には、当時の有権者の多数派であった富裕な地主、自作農が望む地租の軽減を求めていたのである(この要求で薩長閥政府を追い詰め、政権を得ようという狙いもあった)。優位政党にともかく反対し、有権者を喜ばせ、内閣を倒して少しでも政権に近付いているという感じを味わおうとする、戦後の非優位政党に似ている。これが当時の、というよりも日本の、野党らしい野党である。

立憲改進党が野党らしい野党となる一方、自由党は、一度薩長閥政府に切崩しを受けたこともあって起こった党内の変化(星亨、土佐派の台頭、復権)、陸奥宗光、後藤象二郎(元自由党系)という、反薩長閥の志向を内に持つ、薩長閥政府側の要人という特殊なパイプを持っていたことから、薩長閥政府に接近した。その政策も、貴族院で否決されて叶いもしなかった減税ではなく、自らの支持層(となり得る人々)、選挙区に予算を分捕ることで党勢の維持、拡大を図る、積極財政志向に変わっていった。

議席数が多かった自由党との接近は、薩長閥にとっても都合が良かった。これを早く認識したのが伊藤博文系であった。衆議院に多数派を形成しなければ、予算案も法案も成立しないか、大幅な譲歩を強いられる。それならば、第1党の自由党系と組んで、同党と薩長閥政府を支持する吏党系、無所属と合わせて過半数の支持を得ようと、考えたのである。

伊藤系と自由党系の連携は、第2次伊藤内閣における、板垣の内務大臣就任につながった(形の上では自由党を離党しての入閣となった)。ところが板垣は、伊藤らが大隈をも入閣させようとすると、自由党以外に進歩党をも味方にしようとする行為に、反発した。このために第2次伊藤内閣は総辞職となり(総理大臣が自由に他の大臣を辞めさせることができなかった当時、閣僚の不一致は総辞職と直結していた)、次の第2次松方内閣が、大隈を外務大臣にした。これは薩摩閥と改進党系による、弱者連合のようなものであった(薩長閥の弱い方と、2台民党の弱い方の連携という点で)。

2大民党は、合流して憲政党を結成して薩長閥から政権を得る前に、すでに薩長閥と組んでいたのである。そして立憲改進党を大きく引き離す議席を誇っていた自由党系は、改進党系が進歩党となって自らと肩を並べると、薩長閥寄りも進歩党に警戒心や敵対心を持つことが多くなっていった。こうして第2次大隈内閣も、その与党であった憲政党も、同党から旧自由党系が離れたことで崩壊した。旧自由党系が憲政党を名乗り、その名称が使えなくなった進歩党系等の残留派は憲政本党と名乗った。

そして、憲政本党よりも議席が少なかった憲政党(旧自由党系)は、薩長閥の伊藤系と合流し、立憲政友会を結成した。同党は、伊藤のネームバリューで他の勢力からも参加者を得て衆議院の過半数を上回った。しかも党首が薩長閥の超大物、伊藤博文であったのだから、どこからどう見ても、優位政党であった。以後、立憲政友会(自由党系)は、伊藤が離れてからも度々政権を獲得し、第1党の地位を守るだけでなく、薩長閥と対等に渡り合える勢力となり、薩長閥の時代から政党の時代へと、少しずつ日本を前に進めた。憲政本党(改進党系)との差は広がるばかりであった。

立憲政友会ができると、当時総理大臣であった山県有朋は、同党に政権を譲った。以後、山県系中心の内閣と立憲政友会(自由党系)中心の内閣が交互に現れた(桂園時代もその中に含まれる)。山県が総理であった時から時系列に並べると、次の通りになる。第2次山県内閣(山県系)→第4次伊藤内閣(政友会)→第1次桂内閣(山県系)→第1次西園寺内閣(政友会)→第2次桂内閣(山県系)→第2次西園寺内閣(政友会)→第3次桂内閣(山県系)。立憲政友会では、野党であった第1次桂内閣期に、約65人もの衆議院議員が離党し、過半数を下回るということがあった。しかし憲政本党も離党者が出て議席数を減らしており、そちらの方が深刻であった。立憲政友会は薩長閥との協力によって政権を譲り受けるという手法を採り続け、過半数を回復した。

