1-08第2党は一体何度生まれ変わればいいのか?1.政権交代論

戦後、自由党系に対抗し得なかった改進党系の苦悩

やっと優位政党の時代が終わり、対等な勢力の2大政党を中心とした、政権交代のある政治が実現したものの、その寿命はとても短かった(政党内閣が幕を下ろした背景には、国民の政党に対する不信感もあった、これについては、2大政党制の是非を考える時に、改めて述べる)。

そして終戦後、制度的に保障された、議院内閣制の時代になった。かつての立憲政友会の一部(軍部に批判的であった鳩山一郎ら)は日本自由党として、立憲民政党と立憲政友会の他の一部(戦時体制の、衆議院における主流派)は日本進歩党として生まれ変わった。後者の方が圧倒的に議席数は多かったが、公職追放等の打撃を最も強く受け、第22回総選挙で第2党なった(日本自由党140議席、日本進歩党94議席、日本社会党93議席)。日本社会党の躍進は目覚ましかったが、戦前の2大政党の系譜を見れば、衆議院第1党となった日本自由党、つまりかつての立憲自由党の系譜が、再び、かつての立憲改進党の系譜の優位に立ったのである。その後の状況を見よう。

・民主党:日本進歩党では、犬養健ら若手が党改革を主張した。そして日本自由党内で党首の吉田茂と関係が良くなかった芦田均ら、国民協同党の一部と民主党を結成、衆議院第1党の地位を取り戻した。結成後の第23回総選挙では、日本社会党が第1党、日本自由党が第2党、民主党が第3党となった。日本社会党、国民協同党と連立を組んだ民主党からは議員が離れ、彼らは自由党系に移った。民主党は野党となって迎えた総選挙において、議席を大きく減らした。そして犬養ら連立派と芦田ら野党派へと大きく割れ、連立派が自由党系に移った。この間、日本自由党は民主党の離党者を加えて民主自由党になっていた。そしてさらに民主党連立派を吸収して自由党になった。拡大強化を繰り返していたのである。

・国民民主党:民主党野党派と、国民協同党が合流し、国民民主党を結成したが、自由党系の議席数には遠く及ばなかった。

・改進党:国民民主党と、公職追放を解除となった立憲民政党出身者、農民協同党の一部が合流して改進党を結成した。しかしやはり、自由党との議席差は非常に大きかった。

・日本民主党:改進党と、自由党内の不平派(公職追放を解除となった鳩山一郎ら)が合流して日本民主党を結成した。党の主導権は、自由党出身者が握った。日本民主党は、左右両派社会党の協力を得て、第2党でありながら自らの単独内閣の成立を実現させ、総選挙で第1党となったものの、自由党と合流した。自由民主党の誕生である。

 

民主党の2派への分裂は、日本自由党の一部と合流した結果起こったという面もある。日本自由党出身の芦田均と、日本進歩党出身の犬養健の対立でもあったからだ。しかし何よりも、上で見た、1党優位制の下の第2党が迫られる、2つの道の選択を巡る対立であった。戦後は議院内閣制であったから、優位政党に寄るか、対抗するかという選択であった。第2党なら対抗して当然で、すり寄るのは邪道なのだが、当時は自由、民主、社会の3党が並び立つ状況であった(第24回総選挙で社会党の議席数は、自由党の約4分の1となった民主党よりさらに少ない、わずか48議席となっていたが)。自由党と民主党が保守陣営、社会党と共産党が革新陣営であり、同じ保守陣営の自由党と民主党が合流することが、おかしなことだとは言い切れない面があった。

以上、この当時の特徴は、戦前の自由党系、改進党系の双方が、互いの、そして他党の議員まきこんだ、再編による拡大競争を繰り広げていたことである。戦後の過渡期であったといえる。次の、社会党系を見る時に述べる問題点があったものの、最後には第1党が入れ替わるなど、自由党系が優位政党となることは、阻止されたという面がある。

非優位政党(ここでは日本進歩党→民主党→国民民主党→改進党)の再編が成功したといえるのだが、それは完全なものであったわけではない。改進党系(戦後の日本進歩党→民主党の系譜)は、自由党系を削るというよりも、自由党系と近い、あるいは近くなった議員達を手放し、その分を、自らよりも左に位置する、中道の議員達でうめた。その中には協同組合主義者達もいた。また、戦後政治の中心にいなかった議員達を取り込んだことで(戦後政治の中心は、自由党系の主流の吉田系であった)、憲法改正、再軍備という、拒否反応を持たれ得る右寄りの主張をする議員達も多くなった。官僚出身者が中心となった自由党系よりも確実に、バラエティに富んでいたのである。このことは、自民党内で比較的早期に、敗れたはずの自由党系が優位に立った要因になっている。