日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
バブルの頃、小選挙区制は第2党をつぶすための案だった?

バブルの頃、小選挙区制は第2党をつぶすための案だった?

1994年、衆議院の選挙制度は小選挙区制中心のものとなった。小選挙区に改正する案は、五十五年体制が崩壊する前に浮上していた(それ以前にも、自民党の改革または勢力維持のため、何度も導入が論じられていた)。2大政党制を目指すものだと言われてはいたが、その手段として小選挙区制を用いるのは、非常に乱暴な方法である。当時の状況で完全な、つまり比例代表制との並立ではない小選挙区制を採れば、自民党に圧倒的に有利であったことは想像に難くない。自民党がさらに議席を増やし、野党がさらに減らし、1党制に近い状況になれば、やがて大きくなりすぎた自民党が分裂し、保守2大政党制になるというものである。

確かに、小選挙区制になれば、野党がほぼ1つにまとまり、自民党が信頼を失った時に政権交代が中選挙区制より起こりやすいという見方があった。しかしその場合ですら、自民党がよほど人気を落とさない限り、最初は野党が議席を大きく減らすことが想定された。自民党の候補が弱く、野党の幹部級の有力者、あるいは人気者がいる選挙区では野党が勝てたかもしれないが、現在のように保守系の議員が野党にいたわけではなく、また野党は組織票で自民党に大きくリードされていた。またそもそも、共産党と他の野党が組むことは考えにくかった。そうであれば、政権、自民党への批判票は多少なりとも分散していた。その後の歴史をふまえて想像すれば、自民党に対抗できず、同党にすり寄る公明党の姿が思い浮かぶ。

確かに冷戦終結後、自民党は何度か分裂した。しかし1993年6月を除けば、ごく小規模なものばかりであった。野党に転落していた時も、である。93年の分裂でさえ、そこまで大規模なものであったわけではない。小選挙区比例代表並立制が導入された後は、大政党に属していないと、非常に不利になった。完全な小選挙区制が、与党自民党によって導入されていた場合、議席をより増やし、敵がより弱くなったからといって、はたして自民党がそんなに大きく割れたであろうか。野党は大打撃を負って、あるいは負うことをおそれて現実的になっていたかも知れないが、それで自民党に対抗できる存在になれたであろうか。今の状況から想像すると、いや、それを抜きに考えても、やはり難しかったと思う。

もし自民党が7:3程度にしか割れなかったら、「7」の方の1党優位になっていただろう。特に「7」が離党した方ではなく残留した方であればなおさらだ。そうなれば「3」の議員達が「7」の方に移ろう(戻ろう)とするはずだ。新進党の結成前後、同党(に参加するべき議員達)から自民党に復党する議員達が現れたことを思い出して欲しい。そのような議員達が小選挙区の当選者であれば(比例代表制が設けられていなかった場合、衆議院議員は全て小選挙区の当選者だということになる)、その選挙区の当選者がいない優位政党にとっては、戻ってもらって損はない。

永遠に政権交代が起こっていなかったとまで言うつもりはないし、保守2大政党制の是非については改めて述べるが、優位政党の中から(小沢一郎は政治改革を唱え始めた時、まだ自民党の議員であった)、野党の壊滅を前提としたような構想が出て来ることに、1党優位の恐ろしさがある。

結局、小沢らの自民党離党によってしか事態が動かなかったこともあり、比例代表で各党の議席数を決める制度を望む、従来の非優位政党にも配慮し、小選挙区制と比例代表制を単純に合わせる制度になった。小選挙区300議席(300選挙区)と、比例代表(全国を11ブロックに分け、各党はそれぞれの名簿を作成)200議席分と、小選挙区制の比重が5分の3にまで高まった要因に、与党第1党社会党から大量の造反者(法案反対者)が出たことで、政治改革関連法案が参議院で否決されたことがある。今はこれ以上触れないが、そうでなければ250ずつになっていた。つまり社会党の造反者は自らの首を絞めたのである。

比例代表制が付くことで第2党以下がすぐの壊滅を免れたとしても、小選挙区制において自民党が圧倒的に有利であることを打ち消すには、比例制への議席配分は小さすぎた。

ただしこれは後の視点である。この当時の自民党は野党であったから、連立与党が団結を維持すれば、自民党を壊滅させることもあり得た。その肝心の団結に、連立与党は失敗したのである。

最後に、左すぎる、あるいは時代の変化に取り残された社会党を、選挙制度を不利なものにしてつぶそうとしたことの是非に関して考えたい。

そのようなことは本来、有権者が決めることである。しかしすでに見た通り、中選挙区制(大選挙区単記制)は、変化が起こりにくい制度であった(3人区ならまだ良いが、別の問題もある)。だから選挙制度を変える必要はあったと言える。どのような選挙制度が良かったのか、あるいは今、どのような選挙制度にするべきかとうことについては、また改めて考えてみたい。ここで言えることは、1993年当時、どのような大政党が競争することが良いのか、という議論が不足していたことだ(決めるのは有権者だから民意が最も重要なのだが、国会議員の議論はそのヒント、選択肢になる、重要なものであった)。自民党の利権体質とばらまき、社会党の社会主義政党からの脱皮の不十分さ、これへの急ぎの処置に終われ、グランドデザインについて論じる余裕があまりなかった。そしていつの間にか、保守2大政党制が正解とされ、それも失敗に終わった(社会党の抵抗は小さく、第3極として、左派政党がある程度残れば良いという、あきらめムードであったと言える)。

小選挙区制を中心にした選挙制度になれば、中選挙区制下よりも幅広く票を得なければ当選しないため、自民党に対抗する政党も、社会党のように左に偏ってはいられなくなるのだと考えられていたと言える。しかし小選挙区という1対1の戦いだからこそ、政党は派手になった(「派手」とはつまり、極端になったと言う意味である)。2009年、総選挙で初めて第2党に転落し、野党となった自民党は、右に舵を切った(例えば2012年の、権力よりもなぜか国民を縛ろうとする憲法改正草案)。2012年に野党に戻った民主党は左に舵を切った。野党であれば極端になっても、政権を担っていないために、負の面が目立たないということもあるだろう。むしろ両党の転換は、直ちに多くの支持を得る自信がなかったからこそ、与党になったライバルの、弱い部分に根を下ろそうとしたのだと考えられる。政権交代、特に有権者が選挙で起こす本格的な政権交代の経験に乏しく、それが定着すると考えにくいことで、このような同時代~過去の欧米諸国とは異なる現象が見られたのだと思う。

 

経験不足と、嘘っぽい公約は必然→

 

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