日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
日本社会党系の苦悩

日本社会党系の苦悩

※『政党、会派の系譜』の「主要政党・派閥簡略系譜」のような、簡易的な政党の変遷を参照しながら読んで頂けると分かりやすくなると思う。

 

次に、自民党誕生後、つまり五十五年体制下の万年第2党、日本社会党の系譜を見なければならない。第2党が、日本進歩党の系譜か、同名の2党に分かれていた日本社会党なのか明確でなかった終戦後の10年間を経て、自由党系と合流した戦前の立憲改進党の系譜から、戦前の無産政党(労働者等の無産階級の利害を代弁する政党)の系譜へと、第2党の明確な選手交代がなされた。ようやく、先進国と同様になってきたわけだが、その前にまず、新進党について確認したいと思う。

1955年結成(再統一)の日本社会党の系譜を見るのに、なぜまず1994年結成の新進党を見るのかと言えば、社会主義政党の色を長く持ち続け、非現実的すぎた主張の修正も不十分であった日本社会党は分裂こそして、民主社会党や社会民主連合連が誕生したものの、その反対の、合流をすることができるような相手は、五十五年体制下には現れなかったからだ。「合流しても躍進できないのか」とがっかりする、そんな機会すらなかったのである。だから新進党について先に見てから、そのずっと前と、その後に合流の動きがある、日本社会党の系譜を見ようと思うのである。

・新進党:1993年6月、自民党を離党した武村正義らによって新党さきがけ、同様の小沢一郎らによって新生党が誕生した。この分裂によって過半数を下回った自民党は、総選挙によってもそれを回復することが出来なかった。そして日本社会党、新生党、公明党、日本新党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合、民主改革連合による、つまり自民党、共産党、第二院クラブを除く全政党、会派による連立政権(細川内閣)が誕生した。しかし内部対立によって日本社会党と新党さきがけが連立を離れて自民党と連立、社会党の村山委員長を総理大臣とする、自社さ連立内閣が誕生した。それに対抗するため、細川内閣時代の他の与党と、この間に自民党を離党した議員達による政党や会派が合流して、新進党を結成した。これによって、1955年以来衆議院第2党であった日本社会党は、第3党に転落した。しかし自社大連立を前に、早期の政権交代を実現させることはできず、離党して自民党に移る議員などが続出し、党内の対立も激しくなり、結成から約3年で、6党1会派に分裂した。分裂の契機は公明(旧公明党のうち、遅れて合流するはずの勢力)の新進党への合流取り消しであった。しかし、自民党との連立を目指すようになった小沢が、それを利用したという面もある。自民党も新進党も、自民、新進両党の保保連立を志向する勢力と、左派政党と組もうという勢力(自民党の場合は自社さ連立を維持して、必要であれば民主党にも手を伸ばす。新進党の場合は民主党との野党連携)に分化していた。こんな時に強いのは、第1党かつ与党である政党であり、そうではない新進党の方が、分裂をした(自民党は全ての主要派閥が、規模の差はあれ、自社さ派と保保派に分裂した。しかし、それだけであった)。

 

新進党の結成は、社会党を外した、保守2大政党制成立の試みであった。衆議院の選挙制度が小選挙区制を中心としたものに変わることと一体的な動きであったのだが、問題は社会党(の少なくとも左派)外しの構想でもあったことだ。

小選挙区制が導入されたとはいっても、比例代表制で決まる議席も全体の5分の2を占めていたし、社会党が(分裂したとしても、)いきなり消えるということは考えにくかった。そうであれば、自民党と、羽田内閣与党→新進党のうち、とりあえず社会党(の多く)を得た方が短期的には有利になる。それを実現させたのが自民党であった。また、羽田内閣与党→新進党最大の実力者であった小沢一郎が、自民党出身のベテラン政治家で、かつ強権的であったことから、「自社さ守旧派連合対改革派の新進党」という構図をつくることもままならなかった(前者の穏健さを好む有権者も多かった)。

