1-10自民党の強さの秘密~あまりにでき過ぎた構造1.政権交代論

社会(民主)主義以外の全政党が合体してできた自民党 アメリカの支援も

自民党は、歴史の長い政官財の癒着構造の中で、大量の資金、票を得てきた。それを実現することができたのは、財界の支持を受ける勢力が結集した政党であるからだ。

官僚の中には社会主義的な官僚もいたが、それらですら、社会党の独占とはならず、自民党にも吸収された。国家社会主義的な岸信介(安倍総理の祖父)は右派社会党入りを断られ、自由党に入った(岸の国家主義的な、つまり右翼的な部分、それまでの歩みから、入党が拒まれたのは不思議なことではない)。その後自由党を離党し、鳩山一郎系、国家の市場への介入に自由党よりも積極的な改進党と、日本民主党を結成した。そして自由党と日本民主党が合流した自由民主党の総裁となった。この自民党には、国家社会主義、つまり政府が経済をかなり徹底的に管理するソ連などの社会主義国の性質も、部分的に吸収されているのである(そのような議員すらいたのだから、自称保守ではあっても、実際は社会民主主義的であった議員が一定数いても、不思議ではない)。だから、政権維持を第一に考える自民党は、その方が支持を得られると考えれば、右から左、左から右へと、簡単に姿勢を変えるのである。

このような面もあるわけだが、自民党は、社会(民主)主義政党を自認しない、ほとんど全ての政党が合流したものである。日本社会党となった無産政党を除き、戦前の衆議院に議席を持っていたほとんど全ての政党が、自民党にたどり着いているのだ。つまり、議会ができて、選挙権の制限のために、無産政党(平等重視の社会-民主-主義政党)が衆議院に進出できないでいる間、全国的にしっかりと根を下ろした自由党~立憲政友会の系譜、立憲改進党~立憲民政党の系譜、それらと合流した政党、会派の地盤を、自民党は引き継いだのである。

その地盤は、敗戦とアメリカ軍による占領によって崩れる可能性があった。しかしそうはならなかった。議員を続けられなくなる政治家は大勢いたが、彼らの地盤は、彼らに近い者に引き継がれ、また彼らの中にも、公職追放を解除され、議会に舞い戻る者達がいた。戦前の自由党系の流れを汲む戦後の日本自由党系、戦前の改進党系の流れを汲む、戦後の日本進歩党系、この双方は、議員の行き来、他の政党の吸収等の再編を繰り返しながら、自民党となった。

戦後は、民主化、工業化の進展により、さすがに社会(民主)主義政党が自民党のライバル政党にまで成長したが、他の先進国(あるいは戦前の列強)のように、労働者階級以外に支持を大きく広げることは出来なかった。そして高度経済成長により、階級闘争のようなものが、あまり必要とされない社会となる中で、道を見失った。

戦前、時間をかけて支持基盤を安定させ、一時期は衆議院の大部分の議席を占めていた2大政党双方の流れの大部分を汲む自民党は、結成時あまりに圧倒的な勢力であった。民主党→民進党は北海道、岩手県、新潟県、長野県、京都府、三重県、愛知県で比較的強かったが、このうち岩手県(小沢一郎)、新潟県(田中真紀子)、長野県(羽田孜)、三重県(岡田克也)は自民党を離党した有力政治家を吸収したことで得た、あるいは強化を果たしたものであった。それ以外は、愛知県の工業地帯など、党の支持層が多く住んでいるというところであり、個々の政治家を中心に強固な基盤が築かれていたとは言い難い(北海道は、横路孝弘が知事を務めるなど、社会党が強かった上に、一時組んでいた新党大地の協力に助けられた)。

自民党には、日本の社会主義化を恐れたアメリカの中央情報局(CIA)の資金援助もあった。終戦からまだ日が浅い時期のアメリカからの援助には、大きな効果があったはずだ。さらにCIAは、社会党の右派にも資金援助をし、同党の分裂、民主社会党の結成を助けた。野党の分断をも実現させたのである。以上はもはや推測ではなく、アメリカの国務省の外交史料集に記された、事実である。

しかし、自民党に社会主義的な面すらあったのだとしたら(日本が最も成功した社会主義国だと言われる件である)、欧米で第1、2党が分け合っていた役割を自民党一党で担い、加えて、その弊害を改める役割りすら、保守新党などが誕生する中、結局は自民党が奪っている(もちろん限界があるのだが、それもまた、不要な曖昧さまで好む人々に、受け入れられている)。自民党以外の政党が育たないわけである。