日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
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帝政期

1871年に成立したドイツ帝国は、宰相(以下首相とする)が皇帝に任命される、議院内閣制を採らない立憲君主制であり、各領邦の代表である上院と、男子普通選挙制の下院による二院制であった。皇帝はプロイセン国王との兼任であった。 …

実業派の動き・選挙制度の影響(①⑦)~市部もほぼ現状維持~

各政党、会派の議席数を総選挙前、総選挙の結果、第29回帝国議会開院当日の順に記し、()内には北海道3区を除く市部選挙区選出議員の数を記した。 立憲政友会: 206(26) → 205(33) → 212(34) 立憲国民 …

1党優位の傾向・(準)与党の不振(①⑦)~変わらない結果~

与党という有利な立場にあった立憲政友会は、選挙前の議席をほぼ維持した。1議席減らしはしたのだが、元が多かったし、それは前の第10回総選挙の後の、入党者によって増えたものであった。第10回と11回の総選挙の結果をと比べると …

第9章 ~1904年3月、第9回総選挙~

立憲政友会5増の128議席で3分の1強、憲政本党約10の91議席で4分の1弱、会派自由党23、帝国党17、無所属120、計379。 ※以下とりあえず本章に限り、立憲政友会の離党者達が結成した自由党を、以前の自由党と区別す …

第6章 ~1898年8月、第6回総選挙~

①選挙結果 憲政党263(→自由党系の憲政党112、改進党系の憲政本党138)、 国民協会20、無所属17(→同志倶楽部10)、計300 初めての政党内閣、それも圧倒的な1党優位の状況下での総選挙であった。優位政党である …

帝国議会開設当初の第3極

詳しくは、『キーワードで考える日本政党史』、『補論』で見るとして、戦前の「第3極」がどのようなものであったか、おおざっぱに整理する。 戦前の日本の2大政党は、板垣退助の自由党の系譜と、大隈重信の立憲改進党の系譜である。そ …

3-24. 2つの政界再編構想による中立壊滅、第3極縮小

実業家層には本来、その全てにとは言わないまでも、自らの利害を代表する政党が必要であった。当時議会制を採っていた他の国々を見れば、商工業を主な支持基盤とする政党と、農業を主な支持基盤とする政党が分立していた。ドイツ帝国のよ …

3-18. 薩長閥の不統一と吏党の分裂

薩長閥に重要視されなかったこと、薩長閥の不統一によって吏党の系譜は度々不振に陥り、また不振を脱することができなかった。吏党系の度重なる分裂を整理しつつ、議席数の変動という面から確認していきたい。 衆議院の政党、会派の力の …

3-17. 第3極の諸類型の誕生と4極構造の出現

4極構造はあったのか、あったとすれば、その起点はどこであったのだろうか。これまで見てきたことを踏まえて、第3極の諸類型の誕生を確認することで、答えを導き出したい。 薩長閥と民党の対立は、衆議院では吏党と民党の対立であった …

15. 改進党系の分裂

⑭自由党系の分裂で見た期間における改進党系についても見ておきたい。薩長閥への接近について、自由党系に遅れをとることが多かった改進党系には、当初、分裂はあまり見られなかった。進歩党の解散まで、衆議院議員の集団離党は、第2次 …

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