1-13日本の第2党はなぜ弱いのか1.政権交代論

社会党の不運と中道の限界

いよいよ日本社会党である。社会主義、非武装中立という非現実的な志向を持つものの、党内では優位にあった左派と、党を西欧の社会民主主義政党のようなものにしようとする右派との対立、左派の優位によって、ついに自力での政権交代を果たすことはできないまま、時代は変わり、党名が捨てられる、1996年を迎えた。

日本社会党の、社会主義政党から社会民主主義政党への脱皮は、ヨーロッパの社会主義政党よりも大幅に遅れ、しかも不完全であった。共産党について言えば、ヨーロッパでは多くの場合、それは社会主義政党→社会民主主義政党から分かれてできた。この分裂は、残部の社会民主主義政党への脱皮、あるいは社会民主主義政党としての安定化を、かなり助けたといえる。イタリアの共産党などは、日本社会党よりも柔軟な面を持っており、再編を経て、比較的安定した政権を担い得る、社会民主主義政党への脱皮を果たした。

そもそも日本では、産業構造の変化の遅れや弾圧のため、無産政党とも呼ばれる社会(民主)主義政党の発達は遅れていた。むしろ先に、共産党が結成されたという面がある(共産党は非合法であり、その前身ともいえる社会主義政党も、結成されては禁止されていた)。多くが禁止を免れた、社会大衆党~日本社会党へとつながるいくつもの社会(民主)主義政党は、共産党よりも後に誕生しているのである。その中には、ある意味では共産党と変わらないほど左に寄った勢力もあり、戦後に力をつけた。

そのような最左派の伸張、妨害のために、社会党の社会民主主義政党への脱皮は遅れた上に、完成したとも言い難かった。だから冷戦下、資本主義、自由主義の代表の地位をほとんど独り占めしていた自民党に、勝つことができなかった。そのような第2党を持ったのだから、日本人が政権交代を起こせなかったのも無理はないのだが、本当にそう言い切って良いのだろうか。

そもそも、日本の有権者は中道を志向した勢力に冷たかった。中道派は、支持基盤の弱い議員を多く含んだためでもあるが、議席を減らしていくのが普通であった。代表的なのが日本協同党の系譜である。総選挙で振るわず、小党、会派と合流して協同民主党に、さらに国民党と合流して国民協同党(結成時466中78議席)に、しかし総選挙の度に議席を半減(466中63→31、次に同29→14)させて、民主党野党派等と合流して国民民主党に(それでも結成時同67)、と苦労した。

今出てきた民主党にも、経済政策の面で中道の色があった。農業を代表する日本農民党→農民新党→農民協同党も、微増したが、多くて十数議席であり、社会党最右派の離党者達による社会革新党→社会民主党と合流して協同党を結成するも、総選挙で2議席しか得られなかった。中道志向の勢力に含めて見ることができる社会党右派も、当初は優位であったにもかかわらず、左派の劣位に立たされた。以上の勢力の合流も模索されたが、特別に支持もされず、実現しなかった。なお、度々「協同」という文字が出てきているが、これは協同組合によって資本主義の問題点を補おうとする協同組合主義を志向しているということである。

五十五年体制下について言えば、有権者は民社党を躍進させなかった。中道志向の有権者の多くは、社会党から分裂してできたものを除く中道政党と共に、自民党に吸収されたのだといえる(ただし社会党、その右派が結成した社会革新党出身の鈴木善幸が自民党で総裁、つまり総理大臣となったという例もある)。民社党は、労働組合の中の右派という、左の中の中道寄りの組織票を持ちつつも、それを超えて、もともと顕在化したものとしては少なかった、中道的な有権者に支持を広げることはできなかったのである。

有権者の多くが自民党に吸収され、主に権力に批判的な、少数派の左寄りの有権者が社会党の支持者として残されたのだから、社会党内で左派が強くても、何も不思議ではない。中道政党に独自に発展するだけの力を与えなかったのだから、有権者の選択肢も、保守(右)か革新(左)に限られた。さらに社会党の右派の一部が離党して民社党を結成しても、自民党の支持層を切り崩せず、自分達の離党前からの支持層(労働組合の中の右派)を維持するにとどまったのだから、つまり母体を弱らせて、求められていない政党をつくったのだから、社会、民社両党がまとめて弱体化して当然であった。