第2次西園寺内閣期、第11回総選挙で立憲政友会が勝った(解散時より2議席減ったが、総選挙直後の移動を含めれば5議席増え、衆議院の過半数を約15議席上回る状況を維持した)にもかかわらず、第2次西園寺内閣が陸軍の二個師団増設を受け入れなかったことで総辞職に追い込まれ、第3次桂内閣が成立した。このことに対する反発などから、第1次護憲運動が起こった。

第2次山県内閣の成立から第3次桂内閣の総辞職までの間は、15年以上である。総選挙の結果とは無関係の政権の取引が、それだけの期間行われていたのである。そんな中、山県系中心の内閣にも、山県系と立憲政友会(自由党系)との間の政権のたらいまわしにも反発していた立憲国民党(改進党系)が立ち上がった。自らが切られる状況に直面した立憲政友会も立ち上がった。「切られる」というのは、桂がついに、自らも政党を結成し、それを基盤に政権運営を続けようとしたということであった。しかし、立憲国民党の約半数は、政党に否定的な立場を維持していた山県系にあって、政党の存在を認めた桂の下に参じ、吏党系(中央倶楽部)等との、桂新党結成に参加した。しかし第3次桂内閣は国民、野党の反発を前に総辞職し、薩摩閥の山本権兵衛が後任に付き、立憲政友会に協力を求めた。立憲政友会は同党からの閣僚の採用、同党所属でない閣僚の同党への入党を条件に、第1次護憲運動を離れて、薩摩閥の総理大臣を戴く内閣の与党となった。

この自由党系の見事な手のひら返しにも、政党内閣を再度誕生させるため、という大義があった。一方の改進党系は、政権から排除された15年間の間に、2派への分化が深刻化していた。上で述べた、2つの険しい道のいずれを歩むかについて、分化していたのである。具体的に言えば、一方は立憲政友会への片想いを続けて、薩長閥に対抗しようとした犬養毅ら、もう一方は、自由党系のように薩長閥(の一部)と接近して、自由党系(立憲政友会)に対抗できるような政党を目指そうとする大石正巳らであった。そして後者が離党し、桂新党に参加したのである。

山県系の桂が新党を結成すれば、結成時に立憲政友会と対等の規模となるには及ばないとしても、2大政党政党制が実現する可能性があった。反薩長閥でありながら、いや、あったからこそ、桂が政党の必要性を求め、その結成に動いたことを、評価する議員もいた。薩長閥も野党も2派に分かれ、伊藤系・自由党系と、山県系・改進党系の2つになれば、2大政党制となり、政党内閣が定着する可能性が高かった。しかし、これもややこしいのだが、山県はなお、政党内閣に否定的であり、桂が政党を結成することにも賛成ではなかった。さらに、桂は自らの新党を立憲同志会として正式に結成する前に病死、議席数が立憲政友会に遠く及ばない野党として出発した立憲同志会は、立憲政友会よりも進歩的な性格を帯びた。

それでも、立憲政友会の大分裂(前に述べたように、約半数が政友本党を結成、約半数が残留)に始まる政界再編を経て、立憲政友会と、立憲同志会の流れを汲む立憲民政党が交互に政権を担う、2大政党制に近いものが成立した。優位政党が真っ二つに割れ、その一部が第2党(改進党系)に合流したことで初めて、第2党が優位政党(でなくなった自由党系)と肩を並べることになったのである。しかしそれから5年足らずで、五・一五事件を機に政党中心の内閣の時代は幕を下ろした。

1党優位制は、この時期には必要であったと見ることもできる。なぜなら、薩長閥から政権を奪うには、せめて民意の反映される衆議院においてだけでも、巨大な勢力である政党が必要であったからだ。もちろんそれは、帝国議会の外においても大きな組織、有権者との接点を持つということを意味する。そのような大政党となって初めて、薩長閥が無視できない存在となり、政党の政権獲得が実現するのである。

