日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
民主党→民進党よ対案を掲げよ!と簡単に言うな

民主党→民進党よ対案を掲げよ!と簡単に言うな

民主党の左旋回には、格差の拡大を責めるという、分かりやすさがあった。その前の2005年の郵政解散の後、前原代表の時代の民主党は、改革を競い合う対案路線が注目されず、結局、スキャンダルを追求しようとして自滅した(偽メールを本物だと思って自民党を追求し、それが前原代表の辞任につながった)。

確かに前原が代表であった期間は、対案路線の成否を評価するには短すぎる。しかし、そもそも具体的な対案を出せるほど、民主党がまとまっていなかったと言うこともできる(社会党出身者と自民党出身者が混在しているという問題もあったが、当時は約2年前に入党した小沢一郎が、対案路線に否定的であった)。しかしあの当時こそ、国民、メディアは、少なくとも民主党の変化だけについては、もっと大々的に賞賛するべきであった(そのような傾向が多少見られたのは、代表戦の前後の短い期間に過ぎなかった)。政策に問題があると考える場合などにも、その後で指摘することが大事であった。徹底抗線よりも対案路線が支持されるという実感を、民主党全体に与えるべきであった。手がかかるが、目立ちやすい徹底抗戦の方が多く報道され、話題になるというのでは、変化への意欲はどうしてもそがれてしまう。

第2党ではないが、日本維新の会などの対案路線についても、特別注目され、多くの国民の支持を得たということはない(そういう方法でも、野党第1党の変化を促すことはできるのだが―たとえ一時的に対案型の他の野党に支持率などで迫られても―)。

参考となるのは、1998年秋の民主党である。社民、さきがけ両党に連立を離脱され、参院選で過半数割れを起こした自民党は、苦境に立たされていた(最近と違って、衆院で与党が3分の2を超えているわけでもなかった)。しかも、金融危機に直面していた。当時、民主党と小沢一郎の自由党、公明党系(衆院では新党平和、参院では公明)、共産党が野党であった。それら野党にとっては、自民党を追い込むこと好機であった(公明党系は自民党に寄りたかったであろうが、批判を招く寝返りには、慎重にならざるを得なかった)。特に民主党と自由党には、自民党を解散総選挙に追い込み、政権交代につなげる意欲があった。しかし菅直人民主党代表はこの問題について、政争の具にしないとした。

金融危機に対処するため、与野党の協議の末、民主党案に近い金融関連法案が成立するなどした。ところがこのことで、民主党が大きく支持を伸ばすことはなかった(むしろ同年の参院選での躍進に伴い伸びていた支持率が、下がっていった)。民主党に失望した小沢は、自民党と連立を組む方向へと、再び舵を切った。このことで公明党系も自民党に寄りやすくなり、政権交代は遠のいたのである。当時は非常に人気の強かった菅直人代表のスキャンダルもあったし、このことだけで社会党の流れをくむ、政権運営の経験に乏しく、寄り合い所帯の民主党を支持するわけにはいかないと考えた人も少なくなかったのだろう。しかし、抗戦型野党でなければ埋没してしまうという、一つの大きな前例になったと言える。抗戦型の社会党の限界が記憶にまだ新しかった当時であったから、そのような前例にしないために、民主党を評価する必要があった。左寄りの人々も、与党となった社会党の、現実への妥協(=自民党への妥協となる)を、民主党に重ねてみるようなことはせず、民主党に支持を集中させる必要があった(それによって民主党内の保守派が力を増すことになったとしても、左派政党がリニューアルされ、新進党よりも左の、野党第1党を手に入れたことに、とりあえずは満足するべきであったと思う。何かの機会に再び再編へと進むことも、十分可能であったのだから)。

それから8年近く、色々なことがあり、小沢は民主党の代表となった。最初の補選で成果を上げるなどした、選挙に関する能力自体もプラスに働いたと言えるものの、小沢の徹底抗戦路線は、実際に民主党の人気を高めた。参院選での勝利の後、ねじれ国会を利用して自民党を追い込んで見せても、それは衰えなかった。国民は自民党全体を敵役として認識するようになった。小沢が前向きでたあ自民党との大連立構想については、民主党内だけでなく、国民の支持も得られなかったと言えるが、少なくとも、民主党の経験不足を補う効果はあったと言える。この大連立構想は、対案路線を求める所属議員達に対する、小沢の一つの解答でもあったと、筆者は考えている。自民党と連立を組んで与党になれば、自民党の案を正して評価を得るという方法も、自ずと採られるようになっていたであろうからだ。しかしやはり、手柄が自民党のものとなるリスクが大きすぎたと思う。大連立を否定したことで、民主党の反小沢派は、小沢の徹底抗戦路線を受け入れるしかなくなったのだと言える(元々徹底抗戦路線を志向していた者も、少なくなかったと考えられるが)。

