日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
民進党の姿を決めているのは自民党?

民進党の姿を決めているのは自民党?

1党優位制の下では、優位政党が幅広い層から支持を得て、その政策は特に総花的になりやすい。全てを実行できないのは当然だが、野党がそれをつこうとしても、「お前ら万年野党じゃ、もっとできない」あるいは、「お前らは政権を取っても何もできないだろ」と、有権者に言われてしまう。自民党に票を投じる有権者の不満はそう簡単に爆発しないし、爆発したというレベルで、つまりすごく不安定な状況でしか政権交代が行われないのは怖い。経験不足の新与党は、ストレスを抱えた国民の、さらに大きな怒りを買い、政治不信とあきらめだけが残るからだ。

1党優位制下の野党第1党は、優位政党に将来も勝てそうにないが故に、とにかく与党に反対することで、活路を開こうとする傾向がある。「反対するだけでは政権は取れない」と言うが、政権など、本気で狙ってはいない。まずは少しでも議席数を増やして、順境と思われる状況に身を置きたいだけ。それが1党優位制下の野党である。

自民党内閣下で高度経済成長が実現している(もともと成功しやすい条件があったが、それを活かしたことは間違いない)中、野党第1党などは、「汚職は許さない!」、「アメリカ追従反対!」、「自衛隊反対!」と、派手なテーマについて、ことごとく反対をした。その後も同様である。その多くは、代案のない反対、あまりに非現実的な代案しかない反対であった(代案が必要ない反対もなくはないが)。一方で、特に注目されていない法案、意見が分かれない法案については、協力的であったりする。誰もが賛成している法案に反対するのはおかしいが、意見が決定的には分かれないようなテーマについて、一定の志向の差異も背景として、より良い政策を国民の前で競うことも重要だ。野党がそれをしていなかったとは言わないが、バランスが悪かった。

2001年、自民党は大きな変化を見せた。幅広いとも曖昧だともいえる性格から、新自由主義的な色合いをぐっと強めたのだ(ただし、その後は、リーマンショックなどの影響もあるし、時期にもよるが、その傾向が多少なりとも弱まっていった)。

そのような状況下、民主党は小沢代表→幹事長の下、「事業仕分け」による節約を財源ねん出のために目指しながらも、新自由主義的な改革を自民党と競い合う路線ではなく、改革の副産物である格差に焦点を当て、これを是正する政策を採り、自民党の先祖返りに対しては、「コンクリートから人へ」という、(同じバラマキでも、)公共事業重視から人への投資・社会保障重視への転換を唱えた。なお、小沢はかつて自民党にあって、新自由主義的思考を持つ、異色と言ってもよい政治家であった。それが庶民の生活重視になったのは、貧富の差の拡大を前に考えが変わったのだとしても、自民党に対抗するためだという面が大きい。

ここに日本の野党第1党の問題点を見て取ることが出来る。自民党はかつて、公共事業等のばらまき型の政策を実施していた。それが不況も長引き、以前のような経済成長が見込めなくなったこと、政治の腐敗が問題となったことで、転換を迫られた。そこで橋本内閣の改革路線が出てきたが、景気を悪化させた反動により、次の小渕内閣期には再びばらまき型にもどり、自民党をクリーンなイメージの政党に変えて見せることもままならなかった。このため、自民党は無党派層の多くにとって、変わらずに、批判する対象であった。しかし、それだけで政権交代が起こることはなった。

第2党となった民主党は当初、クリーンなイメージ、自民党以上に改革を実行できるというイメージによって、無党派層に浸透していった。政権を奪取する展望はなかなか開けなかったが、自民党は人気をどんどん低下させており、1党優位の構造がついに崩れる日は来るかもしれないという希望も、ある程度抱ける状況になった。やっと、なんとかいけるか、いけないかというところであった。

だがそこで、従来では考えられないことが起こった。小泉純一郎を党首に戴いた自民党の人気が急上昇した。小泉は非主流派と言える位置にあり、自民党の多くが反対していた郵政民営化を唱えるなど、個性派であったため、総裁になれるはずがなかった(1998年の総裁選でも、人気は1番、結果は最下位であった)。ところが追い詰められ、なりふり構っていられなくなった自民党は、とうとう人気のある小泉を総裁に選んだのだ。

