1.政権交代論

1列の関係(⑦)~自由党系と組むしかない薩長閥、貴族院をなんとかしなければならない自由党系~

立憲政友会が中心の内閣ではあっても、第1次西園寺内閣は、政権を譲ってくれた山県-桂系、自由党と進歩党の合流に対抗する幸倶楽部の形成と、伊藤博文の自由党系との合流への不満によって、貴族院への影響力を持めていた(第6章補足~貴族院会派~参照)山県-桂系の意を汲まなければならなかった。しかし、憲政本党の主流派が基本的には反薩長閥であり、同党の議席数も少なかったから、薩長閥にとっても、組み得る相手は立憲政友会以外になかった(総選挙によって衆議院の勢力分野が大きく変われば別だが、それまで何度解散しても変わらなかったように、それは非常に起こりにくかった)。だから、山県-桂系が憲政本党の与党入りを歓迎しないという事実によって、立憲政友会(自由党系)は、3大勢力の中で最も有利な立場になりやすい、政界の中央に留まることができていたのである。確かに憲政本党が変化し、薩長閥も、立憲政友会を増長させないよう、憲政本党を連携相手にするという可能性は多少なりともあった(憲政本党と同志研究会系では議席占有率は30%台半ばしかなかったが、憲政本党と大同倶楽部が組めば、過半数まであと約15議席、そこに全無所属を加えれば、過半数を約10上回った)。それでも立憲政友会は、確かに政界のキャスティングボートを握っていた。しかし自らが政権を担うとなれば、貴族院どころか、衆議院ですら過半数に50議席近く足りない状況下(この数字は、会期中にも「40近く」となるが)、他の勢力の協力を求めなければならない、弱みのある存在とならざるを得なかった(これは当然のことではあるが、山県-桂系の拒否権は、有権者の意思を背景にしてはいなくても、直接的には立憲政友会のそれよりもずっと強かった)。衆議院では90議席程度の憲政本党か、80議席程度あった大同倶楽部の協力なしに、法案を通すことはできなかった。一時解散していた同志研究会の系譜だけでも、また、彼らを除く無所属議員全員の協力を得ても、過半数には届かない状況であった。立憲政友会と同志研究会系と他の無所属を合わせれば、過半数を10~15程度上回るものの、その全てが味方になるとは考えにくかった。そもそも、立憲政友会と同志研究会系とでは、山県-桂系に対する姿勢が異なっていたし(前者は利用しようとしていたが、後者は反発)、同志研究会系と、吏党系等の両方と、同時に協力関係を築くことにも無理があった。

貴族院について触れたが、政党中心の内閣にとって最も問題であったのは、同院だ。前の政友会内閣では、元老の伊藤博文が総理大臣兼総裁(党首)であり、天皇に詔勅を出させて、貴族院を抑え込んだ。そのようなことが、西園寺にうまくできるかと言えば、難しかった。だから結局立憲政友会と、山県-桂系に連なる大同倶楽部という組み合わせが安全であり、政友会内閣の成立に否定的であった山県を納得させるためには、政党内閣の色を薄める必要があった。この観点から、憲政本党を与党にして、2大政党の連立内閣という色を持たせることは、立憲政友会の志向がどうであれ、そもそもできなかったのである。総理大臣のポストを得るためだけではなく、その後の政権運営のためにも、多大な労力を要する力業でいく(2大政党等で合流して、薩長閥を倒そうとする)のでなければ、立憲政友会に複数の選択肢はなく、それが立場を弱くしていたのだと言える。唯一、民意を背景にしているというのが強みとなり得たが、そのためには総選挙を行い、衆議院に過半数の議席を得るくらいのことは必要であった。有権者の意思に基づく衆議院において圧倒的な議席を持つことで、政権を得ようとした、また実際に得たのがかつての2大民党であった(自由党と進歩党の2大民党等が合流した、憲政党を中心とする第1次大隈内閣)。その戦略が第1次桂内閣期、再び採られていたような状況であったわけだが、今度はそれに多少なりとも近い状況を、単独でつくる必要があった。だがやはり、衆議院の議席数を頼るだけでは、貴族院対策としては限界があった。貴族院を改革する権限は衆議院にはなく、政権を得たとしても、内閣の力だけで実現させることはできなかった。衆議院・内閣以外の、枢密院や軍部についても、薩長閥の協力が必要であった。さらには、薩長閥に従っていた官僚の操縦も、容易だとは言えなかった。政権を得たことで、このことについて山県-桂系に足元を見られる状況になれば、立憲政友会は政界のキャスティングボートを失う。そうなれば、山県-桂系の劣位のパートナーに、半ば固定されることになりかねない。だから、自らの政党内閣を目指す立憲政友会にとって、薩長閥が強い期間に足場を築くこと、特に予算や他の法案を否決できる貴族院に浸透することは、どうしても必要なことであった(貴族院の過半数を上回るのなら、衆議院でも過半数を上回る程度で良かったのだろうが、それは非常に難しかった)。なお、憲政本党と対立することは、勢力を大きく減らしていたとはいえ、憲政本党と近い勢力も、貴族院で敵に回すことを意味した。