日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
繰り返す合流

繰り返す合流

※『政党、会派の系譜』の「主要政党・派閥簡略系譜」のような、簡易的な政党の変遷を参照しながら読んで頂けると分かりやすくなると思う。

 

民主党と維新の党が合流して民進党が誕生した。「あと何回合流すれば安定するのだろう」というのが筆者の感想だった。しかしそう思ってから2年後、民進党と希望の党が合流して国民民主党になった。この2回の合流には、分かれていた民主党系が短期間でまたくっついたという面がある。うんざりするなと言う方が無理である。

それでも、民主党と維新の党と改革結集の会(維新の党の離党者が結成)の合流は、民主党出身でない議員も少なからず参加したし、良いことであったと思っていた。第2党には少しでも強くなって欲しいし、統一性が弱まるのは確かだが、代表選にも変化が表れると思った。むしろ社民党、自由党も合流すべきだと思っていた(これは両党が立憲民主党に合流すべきだという意味で、今も思っている)。代表選も活用して真摯に議論をし、党の姿勢を固めれば良いのだと、思っていた。

しかしそうはならなかった。2016年の民進党初の代表選では、岡田代表を支えた主流派から立候補した蓮舫が圧勝した。民進党結成を経て主流派と非主流派が入れ替わるなどの変化が起こる機会は、主に蓮舫の人気に対する期待によって失われた(良し悪しは別だが、変化は起こさなければならなかったはずだ)。そして蓮舫が当選しても、党内が一致して支えることもなかった。

情けない状況が繰り返されたわけだが、日本の第2党は帝国議会開設以来137年間、劣勢→合流→分裂→総選挙による減少(後述する通り戦前は例外)→合流→・・・を繰り返している。具体的には次の通りである。まずは戦前だ。

・第2党であった立憲改進党と、立憲革新党等が合流して進歩党を結成

→進歩党の後継政党であった憲政本党から、旧立憲革新党系等の議員達が離党して三四倶楽部を結成

→憲政本党が第3党以下の一部と合流して立憲国民党を結成

 

・第2党を中心に立憲国民党が結成されたが、真っ二つに分裂

→真っ二つに分裂したうちの一方(離党者達だが、残留派よりも多かった)が、他の会派と合流し、立憲同志会を結成。その後立憲同志会はさらなる合流で憲政会、立憲民政党となった。しかし、改進党系でなかった勢力から集団で離党する議員達が出た(旧政友本党系の新党倶楽部、かつての吏党系の要人であった議員が結成した国民同盟である―共に立憲民政党の時代であり、後者については、分裂が始まった時は立憲民政党は与党であり、第1党であったが、行き詰っていた―)。

また、立憲国民党残留派は、離党者達が参加している憲政会の離党者と、革新倶楽部を結成した。上では書かなかったのだが、改進党系の約半数が参加した立憲同志会が、野党再編の是非と方法について、小規模ながら分裂したのであった。

※改進党系は総選挙では、(分裂後の)議席の水準を維持していたと言える。ただし革新倶楽部は総選挙を一度しか経験しておらず、そこでは議席をやや大きく減らしている。

 

次に戦後である。五十五年体制成立までは、自由党系が他党を引き離す議席数を誇っていたことが多く、そのライバルが第2保守党の、改進党系(戦後の日本進歩党→民主党系)なのか、社会党系なのか、はっきりしないところがあった。

・かつての立憲改進党の流れを汲む民主党から、社会党との連立に否定的な議員達が離党、さらに野党になってから、民主党は与党と連立を組もうとする勢力と、野党と組もうとする勢力に分裂、前者は与党(自由党系)に合流、後者は国民協同党と合流して国民民主党を結成し、改進党、日本民主党へと再編を重ねていった(ただし分裂はほとんどなかった)。この系譜は長期的に見れば、選挙によっても議席数の水準を下げたと言える。

 

・日本社会党は左派社会党と右派社会党に分裂したが(双方とも正式名称は日本社会党)、双方が合流して、同時期に誕生した自民党(自由党の系譜や改進党の系譜が合流)に次ぐ第2党になった。この時点までは、与党を経験した後の惨敗はあったものの、選挙において議席が増加する傾向があった。

→旧右派社会党の多くが、日本社会党を離党して民主社会党を結成した。

※選挙について長期的に見れば、双方とも議席が減少する傾向があった。

→冷戦終結後、日本社会党の後継政党である社会民主党が、当時の右派と左派に分裂(実際にはそう単純ではない)、前者は新党さきがけの離党者と合流し、民主党を結成した。後者は社会民主党に残留するも、民主党に移る議員が続出した。

→分裂前の社民党よりも議席が少なかった民主党は、民主社会党の流れを汲む新党友愛や保守系、小沢一郎の自由労を吸収し、拡大していった。

→民主党は自民党による切り崩し工作を受け、小規模ながら、保守系議員が離党する分裂を二度、経験した。日本初の本格的な政権交代を実現させたと言えるものの、与党となってから自由党系など、大量の離党者が出た。

※社民党は議席を壊滅的なまでに減らしていき、民主党は一度は第1党となったものの、自らの政権が有権者の評価を得られず、議席を大きく減らした。

→民主党は維新の党と合流し、民進党を結成した。しかし左派と右派に分裂(これもやはり実際は複雑)、前者が立憲民主党を結成、後者が再編を経て国民民主党を結成した。

→やがては立憲民主党と国民民主党が合流(再統一)を果たすと見られている(社会民主党も参加する可能性がある)。なお、国民民主党は、小沢一郎の自由党を吸収した(2度目の吸収ということになる)。

 

特に戦後の社会党系は、同じ政党が2つに割れてはくっついてを繰り返しているのだ。民主党と合流した時の維新の党出身の両院議員26名(比例選出のため合流できず、会派入りにとどまった参院議員5名を含む)中12名は、そもそも民主党を離党した議員達であった(離党は国会議員の時とは限らない)。このところ、サイクルが短くなっている。

他国については改めて述べるが、他の先進国と比べ、日本の、特に第2党の再編は激しい。再編が第2党に偏っているのが特徴だといえるのだが、その様子を次で、もう少しだけ見ておきたい。何度も合流して、優位政党に対決を挑んでは挫折する、そんな歴史である。

なお、民主党→民進党系はは寄り合い所帯だから統一性に乏しいという見方があるが、2017年の代表選において、左派の候補となった枝野と、右派の候補となった前原は、日本新党で初当選し、民主の風を経て新党さきがけに入党、同党を離党して民主党の結成に参加したという経歴が、全く同じである。このことは、第2党の不統一には別の要因があるということを、明確に示していると言える。このことも念頭に置いておきたい。

 

改進党系の苦悩→

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