日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
自らの歴史を浅くした、民主党結成時の過ち

自らの歴史を浅くした、民主党結成時の過ち

民主党→民進党は見ている方が恥ずかしくなるくらいゴタゴタすることが度々あった。党首となった人物は、議論もせずに新しいことを打ち出す。それに反対する議員が騒ぎ出す。それを収拾する知恵も強引さもなく混沌とする。気に入らなければ離党する、落選しそうになると離党する・・・ 自民党でも見られなくはないことだが、ずっとずっと少ない。

一言で言えば幼いのだが、それは民主党→民進党が、本党に幼い政党なのだから、仕方がないと言える。民主党の誕生は1996年、自民党の誕生は1881年、自民党が115歳も年上なのである。

自民党の誕生は、本当は1955年だ。しかし、その先祖の自由党、立憲改進党の誕生は1881年であり、以後その系譜が続いているといえる。民主党だって、さかのぼれば戦前に辿り着く。しかし、自民党と違って、「祖先」との間には、大きな断絶がある。

自由党と立憲改進党に始まった現在の自民党へと続く流れは、過去に度々刷新を経験してはいる。しかし1996年の民主党の誕生は、それまでの歴史まで断ち切ろうとするものであった。どういうことか、具体的に確認しつつ、述べていきたい。

自民党と新進党による、保守2大政党制になりそうな傾向が見られていた1996年、存亡の危機に立っていたかつての第2党、当時の第3党であった日本社会党と、やはり展望を失いかけていた新党さきがけには合流構想が持ち上がっていた。しかし、まだ社会主義、非現実的なまでの平和主義を引きずっていた日本社会党の、主に左派に対する、内外の厳しい目があった(ややこしいのは、当時社会党右派の多くは新進党に寄ろうとし、左派の多くは自民党とさきがけに寄っていた)。日本社会党は社会民主党に改称して、そのイメージを払拭しようとした。この時に党名の候補となったのが「民主党」であった。しかし社会党は「社会」という名称を棄てることはできなかった。

ここでまず、不思議なことがある。なぜ「社会」を名乗ってはいけないのか。ドイツの2大政党の一方は、「社会」民主党である。フランスの「社会」党も、最近でこそ不振を極めているが、何度も政権を担った大政党である。答えはもちろん、イメージが悪いからである。しかしイメージを悪くしたのは社会党であって、社会民主主義の「社会」というのが良くない言葉であるというわけではない。

社会民主党と新党さきがけの合流が、構想されつつなかなか実現しない中、新党さきがけの鳩山由紀夫が、社会民主党と新党さきがけの合流とは異なる新党の結成を目指した。しかし、この両党以外からの参加は、市民リーグ(社会党離党者と日本新党の新進党不参加者が合流した会派)を別とすれば、新進党を離党した鳩山邦夫(由紀夫の弟)だけであった。

当時、自社さ連立内閣は、住専問題でイメージを悪くしていた。住宅金融専門会社のバブル崩壊による不良債権問題の処理に、公的資金を投入する方針が反発を招いたのである。自民党と連立を組んだこと、基本姿勢や政策を大転換したことで、すでに支持を減らしていた社会党と、改革政党のイメージに傷をつけてしまった新党さきがけは、深刻な状態にあった。

そんな社さ両党の新党だというイメージを払しょくするために鳩山由紀夫は、日本社会党の村山前総理ら、新党さきがけの武村前大蔵大臣らの参加を拒んだのである。これはしがらみを断ち切るためにも有効な策ではあったが、両党は自民党ほどしがらみがある訳ではなかった。確かに、日本社会党は労組の支持を受ける政党であったが、立場の弱い労働者の声を代弁することは、それに真剣に取り組むのなら、また時代の変化に応じて、派遣社員等の問題にも取り組むのなら、断ち切らなければならないしがらみだとはいえない。何より、民主党は労組の支持を受けける政党として出発した。

こうして、民主党はベテラン議員の少ない政党として誕生した。そこに、自民党を去った議員達が入って来た。旧民社党も合流したが、自民党出身(保守系)の参加者の中にはベテランの議員が少なかったし、旧民社党系は絶対数が少なかった。民主党の中心部は新党さきがけの出身者であり続けたといえるし、最大派閥は社民党の離党者の多くが形成していた横路グループであった。民主党は1998年に拡大した時も、衆議院で100議席には届かなかった。それが、2003年に小沢一郎の自由党(衆議院は20議席強であったが、小沢以外ベテランは皆無であった)が合流した以外は、選挙によって議席を増やし続け、参議院では過半数に迫り、衆議院では300議席を超えたこともあった。選挙における伸張は、=若手の増加である。なお、小沢は野田政権の時代に離党した。

このように、民主党→民進党には自民党と異なり、ベテランが少なく、過去との連続性に乏しい。このことは、過去の弊害を断ち切る刷新という面ではメリットになるが、実際の民主党→民進党を見ていると、危機管理能力、官僚と有効に関わる能力を弱め、落ち着きのない政党にしてしまったように見える。バランスが肝心なのだろう。今の民進党系のベテラン(になった)議員の肩には、日本の政党政治の行く末がかかっているのだと実感する。

しかし民進党が希望の党への合流を決めた時、小池百合子にとって邪魔な彼らは、一部を除いて排除される見通しとなった。社民党、新党さきがけ出身者(特に民主党結成の中心人物であった菅直人)は、かつて自分達がした排除を、今度はされる側になってしまったのである。かつて排除した側のベテランの多くは、立憲民主党に身を寄せた結果、救われたが、そうでない有力議員達が、彼ら自身の判断もあるにせよ、十数名の会派に所属する議員として、宙に浮いている。彼らの意見に謙虚に耳を傾け、譲れないことは譲らないということができなければ、立憲民主党においても、国民民主党のおいても、新たな希望の党においても、これから結成されるかも知れない民進党系の新たな勢力でも、同じことが繰り返されるだろう。

なお、自民党でも、2012年の衆議院の総選挙までに、多くのベテランが引退した。自民党の場合は党内が1強体制で、あまりグラグラしているようには見えないが、長老の引退と、それを一因とする1強体制が合わさったことで、フットワークが軽くなると同時に、悪い影響も出ているように見える。以前よりも「大人な政党」ではなくなったように感じるのだ。「大人な」、「バランスの良い」というのは、必要である反面、安易な妥協にもつながり得る。突っ走るべきところ、謙虚であるべきところ、それこそバランスが重要だ。

 

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