日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
傷だらけの日本進歩党→民主党

傷だらけの日本進歩党→民主党

戦後の改進党系の系譜を見ると、日本進歩党はすでに述べた通り、圧倒的な第1党として出発しながら、ほとんどの議員が公職追放され、その後の第22回総選挙で第2党となった。しかし戦後の日本進歩党系の問題点は他にあったといえる。

日本進歩党は他党の議員の切崩しに成功し、民主党という衆議院第1党になった。しかしその直後に迎えた総選挙では、日本社会党、日本自由党に続く、第3党に転落した。問題は、さらにその後である。自由党が、第1党となった社会党中心の内閣に入ることを拒んだのに対して(左派を切るという条件を出したが容れられなかった)、民主党は連立に入り、そのことで内在していた党内対立が激化し、分裂を繰り返し、弱体化したのであった。そしてその後、権力を持つ自由党系に寄ろうとする連立派と、野党として、自由党に対峙しようとした野党派に分裂した。上で述べた、非優位政党の2つの選択肢を巡る分裂から、戦後も逃れることが出来なかったのである。連立派は日本進歩党出身の犬養健、野党派は日本自由党出身の芦田均に率いられていたから、以前の合流が災いしたという面も、ないとは言えない。

中選挙区制であった当時、民主党が大きく2つに割れ、その一方を自由党系が吸収したのでは、地盤が狭まった民主党野党派が、野党のまま劣勢を挽回するのは、かなり難しかった。自由党系が、党首の吉田らと、公職追放を解除されたかつての要人達(鳩山一郎ら)との対立に揺れなければ、民主党野党派の系譜に、チャンスは巡ってこなかったであろう。憲政本党→立憲国民党の改革派等による立憲同志会→憲政会が、立憲政友会(自由党系)の大分裂に助けられたのと似た面がある。しかし、民主党野党派の系譜にとってのチャンスとは、自由党系の離党者(公職追放を解除された鳩山一郎ら)が中心となる新党(日本民主党)、政権の成立を許した上で、そこに参加するというようなものに過ぎなかった。

 

社会党の不運と中道の限界→

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