なぜ、日本人が中道を選ばなかったのかということも考えながら、社会党がきちんと脱皮できなかった背景を、もっと見ておきたい。

1つには、やはり中選挙区制がある。中選挙区制の社会党における弊害とは、結党時にすでに大きく差をつけられている状況下、各選挙区で候補者を、共倒れを避けながら増やすことが難しく、自民党を上回る議席を獲得することが非常に困難であったことだ。自民党のような利益誘導ができない中、自らより右の有権者の票を得るために主張を中道路線へと変えて、各選挙区の当選者を増やすという、すでに議員を務めてきた候補者が落選するリスクを高める方法を採るよりも、各選挙区に少しはいる左の有権者が喜ぶことを言って、議席の維持を確実にする方法が、議員の保身にとって有利であったという問題である。1人は左に寄り、1人は中道へ、というのは、事実上のイデオロギー重視型の政党としては矛盾が大き過ぎるし(路線を玉虫色にしていたとはいえ、社会党の党内対立は自民党のものとは違い、相手の考え方を全否定するに近いものであった)、それで票割がうまくできるというものでもなかった(票割は地域ごと、団体ごとに行わなければ、計画を立てることが難しい)。社会党は実際には、極左の共産党と、中道的な民社党に挟まれており、身動きを取りにくい状況にあった。

中道政党について言えば、一定の地盤があれば、各選挙区(特に定数が多い選挙区)で、当選者を1名出すことは出来たはずだ。だから中道政党の限界は、1名の当選者も出せない、地盤の弱い選挙区が多かったことにある。躍進するために2人目の候補を当選させることが大変であったのは、社会党の場合と同じだ。左に寄れば1人は当選させられる社会党よりも、より不利であったといえる。かといって、1名しか当選者が出ない小選挙区制であったなら、もっと少ない議席数となっていたであろう。

中選挙区制に関することを述べたが、選挙制度の改正は、総選挙の大きな争点になってきたわけではないから、有権者から少し遠い事象である。

もちろん、選挙制度の問題だけではない。より根本的な問題があった。社会民主主義政党が政権を取った西欧の国々、労働組合を重要な支持基盤とする民主党が、多くの大統領を出してきたアメリカ。そもそも、これらの国々とあまりに異なる、日本の事情が、社会党堕落の背景にはあったのである。

西欧などの進んでいた国々を見ると、保守主義政党と自由主義政党、あるいはそれに近い勢力が第1、2党である国が多かった。そして社会主義政党が台頭すると、中間にある自由主義政党が埋没することが多かった。自由主義政党が、保守主義政党寄りと社会民主主義政党寄りに分裂したというケースもある。

中道政党の埋没は、日本だけの問題ではなかったのである。階級的な対立が激しかった時代には、中間層がまだ薄かったこともあり、右と左の中間は埋没したり、左右に裂かれたりしやすかったのだと考えられる。

日本が西欧の国々やアメリカと異なっていたのは、産業構造の変化などが遅かったために、社会(民主)主義勢力が弱かったことである。戦前、日本がそれらの国々に急ピッチで追いつこうとする中で、社会(民主)主義勢力が試行錯誤する余裕、政府が、社会民主主義勢力にそれを許す余裕がなかった(要するに、弾圧が厳しく、その緩和も中途半端であった)。労働組合運動が法的に認められたのも、戦後になってからである。

他の先進国の社会民主主義政党も、社会主義運動や労働運動のグループを母体としている。しかし、政党の形勢を進める過程においてそれらは、理念等について、一定のまとまりを持つようになった。重要なのは、その時、ロシアの社会主義革命がまだ、起こっていなかったということである。これらの国々に遅れて男子普通選挙制を日本が実現させた当時、ロシア革命は成っており、ソ連が成立していた。日本の社会(民主)主義者はソ連が視界に入る状況で、第1回総選挙を迎えるべく、結集に乗り出したのである。議会政治が行われていた西ヨーロッパの国々では、それより前に主要な社会(民主)主義政党が結成され、主な政党の1つに成長していた。ロシア革命→ソ連に共鳴する勢力、あるいは戦争をすることに反対の勢力など、最左派は離党し、共産党を結成した(『他国の政党、政党史』で少しずつ見ている)。このために、社会民主主義勢力と社会主義勢力への分化は、日本よりスムーズに行われた。