しかし第2党の立場は非常に難しいものであった。自由党系(自由党~立憲政友会)に対抗するために自由党系の真似をするか、自由党系を野党に引き戻して、共に薩長閥政府を倒すことを目指すか、難しい選択をしなければならなかったからだ。前者は議席数で劣ることから難しく、後者は自由党系が振り向いてくれなかったから難しかった。結局改進党系は、双方に裂かれていったのである。薩長閥と取引ができたこと、度々政権を得たことで支持層に利益をもたらし得た自由党系と違い、改進党系(立憲改進党→進歩党→憲政本党→立憲国民党)は、与党、準与党が有利であった総選挙において、議席を大きく伸ばす機会にも恵まれなかった。

「裂かれた」というのはどういうことか、具体的に言うと、憲政本党→立憲本党内における内部対立が激しくなっていき、ついに半数以上の議員が離党、吏党系の中央倶楽部などと、桂新党の結成に参加した、というところである。しかしその桂新党、立憲同志会も、山県が否定的であり、正式な結成の前に桂が死去するなど、多難な船出となった。第2次大隈内閣で一度与党となるものの、立憲政友会を優位政党でなくすることはできなかった。立憲国民党残部は小党に転落した。

さて、結成から23年4ヶ月後の立憲政友会の大分裂をきっかけに、再編によってやっと2大政党制となるわけだが、その過程についても確認しておく。

立憲政友会では、党首の原総理大臣が暗殺されると、内部対立が激しくなった。そのために政権を失い、非政党内閣が続いた。立憲政友会は、立憲同志会の後継の憲政会、立憲国民党残部の後継の革新倶楽部と同じく、この状況に反発していたが、半数以上が離党して政友本党を結成し、非政党内閣を支持する側に回った。立憲政友会、憲政会、革新倶楽部の護憲三派は総選挙で多数を維持し、元老となっていた元立憲政友会総裁の西園寺公望の決断により、衆議院第1党となった憲政会を中心とした連立内閣が成立した。しかし与党第2党の立憲政友会も野党となった政友本党も、憲政会が政権の中心であったことに不満を持ち、互いに接近した。立憲政友会は革新倶楽部等を吸収し、政権を離脱、政友本党は迷走の末、憲政会と合流し、立憲民政党を結成した。その前後に多くの離党者が出て立憲政友会に復党した。この再編などにより、立憲政友会と立憲民政党は同程度の力を持つ、2大政党となった。

ここまで、戦前の日本の1党優位制と、その終焉を見てきた。日本人の議会政治の経験は1党優位体制のような状況下で始まっており、自民党の祖先の立憲政友会(自由党系)と立憲同志会(改進党系―の2つのうちの1つ―)という2大政党は共に、民党と、当初の独裁的な優位勢力つまり薩長閥の、それぞれ一部が合流する形で成立している。つまり議会開設当初の政党、あるいはその支持者が、独力で政権を取ったわけではないのである。

このことは意識しておかなければならないと思う。そうでなければ、民主制はお上から与えられて当然のものだと、無意識にも捉えてしまい、自らが政権を選択するという気概を持てなくなってしまうと思うからだ。

第1、2党の差異も重要だ。イギリスでは保守的な議員達が保守党を、自由主義的な議員達が自由党を、徐々に形成していった。そこには志向の差異、支持層の差異もあった(大まかに言えば、王権尊重、保護貿易の保守党が国教徒、地主。王権制限、自由貿易の自由党が非国教徒、商人)。日本の藩閥勢力は、残留して行政権を握り続けた薩長閥と、離脱して、立法権を有する二院の一方、つまり衆議院を足掛かりに薩長閥に挑戦する、自由党・立憲改進党(2大民党)に分裂した。それは征韓論の是非や議院内閣制の是非など、政府の方針を巡る対立を一つの契機とはしていても、政策を背景とした分裂というよりも、権力闘争の勝者と敗者が袂を分かったものであった。板垣の政権論や大隈の議院内閣制についても、両者が政府において薩長閥に押されていたから起こったという面がある。2大民党が民主化を進めることに積極的であったのは、自らを有利にするためであった(自分に有利な限り参政権を広げるというのが本音であったと思われる)し、薩長閥がそれに否定的であったのは、自らが不利になると考えたからであった。