結局、第2党の地位は日本社会党の系譜に戻ったのであり、これから、その系譜を見ていくわけである(保守2大政党制の是非等については、改めて述べる)。

・日本社会党(1955年):いくつもの政党に分かれていた無産政党であったが、1932年、日本共産党(非合法)等一部を除いて社会大衆党に結集した。しかし同党は、軍部等に対する姿勢の相違から再度分裂した。そして戦後、共産党を除いた無産勢力は再度結集し、日本社会党を結成した。しかし片山、芦田両内閣期に最右派と最左派が離党した上、第3次吉田内閣期に、資本主義国のみととりあえず講和条約を結ぶべきか、中立を守り完全講和を目指すべきか一致できず、右派と左派に大分裂した。1955年に再統一、その前後に最右派と最左派も合流したものの、左右両派の対立に揺れ、1960年に右派の離党者が民主社会党(→民社党)、1977年に党改革を拒まれた江田三郎が社会市民連合(→社会民主連合)を結成した。それでも、左派と右派の対立は残り、政権を得ることが出来ないまま、1993年の、激動期の幕開けを迎えた。

・民主党(1996年):行動を共にしていた日本社会党と新党さきがけは、合流して新党を結成することで、劣勢を挽回しようとした(小選挙区制を中心とする総選制度の改正も、それを後押しした)。しかし慎重論も根強くあって進展が見られない中、新党さきがけの鳩山由紀夫が、薬害エイズ問題への対応で人気が急上昇していた菅直人厚生大臣(新党さきがけ―元社会民主連合―)と共に新党結成の主導権を握った。結局村山社会民主党(日本社会党が改称)党首・前総理大臣、武村元新党さきがけ代表・前大蔵大臣らを排除することとなり、これに反発した日本社会党の約半数(衆議院。参議院は総選挙後の前後に、民主党に移る議員が続出)、新党さきがけの約3分の1が残留する一方、両党の離党者によって民主党が結成された。荒療治による、日本社会党系の刷新であった。

 

ここで一度新進党について補足しておく。同党は1995年7月の参院選で、比例区において自民党の15を上回る18議席を得た(他の選挙区では自民党31、新進党22議席)。総理大臣を出した日本社会党は、党も支持者も動揺していて、急速に力を失っていた。しかしその日本社会党と新党さきがけから民主党が誕生し、菅直人というスターになっていた政治家を、やはり一定の人気があった鳩山由紀夫と共に党首としたのが民主党であった。新進党と民主党が初めて迎えた総選挙は1996年10月の第41回総選挙であった。当時民主党の菅代表はまだ厚生大臣であり、民主党は中立的な立場を採っていたが、社会民主党と新党さきがけから離れてできたという経緯から、野党的なイメージがあり、新進党と民主党の連立政権を望む声、予想する声もあった。

この第41回総選挙は、衆議院が小選挙区中心となってから、初めての国政選挙でもあった。新進党と民主党と支持を伸ばしていた共産党は、非自民勢力として競合した。それに対して与党は、社会民主党と新党さきがけが民主党の結成によって急速に弱体化し、さらに一定の選挙協力が行われたこともあり、候補者の競合は深刻な問題ではなかった。

民主党が誕生し、自社さ連立政権から離れる方向となったことは、総選挙において新進党に大きなダメージとなり、同党は自社さ3党から政権を奪うどころか、議席を減らした。これは新進党に対する失望となり(それも気が早すぎるのだが)、解党へと至る道の入り口を用意したといえる。そして旧新進党系の勢力を吸収した民主党が、第3極から、自民党と並び立つことを期待される第2党となったのである。

 

・民主党(1998年):新進党が7つの党派に分裂すると、それらのうちの、小沢一郎らの自由党と公明党系以外の多く、そしてすでに新進党を離党して、さらなる新党を結成していた議員達の多くが、民主党に合流した。つまり、自由党、公明党系に参加せず、自民党にも移らなかった議員達の多くが、民主党に合流した。