政権交代への険しい道は、振出しに戻されるどころか、閉ざされたかのようにすら見えた。民主党はなお、自民党が小泉改革支持派と抵抗勢力に分裂することを期待することはできたのだが、自民党は与党にいるためなら何でもする政党だ。郵政民営化を巡る小規模の分裂はあったものの、民主党が期待したような大分裂は、とうとう起こらなかった。

そんな時、小沢一郎が民主党の党首に就いた。小沢民主党は、それまでの無党派層に支持を広げる路線から、小泉改革で損をする、従来の自民党の支持層に手を突っ込むと共に、他の、格差の拡大をもたらしていた小泉改革に否定的な、有権者に支持を求める方針に転じた。とは言っても、無党派層の喜ぶ改革も掲げていたし、高速道路無料化などの人気取りの政策(可能か疑う人も多かったが)も残していた。さらに反自民というだけで、一定の無党派層の支持を、引き続き無条件で得られた上に、小泉改革を支持した無党派層の一部も、政権交代と言う変化に期待して、民主党に流れていた。だから正確に言えば、従来の無党派層が求めていた改革路線を部分的に変えても、無党派層が離れないと踏んだ上で、小沢は、民主党の先祖返りに手をつけたのだ。

この路線は成功した。自民党支持に流れる人々が少なくなかった無党派層が、安倍内閣以降の自民の、小泉改革路線の停滞に失望したことで、民主党はそのような無党派層と、小泉改革に否定的な保守の有権者、小泉自民党にも否定的であった無党派層の支持を得ることができた。それでやっと、政権交代が実現したのである。

以上の何が問題かと言えば、第2党(民主党)が、自らの信念というよりは、優位政党(自民党)を見て、自らの路線を決めたことだ。確かに結果としては、新自由主義的な選択肢と、社会民主主義的な選択肢を、有権者は得た。しかし、だからそれで良いというわけではないのだ。(当時の)自民党に批判的だというだけで、本来相容れない志向の有権者の支持をまとめなければならなかったことも、問題である。

以上のことは、野党第1党のイメージが安定することを妨げる。皮肉なことに、新進党、民主党の「寄せ集めの政党」というイメージにはピッタリであり、むしろ党内の矛盾を目立たなくする面すらあったのだが、同時に、有権者にとっては、優位政党に対する挑戦者を安易に取り替えることに対する、抵抗感を弱めた。「あの政党は節約型、競争重視だ」、とか「あの政党は平等重視だ」とか、政党におおまかな、しかしある程度安定したイメージがなければ、有権者が自分と近い政党を選ぶことは難しい。どうしても、スキャンダルや政局、人気政治家の新党結成など、その時々の話題に振り回されやすくなる。

これとは違う危険もある。2009年、民主党が政権交代を実現させた時には、自民党が優位政党の地位を失うどころか、万年野党になるという見方すらあった(本当に極端で、ありえないことである。どれだけ政権交代を知らないのかと、あきれてしまう)。そして自民党が、民主党の反対を行こうと、右傾化を進めた。2大政党に合理的な差異があるのは良い。だから筆者はこのような動きを評価している。しかしアピール偏重で行き過ぎてしまった(安倍の改憲論の様に、口ではそれまでの自民党よりも積極的な振りをして、実際は慎重であるという傾向も見られた)。

これでは第1、2党の双方が相手に反対することばかり考えて、互いの距離をどんどん広げてしまう。右翼的な政党と左翼的な政党による2大政党制(に近い状態)など、少なくとも先進国では見たこともない、危険な政党制になりかねない(最近ではアメリカの2大政党が左右に離れていく傾向が見られるが)。小選挙区制とは本来、第1、2党がボリュームゾーンである中道に寄ることで接近する(穏健化する)制度のはずだし、日本の有権者の多くが右翼、左翼であるはずはないのに。

