日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
頑固でなければできないが、その頑固さが命取り

頑固でなければできないが、その頑固さが命取り

みんなの党と日本維新の会のたどった道を見ると、創設者(みんなの渡辺と維新の橋下)の頑固さがあだとなっていることが分かる(今では、同じく、というよりも維新の本当の創設者であるとも言える松井一郎の頑固さも気になる)。両党は政策的に近いのに譲り合いができず、維新が2度もみんなの党の議員達を奪う結果となってしまった。どう考えても、最初から団結するべきであったし、できたはずだと思う。

その次の、再編の段階においては、党内の、創設者以外の実力者が民主党に大きく寄る中、全く妥協点を見出せない状況になった。創設者だけが頑固であったわけではない。しかし民主党への接近は、既存の権力である自民党に対抗しようとするものであると同時に、民主党が、選挙協力が可能な唯一の大政党であったからであろう(多くの選挙区で当選者を出していた自民党との選挙協力は難しかった)。民主党への接近が現実に対する妥協であったことは、現在の日本維新の会が、自民党(というよりも安倍内閣)に寄りながら、総選挙では自民党にたたきのめされていることを見れば、良く分かる。

小池新党については次に見るが、日本維新の会との関係については、ここで述べておこう。日本維新の会は、小池百合子に対して、都知事選の段階から批判的であった。現状を見れば分かる通り、この見方は正しかった。見抜いていたのか、それとも改革派として競合すると考えたのか、自民党に気を遣ったのか、おそらくそれらが合わさってのリアクションであったのだろう。

しかし党の戦略としては、人気のある小池とは協力するのが正解であったと思う。東京、大阪、そして名古屋の改革派が本当に協力していれば、かなりのインパクトがあった。小池側の問題に振り回されることもあったであろうが、日本維新の会の方が先に結成されていたし、改革派としてのイメージには、確固たるものがあった。小池個人、小池新党の人気が落ちる時には、同党が前面に出る形で事態を収拾することも、十分に可能であったと考えられる。

だが実際には、お互いの本拠地(大阪府と東京都)で候補を擁立しないという中途半端な、しかも身内を犠牲にする協力に終わった。このために、日本維新の会が小池新党に吹いた逆風を、全面協力していた場合ほどには受けずに済んだという見方もある。しかし有権者に迷いを見透かされてしまうことになったと、筆者は見ている。

なお、迷いと言えば、印象的なことがある。橋下徹は太陽の党と合流する際、太陽の党と合流する話が進んでいた減税日本との合流を、その減税第一の姿勢などを理由に拒んだ。すると、いとも簡単に、石原サイド(たちあがれ日本→太陽の党)は減税日本を捨てた(筆者には保守らしくないように思われたが、日本のためになるから良いということか)。ところが2016年、日本維新の会は、理念、政策が変わっていないはずの減税日本に合流を働きかけ、拒まれている。

維新の系譜は、政策を突きつけて協力者と非協力者を色分けしようとする、橋下が採ろうとしていたと思われる手法を、徹底的に貫くべきであったと思う。一気に政権を獲得できるという見込みがなかったのなら、特にそうだ。

渡辺喜美、橋下徹、特に後者の行動力は尊敬すべきものである。頑固だから失敗したという面もあるが、そのくらいでなければ、与党であった自民党を離れたり(渡辺)、自公両党の支持を棄てるリスクを負ったり(橋下)、できるわけがない。それだけに、そのような人物を、尊敬し尊重しつつ、もう少し器用な振る舞いへと誘導できる、柔軟性と力のある協力者がいたならばと、悔やまれるのである。

また、多少独裁的になるのは仕方がないとしても、意見交換だけは、国民に見えるような形で活発に行われること、指導者が変わったりしても、人気や質を維持できるということが、重要である。これまで全然出来ていなかったというわけではないが、特定の人物の人気を基盤とした政党の、課題である。

 

小池新党の失敗→

Translate »