・民主党(2003年):議席を伸ばし続けながらも自民党には遠く呼ばない規模に甘んじていた民主党に、自由党が合流した。この後、2004年、2007年の参院選で民主党は躍進、さらに2009年の総選挙における圧勝によって、自民党から政権を奪った。しかし政権運営に失敗し、公約違反を批判する小沢系、単に逃げ出そうとする議員達が離党した。これによって衆議院でも過半数割れを起こし、2012年の総選挙で、わずか57議席に転落、新たに結成されていた日本維新の会に3議席差にまで迫られ、あと少し負けていたら第3党になっていたというところまで追い詰められた。なお、政権獲得前にも、自民党に寄る議員達が保守新党(2002年)、改革クラブ(2008年)を結成したが、人数は少なかった。

・民進党:民主党と維新の党(日本維新の会の後継政党。大阪系が離党した後の残部)が合流したが、自民党に遠く及ばないばかりか、離党者が続出した。

・国民民主党:自民党を離党した小池東京都知事が、総選挙を前に希望の党の結成を発表すると、それ以前に民進党を離党していた議員、民進党の不人気に危機感を強めた議員が参加、さらに民進党が希望の党への合流を決めた。合流に消極的であったか、排除される見通しとなった左派等が民進党を脱して立憲民主党を結成した。こうして合流を総選挙後に先送りした参議院議員、無所属で当選した大物議員等の民進党残部(衆議院会派は無所属の会)と、立憲民主党、参加議員・総選挙当選者の大部分が民進党系であった希望の党等に、民進党はバラバラになった。その後、希望の党と民進党残部は合流し、国民民主党を結成した。しかし双方から合流不参加の議員(民進党からは立憲民主党―の会派―に移る議員)が続出した。このため衆議院の第1党は立憲民主党のままであり、参議院でも今後、同様になる可能性が高い。

 

新進党の結成によって第2党ではなくなっていたが、40年近く第2党を務めてきた日本社会党→社会民主党が真っ二つに割れ、その一方に新党さきがけ、新進党を経た自民党離党者による政党や、新進党の解党で復活した社会民主主義政党(社会党の右派の一部が結成した民社党が復活したものであった新党友愛)が合流して拡大していったのが民主党であった。社会党(当初の国会議院の数を見た場合社会党の約半数だが、結成後も社民党から民主党に議員が流れているため、それを含めて社民党の多数派として良いと思う)が民主党に刷新されたことで、社会主義から社会民主主義への明確な、長年果たせなかった生まれ変わりが実現され、社会党と民社党が得ていた労働組合の連合の支持を、民主党は引き継いだ。労組を直撃するものでなければ、新自由主義的な改革をすることもできた。このことの良し悪しはひとまず置いておくとして、当時、イギリスの労働党、ドイツの社会民主党が他の政党との合流なしに果たした転換を、日本の左派政党は、離合集散の上で、何とか果たすことができたのだといえる。

五十五年体制下においてそれができず、西欧に何十年と遅れて、自らの滅亡を前に、保守政党の議員を入れることでそれを行ったという点は、情けなくもあるのだが、やはり良かったと言いたい。現実的な社会民主主義政党は、日本人が長く求めて来たものではなかったか。それが手に入ったのだから、大切に、次のステップに上がらなければならないと思う。

しかし、2つの選択肢を巡る合流と分裂は繰り返されている(また改めて述べたいが、与党時代の分裂も、2つの選択肢を巡る分裂に近い面を持っている)。

民進党のどこが現実的なんだという声が聞こえてきそうだが、これは次に述べることと深く結びついている。民進党の左派だといえる議員に岡田克也のような自民党出身者がいることの説明にもなると思う(かつての社会党では、左派が社共路線、右派が社交民路線であり、岡田は代表時代、共産党との連携、選挙協力を進めた)。

