1-09第3極も、何度も登場1.政権交代論

帝国議会開設当初の第3極

詳しくは、『キーワードで考える日本政党史』、『補論』で見るとして、戦前の「第3極」がどのようなものであったか、おおざっぱに整理する。

戦前の日本の2大政党は、板垣退助の自由党の系譜と、大隈重信の立憲改進党の系譜である。それ以外にはどんな勢力が存在したかと言えば、次の通りである。

・吏党と呼ばれた薩長閥支持派:大成会→中央交渉部という会派を形成していたが、国民協会→帝国党という政党となり、中立派等と大同倶楽部→中央倶楽部を形成した。この系譜は議会開設当初から、1913年まで存在した。

・中立派:帝国議会開設当初から1928年までのほとんどの期間、何らかの形で、会派として存在した。当初は地価修正を求める会派も存在したが、早期に実業家中心のものとなっていった。

・既成政党の離党者による会派:自由党系、改進党系のどちらでも、何度も集団離党が起こっている。薩長閥に近付こうとするものもあれば、薩長閥と接近する自党に反発して離党した議員達によるものもあった。筆者は後者を新民党と呼んでいる。

 

中立派というのは、専制だと反発を受けていた薩長閥政府にも、自らとその支持者しか顧みないという批判も受けていた政党(薩長閥に対抗する民党)の、いずれにも属さない勢力であった。実際には時の権力に寄る議員が多かったが、無所属議員による会派という性格が強く、まとまって動くことすら難しく、他の勢力に合流する議員も少なからずいた。

よって、以上の勢力から中立派を除いて、明治末期の衆議院は4極構造となった。一番右の吏党系、やや右の自由党系、やや左の改進党系、最も左の新民党、といった感じである(それらより左の社会―民主―主義政党の議会進出は昭和に入ってからである)。

1913年、新たに結成された立憲同志会が第2党となった。これは桂新党(正式な結成前に桂は死去したから、それまでの性格を表す呼び方)としての面、改進党系としての面が強調されているが。実際は、立憲国民党(改進党系)の約半数、中央倶楽部(吏党系)、そして新民党の多くによる政党だといえる。この頃の新民党は又新会であったが、約半数が立憲国民党の結成に参加し、残部は同志会となった(立憲同志会とは異なる)。これらからの立憲同志会への参加は、立憲国民党を経た議員も含めれば少なくはなく、後に立憲同志会や、後継の憲政会結成に参加した議員も含めると、「多く」ということができるのである。また、この再編は、各段階で中立派の議員の一部を巻き込むものでもあった。

つまり、立憲同志会→憲政会は、改進党系と言う面も持っているが、第3極新党という面も持っているのである(立憲国民党からの参加者が残留派ではなく、離党者であることを考えればなおさらだ)。立憲同志会→憲政会はごく小規模な分裂はあっても(最大のもので、1922年の7名の離党→革新倶楽部結成参加)、それまでの改進党系ほど、激しい内部対立のために動揺することはなかった。これは三菱の岩崎弥太郎の娘婿である加藤高明総裁の資金調達に依存していたことと共に、政権獲得に積極的ではなかった第3極出身者が衆議院議員の約51.1%を占めていたためだと、筆者は考えている。

補足すると。第3極出身者とは、無所属を含めた、2大政党以外の出身者が約40.0%で、これに立憲国民党に憲政本党以外から参加した議員達も含めると約51.1%だ、ということである。立憲国民党からの参加者には初当選の議員も多かったから、立憲国民党からの50名の参加者のうち、元来改進党系でない議員は、数えれば10名であっても(又新会出身8、戊申倶楽部出身2)、少なくなかったといえる。

「政権獲得に積極的ではなかった」というのには種類がある。まず、中立派は政権を狙う勢力ではなかった。吏党系には与党となることを望む議員もいたが、全体としては政党の政権獲得だけでなく、政権入りにも否定的であった山県系に準ずる勢力であった。新民党は政党内閣の実現を志向していたが、政権獲得には議席数が少なすぎた。2大政党と合流すれば別であったし、そのようなことも志向していたが、2大政党が薩長閥に接近して政権を獲得することには否定的であったから、事実上、早期の政権入りも、期待しにくい立場であった。所属議員には花井卓蔵のように、自らの政権入りは望まない議員もいた。

さて、立憲同志会結成後の第3極を見よう。中立派は、主に吏党系に合流し、消滅していた。その吏党系は立憲同志会の結成に参加し、消滅した。新民党では、立憲国民党の結成、立憲同志会の結成、憲政会の結成に参加する議員があった。つまり多くが改進党系(、立憲同志会系)に参加した。残部は新たな薩長閥山県系の勢力との再編を経て、結局は、様々な無所属議員が集まる会派へと、姿を変えた。それも政党内閣期、2大政党制の時代となると、立憲同志会に参加しなかった立憲国民党の残部と共に、立憲政友会に合流する議員達と会派を維持する議員達に分かれ、後者も姿を消した。

2大政党制の時代には、自由主義的改革政党であったといえる実業同志会、明政会、立憲国民党の残部の系譜の革新党、いくつかの無産政党が議席を持っていたが、いずれも単独では1議席から、多くても2ケタには届かない規模であった。

政党内閣期に幕が降ろされる頃には、無産政党が合流した社会大衆党、立憲民政党の離党者による、かつての吏党系の流れを汲む国民同盟という2党が、左と右で一定の議席数を持ち、衆議院がまた4極構造になったが、結局は皆解党し、大政翼賛会に参加した。

社会大衆党は、他の国々に倣えば第1、2党のいずれかに成長するべき政党であった。終戦後、同党は日本社会党として、それを実際に果たした。しかし他国の同じような政党と比べると、順風満帆ではなかった。

戦後、五十五年体制の成立までは、保守3→2党(そのうちの1つで、第2党と合流した日本協同党系は、明らかに中道政党であった)、革新諸政党(社共2党であったが、共産党が壊滅状態になる一方、社会党は最右派、右派、左派、最左派に分裂)と政党の数が多く、何が第3極であったか特定し難い。強いて言えば保守(右)と革新(左)の間に位置した勢力ということになるだろうか。

保守2党の中でも、国民協同党、社会党右派等との中道新党の結成を志向していた時期がある、日本進歩党系(民主党系)が振るわなかった。中道に近い社会党の右派は、左派ほどには伸びなかった。ただし、再軍備について言えば、積極的になっていく民主党の系譜と、反対の社会党との間に自由党の系譜があったと見ることができるし(自由、社会両党を結成する勢力は当初、まとまって1つの政党を結成することについて話し合った)、経済について言えば、修正資本主義の民主党の系譜が、自由党と社会党の間に位置したということができる(民主党と社会党右派による中道政党結成の構想もあった)ので、主要3党のいずれかを中道とするならば、民主党の系譜がそうであろうが、分かりにくいのは確かである。

いずれにせよ、五十五年体制への道は、中道的な勢力が総選挙における敗北、他の政党への合流により、消滅する過程でもあった。冷戦の影響もあって、保守の吉田内閣と、それに正反対の立場から対立する社会党(の左派)が政治の中心であったため、中道的な勢力は埋没したのである。そもそもスタートから弱すぎたのだから、中道が有権者に否定されとはいえないだろう。しかし、当時の日本人が中道の勢力を求めていなかったのだと言うことはできる。