第10回総選挙
大同倶楽部新議員 内野延 大同倶楽部→中央倶楽部 岡崎運兵衞 大成会→協同倶楽部→独立倶楽部(1)→独立倶楽部(2)→溜池倶楽部→芝集会所→政務調査所→帝国党→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会→憲政会 奥田 …
大同倶楽部新議員 内野延 大同倶楽部→中央倶楽部 岡崎運兵衞 大成会→協同倶楽部→独立倶楽部(1)→独立倶楽部(2)→溜池倶楽部→芝集会所→政務調査所→帝国党→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会→憲政会 奥田 …
1912年2月12日付の読売新聞は、5千万円の歳出削減を唱えていた中央倶楽部と、6千万円余りの歳出削減を唱えていた立憲国民党の、提携への動きが進む見通しである事、提携への動きが内閣交代(第2次西園寺政友会内閣成立)の時に …
衆議院への、各選挙区で1位となった候補しか当選しない小選挙区制の再導入は、当然ながら優位政党である立憲政友会に有利であった(法案には2人区もあったが、以前の小選挙区制と同様に連記制であった)。だから同党が、(同党以外も含 …
辛亥革命に関し第2次西園寺内閣は、清を(列強と共に)立憲君主制に着地させる事を試みたが、イギリスが状況を見て清朝の存続にこだわらない姿勢を採ったため、清が倒れる様子を見ていることしかできなくなった。この第2次西園寺内閣の …
1910年11月29日の原敬の日記によれば、中央新聞記者の辰巳豊吉が原に次の事を述べた(『原敬日記』第4巻125~126頁。中央新聞は大岡育三が経営していた国民協会の機関紙と言えるもので、大岡が立憲政友会入りした事で、同 …
立憲政友会が中央に位置するという構図は変化しつつあった(図⑩-A、第6章1列の関係(⑦⑧⑪⑫⑬)~繰り返される歴史~参照)。しかし政界全体が薩長閥の山県-桂系と、自由党系に2極化してきてはいても、改進党系がまだ残っており …
1910年12月1日付の原敬の日記(『原敬日記』第4巻127~129頁)を見ても分かるように、桂総理は今回(第27議会後だと思われる)限りで辞職する方針であったものの、西園寺が後継となる事は確実であったわけではなく、同じ …
同志倶楽部には地価修正に積極的な議員もいた自由党において、特殊な立場であった東北地方選出議員、立憲改進党を含めた民党の大合流を志向していた九州派の議員が多かった。後者はもちろん、前者も、自由党に比べ地価修正よりも地租軽減 …
自由党からの、同志倶楽部を結成する議員達の離党は、星の主導に対する反発、星の薩長閥政府への接近に対する反発、収賄の疑惑があった星を、自由党の執行部がかばったことへの反発が結びついて起こったのだといえる。中でも野党が与党化 …
立憲国民党からは、その結成後、1911年2月15日に田川大吉郎、3月8日に木下謙次郎、同18日に佐藤庫喜、7月10日に石郷岡文吉、市田兵七、竹内清明が離党した(田川のみ又新会出身、他は憲政本党出身)。木下と佐藤は大分県選 …