付け加えて言うと、第1党と対等な第2党でない場合、何をやっても優位政党に勝てそうもないと考え、政権交代は実現しなくても、とりあえず内閣だけは倒そうと、目標を見失うことが大いにあり得る。民主党はそのようにならないで、何十年でも、野党として自らを磨くべきであったとも言うこともできるが、変化の時代となるはずであった当時、民主党も政権を失った後のように疲弊してはおらず、安全保障政策等について、現実的な対応をしようともがいていた。だから実際には、それは酷であったと言わなければならない。

最後に、審議拒否について述べておきたい。国民の税金で歳費(給料)を得ている国会議員がボイコットをすることに対しては、昔と比べて批判も多い。その気持ちは十分わかるが、閣僚がはぐらかし答弁に終始する場合、そもそも議論の意味がない。なにより、野党が提出する法案は基本的には議論もされない。少数である野党の法案が成立しないのは良い。しかし議論することによる問題提起(自民党内閣の問題点の指摘)すら許さないのだから、これも野党から見れば審議拒否である。野党の質問時間を減らしたことも、理由はどうであれ、与党の審議拒否に準ずるものだ。

本来、内閣のはぐらかし、議論のすり替えのようなものは、国民の反発を招くのだが、日本の場合、そうなることはまれだ。特に最近では、野党に対する誹謗中傷も多く、議論すればするほど、野党が偏っていると批判されて、追及されるべき内閣の逃げ得となり、明確にされるべき真実にもフタがされたままとなる、リスクが高い。

野党の調査能力などの低下も大きな問題だが、審議拒否に至る過程を冷静に分析することが出来ていない、マスコミや国民にも問題がある。特に2017年、衆議院か参議院の4分の1以上の要求で開かれることが憲法に記されている臨時国会を、開かないで逃げようとした自民党(自民党政権)も、もっと批判されるべきである。外遊など、もっと大事なことがあると言うのだろうが、それでいて、野党第1党が弱っていると見るや臨時国会を開き、所信表明もせず、代表質問もないまま、いきなり衆議院を解散したのである(このことを棚に上げて、野党は解散を求めていたではないかと言うのは、愚の骨頂である)。

結局開いたわけだし、その後特別国会を開いたのだから良いではないかというのなら、同様に野党が要求した2015年には、開いていない。いつまでに開かなければならないという決まりは確かにない。憲法には国会の臨時会、つまり臨時国会を開かなければならないことが記されているだけで、翌年の通常国会を合理的な期間の内に開いたから問題がないというのが政府の見解だ。2015年は10月、2017年は6月に、野党は臨時国会の開会を求めている。2017年ですら十分問題なのだが、2015年は、翌年の1月の、必ず開かれる通常国会まで待たされた、つまり臨時国会は開かれずに終わったのだから論外だ。通常国会が9月の下旬まで延長されていたことも背景にはあるが、それも政権、与党の決断である。また、臨時国会を開くこと自体の是非は、別の問題である。憲法違反なのだから。憲法に何も問題がないというわけではない(憲法を全く改正しなかったことに問題がなかったというわけではない)。総理大臣や閣僚の国会出席を減らす必要もある。だからと言って、憲法を破っても良いということではない。それに臨時国会について言えば、内閣(自民党)が開きたいときには開くのだから、やはりおかしい。野党の追及の仕方に問題がないとは言わないが、内閣を追求する野党の後ろには、票を投じている多くの国民がいることを、忘れるべきではない。

主要各党が誇りをもって、実りのある憲法論議をすることができるよう、状況を変えていかなければならない。しかし、憲法を改正するにしても、国会を改革するにしても、今の与野党の間には、信頼関係があまりに欠如している。歴史上たった1回の本格的な政権交代と、その前後のプロセスが、民主主義について遅れていた日本にとって、それだけ衝撃的なものであったからだろうが、与党も野党も、同じ日本人の代表であるという点で、やはり互いに対する敬意、理解が必要だ(政権交代が定着すれば、知恵も余裕も生まれるのだろうが、それを待つばかり、というわけにもいかない)。

野党がどのような状態であれ、憲法違反をする政権の与党が選挙で大勝するのだから、それはもう、有権者公認の憲法違反だ。護憲、改憲、創憲、加憲、色々な言葉があるが、守られない憲法、権力者を縛れない憲法など、守っても変えても意味がない。このような言い方が極論に聞こえるうちに、慢性的な1強状態を何とかしなければならない。

 

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