日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
石原新党の失敗

石原新党の失敗

まずは、たちあがれ日本だが、次に見るみんなの党、日本維新の会と比べると、同時期に結成された新党改革同様、人気はなかった。

たちあがれ日本は、野党となった自民党を離党した議員達と、平沼赳夫(郵政民営化に反対し、復党の条件となった、違反した場合議員辞職をするという屈辱的な誓約書へのサインを拒んでいた)が結成した政党であったが、議員数は5程度(結成時衆3参2)程と、小規模なものにとどまった。この党は、当時都知事であった、石原慎太郎を発起人としていた。石原新党という性格も、少なからず持っていたのである。

しかし、結成があまりに遅すぎた。自民党政権の人気が下がっている時(小泉内閣期にもそのような時はあった)、かつ石原に大変な人気があった時に結成されていたら、与野党の票を削って躍進し、その性格を考えれば、自民党と連立を組むなどして、状況をリードしていた可能性がある。たちあがれ日本は、まさにそれを実現させることで、民主党政権の息の根を止めることを目指していたのだろう。少なくとも反民主党政権の姿勢は鮮明にしていた。

だが、遅かった。多くの政策を実現させたものの、多少の疑惑もあり、都知事も4期目に入り、高齢でもあったことから、石原に対する期待はしぼんでいた。しかも正式参加でもない。さらに、与謝野馨や園田博之は自民党が野党に転落してから離党したのであり、与党自民党を割って新党が誕生するほどの、インパクトはなかった。園田にいたっては2回目の離党であった(結局新党さきがけの時と同様、後に自民党に復党した。平沼と与謝野も復党した)。また矛盾もあった。郵政民営化に反対した平沼が中心であったが、他は自民党内でこれに賛成した議員達であったし、石原も賛成の立場であったのだ。

たちあがれ日本と同時期に結成された新党改革も、同様であった。同党は、改革派の舛添要一と、郵政民営化に反対した荒井広幸による新党であった。それも、自民党がかつて民主党を切り崩して結成させた、改革クラブに彼らが入り、その名称を変えることで、誕生した。政党助成金目的と言われても仕方がなかった。新党改革の議員数も、やはり5名程度であった。

唯一、自民党よりも保守らしい保守政党であることが、特に自民党の党首がハト派の谷垣であった状況下では、たちあがれ日本のアピールポイントであった。民主党政権に対する反発から、右傾化する有権者が一定程度いると考えられた。ただし、それには少し時期が早かったし、後には(次世代の党の時代も含む)、そのような有権者の期待は、安倍晋三を総裁とした自民党に集まった(そもそも、実際には絶対数が少なかったと見られている)。

たちあがれ日本はその後、日本維新の会に合流し、主に橋下人気によって多くの当選者を出しながら、それを、石原に対する有権者の支持によるものと勘違いしたのか、日本維新の会が進めた結いの党との合流に反対して同党を離れ、次世代の党を結成した(正確には分党の手続きが採られた)。

右寄りの議員もそれなりにいたのであろうが、自民党への接近に期待した議員もいたのだろう。次世代の党は衆議院19、参議院3と、以前のたちあがれ日本よりはかなり多くの議席を持っていたが、初めて迎えた総選挙で2議席という惨敗を喫した。風頼みでなくても当選できる議員、候補者は、たちあがれ日本の当時からのごく少数に限られていた(それは平沼と園田であり、かつて人気政治家であった石原は、引き続き比例単独での立候補であり、落選した)。

こうして見ると、経験豊富な議員達を中心に結成されていながら、登場のタイミングが悪く、他の議員達は、本来他の政党であった日本維新の会の人気で当選した、新人ばかりであったことが、たちあがれ日本系の敗因であったといえるだろう。また、結成メンバーが自民党内で主導権を握る事ができていなかったという、上で見た第3極の新党の問題点も、あてはまっている。また自民党内閣期ではなかったが、民主党政権(菅直人内閣)に、与謝野馨を切り崩されたことで、野党共闘(この場合は自民党との保守共闘)か、政権への接近(民主党への接近)かで分裂する、第3極の傾向をも、部分的に見せている。

みんなの党の失敗→

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