次に述べることとは何かといえば、第2党は一体何度刷新しなければならないのだろうかということである。これは日本社会党の系譜に限ったことではなく、戦前、戦後の保守第2党にもいえることであるのは、すでに見た通りである。補足をすると、新進党の解党も、感情的な面が大きかったとはいえ、自民党に寄るのか、当時第3党であった民主党と組むのか、という日本の野党第2党の選択を巡るものであり、前者の中心人物であった小沢一郎も、後者の中心人物であった羽田孜も、共に自民党を離党して新生党を結成した議員であり、新進党内の対立は、実は旧党派間の対立ではなかった(旧党派が組織的なものとして残ったこと、公明が合流を渋ったことは、また少し別の問題である)。

議会開設後、優位政党であることが多かった自由党の系譜は、は立憲自由党→自由党→憲政党(自由党系の方)→立憲政友会→日本自由党→民主自由党→自由党→(保守第2党の日本民主党と合流して)自由民主党と、他の先進国と比べれば多いのだが、名称変更が少なく、選手交代がないに近いにもかかわらず、また名称の決定的な変化も少ない。これに対して第2党は、立憲改進党→進歩党→憲政本党→立憲国民党、次に立憲国民党の約半数も参加した立憲同志会→憲政会→立憲民政党→日本進歩党→民主党(第3党であったこともある)→国民民主党→改進党→日本民主党。次に日本社会党(一時2派にわかれ、再統一)、次に新進党、次に民主党→民進党、そして民進党離党者による立憲民主党と、名称の決定的な変更と、何より選手交代が多い。この歴史、この状況、先進国としては恥ずかしいものだと言わざるを得ない。

筆者が危惧するのは、非優位政党にくせがつくことだ。失敗を総括しようとせず、自力での刷新を真剣に模索せず、再編によるイメージの改善と議席の増加を追い求めようとするくせだ。再編は時には必要だが、くせがつくのは良くない。その点で、自らの力をつけることを重視する立憲民主党には、期待できる面がある。

優位政党に勝つことはとてもとても大変なことだ。だから再編に走る気持ちは分かる。珍しく政権を獲得し、その運営に失敗した後では、国民の目も厳しく、モチベーションを上げるのも難しい。だから有権者やメディアも、非優位政党がそのような道に逃げようとしないように、愛情を持って励ましながらも、厳しくチェックする必要があると考える。今は、自力でやれるのだと立憲民主党が思い続けられるよう、同党に票を投じる必要がある。

最後に確認しておく。かつて日本社会党は、初めて政権を担当した際に、最右派と最左派の離党を経験した。そして下野すると、さらに左派と右派に分裂した。その後やっと再統一を果たすも、右派の少なくない一部が離党した。その後、約45年ぶりに与党となると、最左派の分裂を経験し、再び左派と右派に分裂した。その一方である民主党は、左派の一部、かつて離脱した右派を「回収」するなどし、政権を獲得するも分裂、下野した後、また左派と右派、つまり立憲民主党と国民民主党に分裂した。しかも、最初の左派と右派への分裂以外は、左派と右派に割れたとは言い難い面もある。日本の第2党が直面する、2つの選択肢を巡る分裂という面が、多分に含まれている。社会党の系譜が支持を失うと、共産党が躍進するという傾向もずっとある(「戦前の政権交代は順序が逆だった」で触れたが、衆院選について確認すると、片山内閣成立以後初めての総選挙、村山内閣成立以後初めての総選挙、野田内閣成立後初の総選挙-民主党壊滅のみ。共産党はその次の総選挙で躍進-)。

このことを踏まえて、今後、左派系の野党はどうまとまればよいのか、まとまらない方が良いのか、歴史を無意味に繰り返さないようにするにはどうすれば良いのか、真剣に考えなければならない(立憲民主党について述べる際に、筆者の考えは記すこととする)。

制度、与党政治家、第3極の政治家、国民、そして野党第1党の政治家が自ら、野党第1党を全力でたたきつぶした。そこにやっと、立憲民主党という小さな家が建ったところだ。再編が招く左右対立、与党になると大転換、野党になればまた理想主義・・・。この繰り返しを、直ちに脱しなければならない(1党優位制のせいでこうなったと、認識する必要はある。しかし、愚痴を言っていても始まらない。時間はないが、それでも根気は必要だ)。

 

理想主義と現実主義→

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