1.政権交代論

1党優位の傾向(⑧⑩補論)~貴族院の政党化の兆しと優位政党の危機における強化~

衆議院を通過した郡制廃止法案ではあったが、貴族院では否決され、またもや成立しなかった。しかし多数派工作を一つの契機に、原が貴族院への影響力を強めたことは、確かであった。郡制廃止案に関して原は、山県系が運動したにもかかわらず、大差での否決とならなかったことから、その勢力も驚くほどのものではないとしている(1907年3月21日付―『原敬日記』第3巻40頁―)。立憲政友会が過半数を下回っていたこと、衆議院で非政友会連合が形成される兆しが見えたこと、その連合の中の吏党系の大同倶楽部が、なお60以上の議席を誇り、憲政本党の改革派も薩長閥接近を志向していたことから、衆議院は民党、貴族院は薩長閥という、立憲政友会の結成によっても結局変わらなかった住みわけが、変化を見せ始めたということが言える(立憲政友会は薩長閥の一部-伊藤系-と自由党系とが合流したものだが、薩長閥側の勢力にはならなかった)。貴衆両院とも、山県-桂系と立憲政友会が対峙する時代が訪れつつあったのだ。

予算案に関して第1次西園寺内閣は、総理を決める権力を事実上持っていた元老の支持を、失う危険に直面した。これは現在で言えば、有権者の信頼を失うのに近い面がある。しかし最悪の事態を回避することができた立憲政友会(原敬)は、内閣改造により、貴族院における、弱かった基盤を強めた。影響力における衆議員では他党を引き離し、政権の中心を担う強者となった立憲政友会は、貴族院の研究会と木曜会から閣僚を得たことで、研究会の一部と木曜会の支持を得られることになり、貴族院で弱いという、従来の政党の弱点の克服へと、前進した。貴族院は、独自色を発揮しようとすることはあっても、一部の例外を除いて、元老をトップとする薩長閥の側にあった。これは元老を含めた薩長閥と渡り合えるようになるための、重要な一段階であった。第2次大戦後の自由民主党は、国民の支持が弱くなるなどして議席を減らす場合、他の勢力を自らにひきつけ、以前の力を取り戻すか、むしろその力を増す傾向がある(自公連立が好例)。このことは、その際に閣僚等のポストが利用されることがある点も含めて、貴族院に影響力を拡大した立憲政友会の例と類似性がある。優位政党にはそのようなことが可能なのである。