日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
改進党系の苦悩

改進党系の苦悩

※『政党、会派の系譜』の「主要政党・派閥簡略系譜」のような、簡易的な政党の変遷を参照しながら読んで頂けると分かりやすくなると思う。

 

帝国議会開設当時の衆議院における第1、2党は、立憲自由党と立憲改進党であった。しかし会派にとどまる勢力も含めると、議席数では立憲自由党、薩長閥政府寄りの無所属議員等による会派、立憲改進党という順であった。薩長閥寄りの勢力が没落した第3回総選挙後、立憲改進党は政党、会派ともに第2勢力となった。それでも議席数は、自由党の方がずっと多かった。そして、「合流の歴史」が始まる。次の通りだ。

・進歩党:衆議院の第2党であった立憲改進党と、立憲革新党の多く、大手倶楽部の一部、帝国財政革新会が合流して進歩党を結成した。これでやっと自由党と同程度の議席数となった。その後、進歩党は薩長閥に対抗するために、ライバルでもあった自由党と合流して憲政党を結成した。それが旧自由党系の憲政党と旧進歩党系の憲政本党に分裂した時、旧進歩党等による憲政本党は、自由党系等による憲政党を上回る議席数であった。

しかし、自由党系の憲政党が薩長閥の伊藤系と合流して立憲政友会を結成する際、議員を引き抜かれ、立憲政友会に続く第2党に転落、さらに三四倶楽部を結成する議員達の離党によって、立憲政友会との議席数の差は広がってしまった。三四倶楽部には、進歩党~憲政本党の主流であった立憲改進党以外の出身の議員達が多く含まれていた。つまりこの分裂は、合流の失敗という面を含んでいた。三四倶楽部の議員達には憲政本党に復党する者もいたが、憲政本党と三四倶楽部が再統一されたわけではなかったので、復党によって憲政本党の議席数が分裂前の水準に戻ることはなかった(憲政本党としても、後継の立憲国民党としても、戻ることはなかった)。

・立憲国民党:それでも第2党ではあり続けた憲政本党と、又新会の一部、戊申倶楽部の一部が合流して立憲国民党を結成した。しかし立憲政友会との議席数の差は、なお大きかった。さらに立憲国民党の結成から3年弱で、その約半数が離党し、桂系の一部や吏党系(中央倶楽部)と、立憲同志会を結成した。立憲国民党が結成される際、薩長閥に接近して政権を得ようとするのか、薩長閥と対決して政権を奪取するのか、その路線を定めることがなされなかった(前者は自由党系の真似をして自由党系に挑むことになり、後者は、自由党系が野党である場合は野党共闘を組むことになる)。しかも立憲国民党の結成に参加した、本来は当時の最左派であった又新会系にも、それぞれの考え方に近い議員達がいた。このために立憲国民党は、結成早々に大分裂を起したのである。

なお、立憲国民党の残部は立憲同志会の後継の憲政会の一部などと合流して革新倶楽部を結成したが、党を維持できず、立憲政友会に合流した。革新倶楽部の結成は本来、憲政会、立憲国民党等の非政友会勢力を1つにまとめ、立憲政友会に対抗しようとするものであった。しかし大雑把に言えば、野党間の主導権争いのために実現しなかったのである。立憲国民党、革新倶楽部を率いた犬養は後に、立憲政友会の総裁、総理大臣となっている。派閥間の対立が激しかった当時の党首として、外様であったことが好都合だったのだ。

 

立憲同志会系の苦悩→

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