日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
補足~政党~ 鹿児島政友会

補足~政党~ 鹿児島政友会

1897年6月、民党系と吏党系の垣根を越えて、鹿児島政友会が結成された。『鹿児島県政党史』は、日清戦争が県内の民党と吏党に合同の機運をもたらしたとしている。また、自らが遼東半島の割譲を要求することに反対し、結局は三国干渉のために還付することになったということに関する松方の演説が、合同を速めたという説があることを、合同と演説の直接的な関係性を否定しつつ、紹介している(253、260~263頁)。第4回総選挙後の鹿児島県内選出議員全7名の所属を確認する。民党寄りの立憲革新党4名のうち2名が進歩党、2名が議員倶楽部に参加し、後者の1名が議員辞職、進歩党の候補が補欠選挙を制した。吏党系の国民協会3名のうち、2名が議員倶楽部、1名が国民倶楽部に参加した。そして全7名のうち、進歩党所属の3名以外が公同会に集結した。進歩党の3名も倒閣に反対して離党し(註1)、公同会の4名と、衆議院においても行動を共にすることとなった。小正展也氏は、台湾領有が民党、吏党双方の合流を促進したことを指摘している(註2)。日清戦争下の挙国的風潮、松方の南進重視と、遼東半島の割譲を要求することへの反対、鹿児島県に比較的近い台湾の領有、薩摩閥主導の第2次松方内閣の成立と進歩党の与党化による、鹿児島県内の総与党化という様々な原因が合わさって、鹿児島政友会が、民党と吏党の垣根を超えて結成されたのだと考えられる。第3次伊藤内閣の成立後も、鹿児島政友会の衆議院議員達がまとまって動いたということも、同党が、薩摩閥のやや激しい浮沈と郷土意識(小正展也氏の指摘を踏まえれば、士族層の同族意識・郷土意識)とが結びついて結成されたものであることを物語っている。1897年12月30日付の東京朝日新聞は、松方と近い薩摩政治家が、松方が第3次伊藤内閣の大蔵大臣に就任することを危惧しており、そうなった場合には、松方を鹿児島県人より削籍しようという者があるとしている。「長谷場柏田諸氏の気焔」という記事のタイトルを見るに、民党出身の長谷場と吏党出身の柏田に、共にそのような考えがあったのであろう。政権の中心から転落した薩摩閥を支持していた、親薩摩閥の姿勢が窺われる記事である。

註1:『進歩党党報』第14号25~31頁。『伊藤博文関係文書』二371頁、1897年11月1日付の伊藤博文宛の伊東巳代治の書簡には次のようにある。長谷場以外の2名の鹿児島県内選出議員は、長谷場と同日に進歩党を離党したから、彼と同様の立場であったと考えるのが自然だ。

進歩党中長谷場純孝幷島田三郎等は頗る軟説を持し、犬養、尾崎等は隈伯之進退如何に拘らす断然提携を謝絶し不信任投票を為すへしとて大に論争し、其結果犬養之説は大多数にて進歩党本部之決議となるに至れり。

註2:小正展也氏は「鹿児島政友会の成立に関する一考察」において、鹿児島県に近い台湾の領有、戦後経営、加納久宜知事の志向、河島醇と鹿児島同志会の対立、第2回貴族院多額納税者議員選挙における、士族系の2派(鹿児島同志会-民党-と独立倶楽部-吏党-)の実業家層に対する敗北が、2派が接近し、鹿児島政友会が結成されたことの要因であったことを指摘している。河島醇が立憲革新党を離党し、議員倶楽部に参加したのも、戦後経営を重視したためであったと考えられる。実際に河島は薩長閥政府に引き抜かれ、勧業銀行の総裁となった。

 

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