イギリスやドイツでは済んでいたとすら言える路線闘争を伴う再編を、日本は、ソ連の誕生後に、本格的に経験した。支配者層等が社会主義の「流入」を強く警戒し、政府が弾圧を続ける中で(治安維持法の最高刑が死刑となった)、日本の社会(民主)主義勢力は、最初の本格的な成長を成功させなければならなかった。かなり厳しい環境であったと言えよう。そんな中、本来共産党に参加するような勢力、共産党に近い勢力が、共産党よりは弾圧を受けにくい他の無産政党の再編に加わり、社会大衆党、戦後の日本社会党を揺さぶった。

戦前、社会主義者は弾圧されていたから、社会大衆党における左右両派の路線対立は、戦後の日本社会党のようには深刻ではなかった(ただし再編の過程では激しい対立があり、結成後にも最左派の離党があった)。左右両派の対立は、戦後それらが再度結集した、日本社会党に持ち込まれたのだといえる。なお、戦前の社会大衆党では、党勢の拡大を、国家主義者との、国家社会主義を目指す再編で代替しようとする勢力も強かった。当時の国家社会主義といえばソ連であり、そのような勢力はつまり、無産階級の支持すら広く得られてはいなかった状況下、本来の社会主義ではなく、実際に誕生した独裁的な社会主義を志向したのであった。このような議員達もまた、戦後の日本社会党の構成要素となった。

さらに、日本には敗戦があった。価値観のリセットである。戦争に対する反省、戦争へと歩を進めた権力に対する反発、アメリカの当初の左派的な占領政策が、社会主義、そして非武装・(米ソが対立する状況下での)中立という、非現実的な平和主義の主張に、一定の説得力を持たせた。他の先進国には、そのようなことはなかった。

このような状況下において、共産党と近い社会主義勢力、穏健な社会民主主義勢力、かつて国家社会主義を志向した勢力を、歴史ある保守勢力(戦前の自由党系、改進党系)に対抗するべく、抱合する政党として誕生したのが、日本社会党である。他の先進国等がかなりの程度済ませていた路線闘争と再編を、大きく遅れていた上に、さらに先送りしたわけだが、そのようなリスクを背負ってでも大同団結しなければならないほどに、日本の社会(民主)主義勢力は、まだ弱かったのだということができる。

こうして日本社会党は、内輪もめを起こすべき政党として、誕生したのだ。そして誕生後は、戦前にはなかった自由を得る一方で、社会主義国の敵国化、次に社会主義国の不振が明確になり、展望を失っていった(共産党の方は独自路線を採った)。

そしてもう1つ、日本の無産政党には政権運営の経験がなかった。西欧の国々を見れば、多くが戦前に与党を経験し、首相も出していた。オーストラリア、ニュージーランドも同様である。

社会主義革命の成功を横目に、社会主義国にあこがれる大勢力を党内に含み、それが小さくない支持を得る状況下、与党を経験しないまま、いきなり、しかも過半数には遠く及ばない与党第1党となり、政権運営に失敗した後に野党に転落したのが、社会党である。社会党も悪いが、生まれと育ちの、時代の巡り合わせが悪かったのだと、同情する余地はある。同情するというのは、目をつぶるということではない。問題点の克服を助けようという、心意気を持とうと言いたいのである。

中道政党についても触れておかなければならない。戦後、あまり時をおかず冷戦の時代を迎え、保守(資本主義)か革新(社会主義)かを迫られ、前者が体制派、後者が反体制派というような色分けが定着する中、反体制の有権者は社会党を支持したし、そうでない有権者の中に、与党であった保守政党よりも、野党であった中道政党を支持しようという者は少なかったのだと考えられる(そこに政策的な背景が全くなかったとは言わないが)。

デンマークでは、自由党が、保守党側と、社会民主党側に裂かれた。日本では、日本進歩党の後継であった民主党が、自由党寄りと社会党(の右派)寄りに分裂した(デンマークの自由党残部は保守陣営の中心となり、没落はしなかった)。だが結局は日本社会党、日本共産党以外の大部分の勢力が、自由民主党に結集した(2つの現象が起こっているのは興味深いが、また改めて見ることにする)。その過程において、代表的な中道政党であった日本協同党の系譜は、民主党野党派と合流していた。

さて、社会党が存在していた当時の有権者にできたことは何かと考えると、1つは、政権担当時に離党せず、現実の政治と向き合い、与党の経験を少しでも積んだ議員達を、支持することであった。連立与党に加わるという経験すら、それまでなかった社会党は、政権担当能力が不十分であった。しかし当時、まさにその経験を積んでいっていたのである。残留した多数派の議員達が支持されてさえいれば、左右2派に大分裂することもなかったとまでは言えないが、いくらかは、ましな道をたどったのではないだろうかと思う。左派が右派を押さえつけられるほどに強くなった背景には、右派が中心となった政権が崩壊したことと、その後の総選挙における、大惨敗もあるのだ。

