生まれるべくして生まれたはずの、立憲民主党の苦労
立憲民主党は結成当初、やたらと持ち上げられた。それには以下の通り、いくつか理由がある。 ・左派(リベラルとも呼ばれる―「なぜ、第2党コンクールを開催してでも、第2党を決めなければいけないのか」参照―)が弱り …
立憲民主党は結成当初、やたらと持ち上げられた。それには以下の通り、いくつか理由がある。 ・左派(リベラルとも呼ばれる―「なぜ、第2党コンクールを開催してでも、第2党を決めなければいけないのか」参照―)が弱り …
詳しくは、『キーワードで考える日本政党史』、『補論』で見るとして、戦前の「第3極」がどのようなものであったか、おおざっぱに整理する。 戦前の日本の2大政党は、板垣退助の自由党の系譜と、大隈重信の立憲改進党の系譜である。そ …
※『政党、会派の系譜』の「主要政党・派閥簡略系譜」のような、簡易的な政党の変遷を参照しながら読んで頂けると分かりやすくなると思う。 戦前の第2党を中心とした再編のポイントは、本来立憲改進党と同様に薩長閥と対 …
※『政党、会派の系譜』の「主要政党・派閥簡略系譜」のような、簡易的な政党の変遷を参照しながら読んで頂けると分かりやすくなると思う。 帝国議会開設当時の衆議院における第1、2党は、立憲自由党と立憲改進党であっ …
第3極が上下左右に引き裂かれる状況(図補-I参照)は、一度薩長閥と民党の対立が復活しただけで、すぐに変わるものではなかった。第3極は、右から国民協会、山下倶楽部、同志倶楽部と、3つに整理されたものの、薩長閥側、中立、民党 …
1890年代、薩長閥内において政権の中枢を担う勢力が交代する度に、あるいは交代する流れとなる度に、吏党の系譜は分裂を繰り返し、中立実業派は再編された。ただし第3次伊藤内閣成立後について見れば、国民協会の分裂はなかった。中 …