第3極・連結器(⑫)~同志倶楽部の同盟倶楽部への接近~
同志倶楽部には地価修正に積極的な議員もいた自由党において、特殊な立場であった東北地方選出議員、立憲改進党を含めた民党の大合流を志向していた九州派の議員が多かった。後者はもちろん、前者も、自由党に比べ地価修正よりも地租軽減 …
同志倶楽部には地価修正に積極的な議員もいた自由党において、特殊な立場であった東北地方選出議員、立憲改進党を含めた民党の大合流を志向していた九州派の議員が多かった。後者はもちろん、前者も、自由党に比べ地価修正よりも地租軽減 …
自由党からの、同志倶楽部を結成する議員達の離党は、星の主導に対する反発、星の薩長閥政府への接近に対する反発、収賄の疑惑があった星を、自由党の執行部がかばったことへの反発が結びついて起こったのだといえる。中でも野党が与党化 …
立憲国民党からは、その結成後、1911年2月15日に田川大吉郎、3月8日に木下謙次郎、同18日に佐藤庫喜、7月10日に石郷岡文吉、市田兵七、竹内清明が離党した(田川のみ又新会出身、他は憲政本党出身)。7月の離党者は立憲政 …
第27回帝国議会期の各会派、無所属議員の立場を知る手掛かりとなる、記名投票の採決が2つある。1つは、立憲国民党の守屋此助の質問について、立憲政友会の長晴登が、質問主意書を提出しないで質問することが規則に背いているとして出 …
註1:政界全体が薩長閥と自由党系の連合体と、改進党系の2つに分かれた場合、改進党系の埋没は避けられる。山県-桂系と立憲政友会を、共に旧体制の主要な構成要素として同一視することで、存在感を示すことができるからだ。しかし埋没 …
又新会残留派の松本恒之助は、もともと、三重県郡部から出身地である高知県の郡部に選挙区を移した大石正巳から後継指名を受けて、第8回総選挙に立候補した。当時は第1次桂内閣期であり、松本は、立憲政友会の尾崎行雄と憲政本党の大石 …
原敬は1910年12月14日付の日記に下のように記している(『原敬日記』第4巻153頁)。この日の日記には、桂が条約改正後に辞職し、再び総理には就かない事、後継は立憲政友会に譲るという内容の話をしながら、後継を西園寺(立 …
工場法案とは、職工の最低年齢を15才とする事や、女性の深夜就業、危険・有害業務への就業の禁止を定めた、労働者・年少者を保護するためのものであった。しかし例外も認められた(勅令によって適用を除外できた)。法案は、常時10人 …
又新会(残部)の存続、再編、解散が問題になった時、存続に反対した花井は、次のようにも述べている(1910年12月21日付読売新聞)。 國民黨は政友會を罵り政友會は國民黨を罵り在野の政黨政府を向つて戦ひを挑むの氣力なく政府 …
貴族院の伯、子、男爵議員の互選は情意投合の後であった。山県-桂系は立憲政友会の協力に助けられたこともあってか、自らが政権の中心を担っている時期に、つまり有利な時期に、有爵議員の選挙を迎えることができた(立憲 …