明治期の日本は、外交政策を自由に選べるような有利な地位にはなかった。保護貿易か自由貿易かという課題についても、関税自主権が無かったのだから、自由に取り組むことは出来なかった。欧米列強に追いついて国の安全を手にするには、産業を発展させ、軍事力を強めるしかなかった。選択の余地が乏しい中で、薩長閥と民党が根本的な政治路線を巡って争うことは、そもそも難しかった。自由党系と改進党系の間ではなおさらである。

当初は、自由党が外交政策も薩長閥政府に対しても強硬派、立憲改進党が穏健派であったが、消極財政による地租軽減を志向していた点では同様であった。そして自由党が薩長閥政府に接近し始めた当時、双方の特徴が反対になり、やがて外交について再び逆転するなど、双方の間にあった差異も、容易に変化を見せる、不確かなものであった。外交については、帝国議会開設前は自由党系が強硬姿勢、改進党系が穏和であったのが、議会開設後に逆転、その後、昭和に入る頃には再び逆転、自由党系の立憲政友会が強硬、改進党系の流れを汲む憲政会が温和になった。唯一、議会開設後に自由党が積極財政志向に転じると、消極財政志向の改進党系との差異が比較的安定したものとなったが、改進党系(憲政本党)が2つの路線で分裂状態となっていた時期もある。

やがて薩長閥の輪郭がぼやけ、2大政党が政治の中心となると、積極財政志向・外交は強硬姿勢の立憲政友会と、消極財政志向・平和外交路線の立憲民政党という差異もわかりやすく安定したものとなった。時々の変化はあっても、有権者(男子普通選挙制になっていた)は、政党のイメージに頼って票を投じることはできた。しかしなお、政党も有権者も経験不足であった。すでに述べた通り、総選挙ではなく失政による内閣総辞職が政権交代をもたらしていた当時、また総選挙で与党が勝つことが当たり前であった当時、2大政党は互いの足を引っ張り合い、信用を無くした(立憲民政党は平和外交路線の政党らしからぬ態度もとった)。このことと厳しい世界情勢が重なって、軍部の暴走、戦争の時代・非政党内閣の時代へと入ったのである。

以上、自由党系が優位政党となり、その地位を失う過程を見て来た。自由党系が優位政党の座を得たことには、様々な背景がある。しかし、自由党系が現実的に、政権への近道を最優とし、その近道を模索したということが、最も重要である。現実的な政党が優位政党になり、政策や理想を重視する政党が劣位に立つというのが、良い悪いは別として、日本の政党史であるのだ。

共に野党であった2大民党による権力闘争の勝者、自由党系が優位政党を結成し、度々政権を獲得したから、この野党第1党を応援していた有権者は、いつの間にか政権を担う政党を応援する国民となっていた。それはもちろん、自由党系が第1党の地位を、一時の例外を除いて守って来たから達成されたことではあった。しかし、それが総選挙の結果達成されたという面は、小さかった。

戦前についてはもう1つ述べておかなければならないことがある。立憲改進党の系譜は、何度かの再編を経て、その半分がやがて対等な2大政党の一方へと成長したわけだが、それは今の民進党系の主な祖先であるとは言えない。すでに述べたように、戦前の2大政党、その分派の流れはほぼ全て、自民党にたどり着く。民進党系にはその自民党の離党者が含まれているものの、民進党系の源流は社会主義勢力にある。その社会主義勢力は戦前、活動の自由さえ確保するのに苦労していた。

日本の発展が同時期の欧米より遅れていたため仕方のない面があるが、労働組合も第2次大戦後まで認められず、社会主義勢力の右派、つまり社会民主主義勢力ですら、極めて小さなものに過ぎなかった。

 

戦後、自由党系の優位政党への復帰→

 

 

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