日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
1列の関係・1党優位の傾向・政界縦断(⑤)~桂の立場と備え~

1列の関係・1党優位の傾向・政界縦断(⑤)~桂の立場と備え~

桂太郎は西園寺総理の後継に、同じ山県-桂系の寺内正毅を推した。しかし山県は寺内を温存しようとした。そこには、明治維新以来の優位勢力(薩長閥のトップに位置した元老)の力で政友会内閣を倒したところで、衆議院(の優位政党立憲政友会)を抑えつける事まではできない、よって薩長閥の政権には、法案等を通せなくなる不安が付きまとうという事情もあった。誰かを推薦しても、その中に総理大臣になる、なれる人物がおらず、また自らも総理になろうとしない元老は、すでに桂・西園寺への世代交代が定着していたところ、さらに権威の失墜が加速する危機にあった。その要因は、より直接的に言えば、誰も立憲政友会を敵に回して総理をやりたくないという状況(立憲政友会が大きく分裂もせず、衆議員で拒否権を行使できる状況)が続いていた事にあった。立憲政友会と直接組めば話は変わるが、薩長閥(の中の派閥)も立憲政友会も、自派、自党の権力の維持、獲得を志向していた以上、それは非常に困難な事(長期的には不可能な事)であった。

薩長閥(の山県-桂系)の中でも桂は、自身も新たに元老の一人になっていたものの、元老で話し合っても総理が決まらず、自分が就くしかなくなったという経緯・結果によって利を得たと言える。山県世代から自分(達)への世代交代の印象の定着、自分自身の影響力の維持、強化には成功したと言えるからだ。ただしそれが立憲政友会の優位性を背景としており、桂自身は同党と交互に政権を担う、つまり同党と共に政権を担う存在ではない事に、限界があった(立憲政友会における原敬の影響力が低下していればなおさらである)。

第3次桂内閣では、外務大臣に、桂との関係が修復していた加藤高明が就いた。加藤は藩閥(山県-桂系)支配に批判的であったが、第1次西園寺政友会内閣において鉄道国有化に反対して外務大臣を辞して以来(第9章⑧参照)、立憲政友会と疎遠になっていた。1911年11月に小村寿太郎前外務大臣が死去していたため、桂には外務大臣を任せられる人物が必要であった。このため桂は加藤が帰国していた際に彼に会った。この際、政党の結成についても話していたようである(『加藤高明』上巻689頁)。加藤は改進党系を支援していた三菱の岩崎弥太郎の娘婿であったから、その約半数が参加する事になる桂新党の幹部としても、適任であった。

加藤の入閣は、桂に近い人物が多く入閣していた事と共に、上述のような状況にあった桂の次の一手を暗示している。それは加藤も含めた桂新党の結成であった。新党の結成に反対の閣僚がいては第3次桂内閣は不安定になる(桂が総理である事から直接党首には就かない場合、総理を辞して新党を結成する形を採らざるを得なくなる場合にも、安定的な移行が重要になる)。しかし逓信大臣に就いた後藤新平と加藤は、桂系の中心人物の地位を争うような関係になる(両者を抑える事、まとめる事ができたかも知れない桂の死去が影響するのだが)。加藤が親英派であり、外務省による外交一元化を目指していたのに対し、後藤が親独派であり、満州行政機関の統一を目指していた点でも、両者は対抗関係にあった。

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