日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
立憲同志会系の苦悩

立憲同志会系の苦悩

※『政党、会派の系譜』の「主要政党・派閥簡略系譜」のような、簡易的な政党の変遷を参照しながら読んで頂けると分かりやすくなると思う。

 

・立憲同志会:繰り返しとなるが、立憲国民党の約半数や、吏党系(薩長閥支持派)の中央倶楽部が合流して立憲同志会を結成した。党首となるべき桂太郎は、正式な結党を前に死去した。このため同党は、桂新党という性格をほぼ失った。そして同党は第2次大隈内閣の与党となり、総選挙で第1党となることにも成功したが、内閣が山県系中心の寺内内閣となると与党の地位を失い、内閣に協力することに否定的な、野党となった。

・憲政会:与党の地位から転落することが決定的になった立憲同志会が、共に第2次大隈内閣の与党であった中正会の多く、同内閣を支持していた公友俱楽部の旧大隈伯後援会系と合流して憲政会を結成した。野党として出発し、総選挙で第2党に転落、少数ながら議員が離党した(立憲国民党等と革新倶楽部を結成)が、立憲政友会が真っ二つに割れた(離党者が結成した政友本党が衆議院第1党に)ことを契機として、結成から約7年半後の第15回総選挙で第1党となり、立憲政友会の残部、革新倶楽部と加藤高明内閣を組織した。長州閥の田中義一を総裁に迎え、革新倶楽部等を吸収した立憲政友会が連立を離脱しても内閣は倒れず、憲政会は単独与党となった。次に田中立憲政友会内閣が成立したことで憲政会は野党となり、続く第16回総選挙で第1党の地位をも失った(この時には憲政会ではなく、次に見る立憲民政党に変わっていた)。

・立憲民政党:野党となった憲政会と、結成以来迷走していた政友本党が合流して立憲民政党を結成した。しかし結成までに、政友本党から立憲政友会に移る議員が続出した。それでも3大政党の2つが合流したことで、立憲政友会と対等な規模の政党となり、誕生後も政友本党出身者が大量に離党して立憲政友会に移るなど、何度か分裂はしたものの、対等な2大政党の一方であり続けた。

 

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