五十五年体制下について言えば、社会党を離党した右派の議員達が結成した民社党を、第2党に押し上げることであった(候補者数が少なすぎたといっても、議席を順調に増やすことができていれば、候補者も増えていったであろう)。そうすれば、民社党を中心として、社会党本体を巻き込んだ社会民主主義勢力の、史実とは違う結集が実現し、野党の多党化も深刻になっていなかったかもしれない(弱小の最左派の政党は存在していたであろうが、社会民主主義勢力は、自民党の支持者を、多少なりとも切り崩せていたであろう)。一度強い中道(寄りの)政党ができてしまえば、それが多くの支持を集めるということは、あり得たかも知れない(前例がないから分からないが)。

実際には難しかったということも、民社党にも問題があったことも、分かっている。例えば支持基盤の労組(総評が社会党支持、同盟が民社党支持という形になった)に、経営者側の意向を背景に結成され、その言いなりになりやすい協調路線を採る、いわゆる御用組合を比較的多く含んでいた点だ。あまりに強硬的な組合にも問題があったとは言っても、改善が必要であったし、今も必要である。

現実的であった民社党が第2党となっていれば、自民党と渡り合えたかもしれない。ただし、大きな問題があった。これのために、実際には難しかったと、どうしても言わなければならないのだ。

そもそも左派の方が支持されていたということは別としても、一時的に社会党と民社党が、野党第1党の座をかけた対決をしなければならなかったことが、問題であった。第3党のままでは、いきなり自民党の票を多く削り取ることは難しかったと考えられるからだ。

自民党に否定的な有権者の多くは、たとえ違和感があっても、第2党の社会党に入れておくことが効果的だと考えていた。これは今も同じことで、野党第1党は、それだけで一定の支持を集めることができるから、野党第1党を、その地位から引きずり降ろすことは難しいのである(2017年、総選挙によって第2党が入れ替わるということが、1955年の自社両党結成後初めて起こった-第1、2党が入れ替わって再度戻った2009、2012年の総選挙を除く-が、総選挙前に第2党であった希望の党は、突然の解散によるドタバタの中で、第2党が合流してくることが決まり、しかしその過程で第2党が大きく分裂するという、特殊すぎる例である)。

五十五年体制下は中選挙区制であったから、自民党から、第2党の社会党と、現実的な左派政党の民社党に票が移り、徐々に3党が並び立つ形になっていたということも考えられなくはない。しかしすでに見た通り、自民党は非常に強かった。社会党と民社党のどちらかが、有権者の目に特別に魅力的に映らない限り、それは難しかったであろう。

つまり、社会党と民社党の「対決」は避けられなかったわけだが、中選挙区制であっても、自民党の候補が漁夫の利を得ることは十分に考えられた上、一人一人別人である有権者が、中選挙区制下、第2党と第3党を入れ替えることは、至難の業であった。

社会党優位のまま、社会党と民社党が合流するということも、考えにくかったが、もしも民社党が、結成時より一定程度議席を増やし、社会党に残留していた右派との合計が左派を上回るような状態になっていれば、右派優位の再編、第2党の変革が実現していたかも知れない。そのために、民社党を伸ばす以外にできたこととしては、社会党でも現実的な議員を当選させ、そうでない議員を落選させ、その変化を促すということしか思いつかない。

しかしこれは、地道すぎる方法ではあっても、社会党の脱皮には、重要であったかも知れない(1つの選挙区に社会党の候補が1人しかいない場合でも、選挙区を超えて、それを行うことはできたかもしれない。社会党の候補とは別に、左派系の候補を有権者が立てることもできたであろう)。

日本の社会(民主)主義政党は、欧州の社会(民主)主義政党よりも確かに未熟であった。しかし、そうだからといって切り捨ててしまえば、日本は有力な左派政党を持たない国になる可能性がある。先進的な国の中では、そのような国はカナダくらいしかない(カナダでも、小選挙区制でありながら、2011年の総選挙において、社会民主主義政党の新民主党が、従来の2大政党の一方である自由党―もう一方は保守党系―を上回る結果となった。またカナダの自由党には、中道左派の性格もある)。他の先進国などの有権者が持っている選択肢を、完全に失うことになりかねないのだ。