日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
補足~離党者が続出した立憲政友会と、対外強硬派の動き~ 註

補足~離党者が続出した立憲政友会と、対外強硬派の動き~ 註

註1:例えば、1903年12月8日付の東京朝日新聞に、要求書を出した憲政本党の非提携派の議員の氏名が載せられているが、その36名は、同日の憲政本党84議席の42.9%である。その多くは、少なくとも当時は対外強硬派であった。

註2:川田瑞穂『片岡健吉先生伝』831~832頁。楠目が、林等の同意を得て名乗りを上げたとしている。1902年8月23日付の読売新聞は、田中、楠目が市部に対して反抗の態度をとったという理由で、高知県の支部が除名をし、立憲政友会本部に承認を求め、党籍が本部に直隷する田中については認められず、楠目についてのみ認めたことを報じている。なお、田中遜1902年9月17日に立憲政友会入りした。

註3:1903年1月11日付の東京朝日新聞が、第7回総選挙で大分県に回って失敗したため、第8回総選挙では坂本が、再び岡山県から立候補するということを報じている。1902年7月23日付の読売新聞は、大分県に回った坂本の弟、坂本義夫が岡山県で立候補するとしている。第7回総選挙でも、第8回総選挙でも、坂本金弥、坂本義男は当選していない。

註4:『立憲政友會史』第1巻第13章。280頁では、片岡が妥協に反対で、林は当初賛成しており、妥協に力を尽くしたとされている。これが本当であれば、片岡に限っては、小川らに近い面があったのかも知れない。公債に頼ることに反対していた尾崎は、譲歩しすぎであるとに、主に反発していたようだ(同269~271「尾崎氏の脱會理由」)。

註5:『立憲政友會史』第1巻269~271頁。尾崎の脱会理由については、1903年5月24日付の東京朝日新聞に掲載されたものが、引用されている。

註6:1905年3月22日付の読売新聞には、林が杉田定一(北陸信越系の中心人物)、松田正久(九州派の中心人物)も勧誘していた事、栗原亮一が立憲政友会を離党して別の勢力をつくろうとしていた事、栗原と改野耕三(ともに土佐出身)も離党を求められていらが、内部で動き、もっと大人数での離党を目指すと言って様子見をしていた事(実際に衛陶していない)、林が除名になった者を救うために少しでも大きな勢力を形成しようとしていたという事が記されている。記事は会派自由党に、反2大政党(政友会・反憲政本党)、反藩閥の2派があったとしている。

註7:1903年7月17日付東京朝日新聞。「ほとんど」としたのは、自由党に参加する10名の衆議院議員の他、立憲政友会に留まった井手毛三、根本正も参加していたからである。また大井憲太郎、石塚重平、石坂昌孝ら、元衆議院議員等の参加者もいた。

註8:川人貞史『日本の政党政治 1890-1937年』62頁。川人氏は次のように述べている。

一般に、一党で議長、副議長、全院委員長を独占しようとすることは、得策でないと考えられていたようである。そして、自由党や進歩党のような大政党は基本的に議長の獲得を目指し、議長を得ているときには、副議長や全院委員長を他党に譲って候補を立てない場合があった。

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