日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
1列の関係・2大民党制・第3極(⑧⑨)~1列の関係を崩し得るもの~

1列の関係・2大民党制・第3極(⑧⑨)~1列の関係を崩し得るもの~

憲政本党の議席数の少なさは、組織化の程度がとても低かった、第3会派以下の勢力を事実上吸収する再編によっても、たとえその全てを吸収することはできなくても、かなり改善される可能性があった(その後、総選挙でそれを維持するという課題はあったが、無所属で自力で当選する力を持っている議員などもいて、そこに第2党の力がうまく合わされば、期待はできた)。第2党の内部分化が進む状況下、第3会派以下、つまり最も右の極、最も左の極は、中央の左に位置する第2党に劣らず、再編による変化に大きな影響力を持ち得た。第2党が分裂状態にある現在(民主党→民進党系のことである)、そして異なる性格の野党(日本維新の会は厳密には準野党か、準与党とすらし得るが)が存在する現在の我々にとって、それらの動きをどう評価するとしても、大いに参考にし得る事象である。憲政本党が2つに割れた場合、立憲政友会に対抗し得る第2党をつくることがさらに困難となるものの、政党制を変化させるベクトルは、より強くなる。

改進党系、新民党はそもそも、立憲政友会中心の内閣が失敗した場合には、憲政本党が代わって政権(の中心)を担うべきだという考えであったと言えるが、結局そのような方向へ進まないまま、桂非政党内閣と西園寺政友会内閣が、交互に成立した桂園時代に、後から見れば入っていたということができる(山県系と自由党系-立憲政友会-が、交互に政権を担う時代に入っていた)。これは山県-桂系と立憲政友会の協力体制とまでは言えず、双方は自らが中心となる政権の維持のため、互いの力を必要としていたに過ぎなかった(西園寺内閣の、政友会内閣の色がより強くなるとしても、薩長閥の軍部大臣がいることで、単独内閣とはなり得なかった。これは戦前の日本において、特に軍部大臣が現役の軍人に限られていた時には、付いて回る問題であった)。本来は対立関係にあり、政権を担っていない方は、次の政権を狙っていた。ここに憲政本党が割って入る隙がなかったわけではないが、従来通り、同党の議席数の少なさなどがネックになっていた。その弱点を克服し得る機会が、しかし訪れた。郡制廃止法案を巡る、立憲政友会と山県-桂系の対立である。これは、首相の選定に大きな影響力を持つ、山県を戴く山県-桂系(大同倶楽部を含む)と、政界のキャスティングボートを握ってきた立憲政友会、その両者が、本質的には対立関係にあったことを示す出来事であった。郡は山県が設置したもので、結局無駄なものとなっていたが、知事が任命する郡長には山県系(寄り)の官吏(経験者)が就いており、山県系の地域への影響力を支えてもいた。だからそれを廃止しようとする動きには、立憲政友会が独自色をかなり強めた、影響力を強めようとしているという面もあった。山県-桂系と立憲政友会の対立関係が明確になれば、薩長閥と自由党系(立憲政友会)を2つの極とする再編が、起こりやすくなる。薩長閥と立憲政友会が協力している限り、それが圧倒的に強く、状況は変化しにくい。その協力関係が弱まった上に、新たな2極化の障害となり得る第2党の内部が分化し、憲政本党非改革派、憲政本党改革派、新民党(同志研究会系)、吏党系という、それぞれ一定規模の議席を持つ、4つの勢力が存在する状況になった。変化が起こる土台はできたわけだが、まずは薩長閥と自由党系が決裂するのかが、やはり問題であった。これは薩長閥と自由党系の、中心部同士の駆け引きで決まることであった。

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