完全な小選挙区制を採るイギリスでは、かつて保守党が、労働党の社会保障重視の姿勢に近づいた。その後、同党は新自由主義に転換し、今度は労働党が、それを部分的に受け入れる変化を見せた。このように大政党の政策は、時に状況に応じて変化をするものである。しかし、保守党が労働党に寄った時、それは労働党の政策を認めて寄ったのであり、有権者の多くが労働党の政策を評価していたからこそ、起こった変化であった。本家は労働党で、保守党が状況を見て変化したことが、理解されていたわけである。そして保守党が新自由主義に転換した時、有権者は労働党の敷いたレールが破たんしかかっていることを認識して、保守党の転換を評価した。次に労働党の政策が保守党に近付いた時、有権者は保守党の路線に認めるべきところがあり、労働党が自らの従来の路線と保守党の新たな路線を包摂し、双方の問題を克服しようとしていたことを知って、評価した。日本の第1、2党について、このような光景は見られない(欧米でも最近このような機能が低下しているが)。

自民党は確かに以前から、野党の政策を取り入れ、左にウイングを広げてきた。しかし野党の政策が広く評価され、それを自民党が取り入れたと認識されることは、あまりなかった。つまり、手柄は自民党のものとなっていた。何でも屋の自民党が自ら実行するのだから、無理もない。背景を注視する余裕のない有権者からすれば、自民党がうまくやっているという結果、あるいは候補者等の「売り込み」があるばかりなのである。

自民党が野党の政策を取り入れる時、野党はそれを、「不十分だ」と、自民党の守旧派的なイメージ、右寄りのイメージを利用してたたく。それ以外では自民党と反対の姿勢を採るのだから、これでは何もかも、野党は自民党に規定されているということになる。

自民党の政策であっても、票が減る可能性がある場合、自民党は話題にしたがらず、野党は話題にしようと頑張るが、盛り上がらずに失敗することが少なくない。この、自民党が消極的に争点を設定したような場合であっても、自民党の法案は成立し、その争点はいつしか忘れられ、政権を担う自民党が、また争点を用意する。野党はスキャンダルばかり追求すると言われるが、有権者がこうも自民党に甘く、また忘れっぽいのでは、野党に「もういい加減にしてくれ」とはとても言えない。

最近でこそ、民進党は自由、社民、共産3党と、明確に左派ブロックを形成したが、それに納得していない議員も多く、分裂に至った。民主党と自由党の連携が1999年頃に定着していたら、両党が新自由主義的な姿勢で、ばらまき型にもどっていた自民党と対峙していたであろうと、筆者は想像する。その場合、民主党の左派が党内で不満を強めていたであろうが、当時の民主党は社会党系の色を払しょくしようとしていたから、そう深刻なものとはなっていなかったであろう。しかし本当は民主党が、自民党にあまり振りまわされず、「これをやりたい」という政策を提示し、なんとかそれを争点にしなければならない。それができなかったから、ずっと脇役のままなのである。

例外はある。2003年の総選挙の際、公約に数値目標を入れたマニフェストを、民主党が打ち出したことである。野党第1党の土俵での勝負になったと、話題になった。しかしそれでも、マニフェストの中身が争点になったという面は小さい。高速道路無料化など、有権者の負担が軽くなるように見える、印象的な政策を含むマニフェストを打ち出す野党と、政権を担当していただけに、バラ色の公約は出せない自民党の争いになっただけだ。

自民党と野党第1党のそれぞれの、理念と日本の現状に基づいた政策のパッケージがあり、その差異を野党第1党が示しながら、自民党の、特に問題があると考える政策について追及し、「自分達ならばこうする」と、自らのメリットを挙げる。これが理想である。自民党がそれを取り入れれば、野党第1党の政策が正しかったと皆が認識しやすく、さらにそれが自民党の理念、政策のパッケージに合うものなのかを、野党は問うことができる。「われわれの政策のパッケージを全て採用した方が良い」、つまり政権交代を実現させた方が良いと、アピールすることが出来るのである。

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