日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
安倍内閣の失政と1党優位

安倍内閣の失政と1党優位

新型コロナ対策について、最初の間違いは、他国、特に中国からの入国を、早期に止めなかったことである。仮に実際に蔓延したのがヨーロッパから持ち込まれたものであったのだとしても、それは結果論であり、中国からの入国を止めなかったことが大きな間違いであったことに変わりはない。そしてその間違いの背景には、中国に気をつかったということが、当然考えられる。

独裁を敷いて人権を弾圧する中国共産党の、独裁者になったと言える習近平を、国賓として迎えようとしていたこと自体に、筆者は疑問を持っている。もちろん中国との関係は、良くも悪くも重要だ。しかし相手は話の通じる国ではない。日本経済にとって大きなプラスとなる国であっても、つないだ手をいつ放されるか、さらには放した手で殴られるか、分かったものではない。いやすでに、つないでいない方の手で、殴られている。

日本が正義で中国が悪だと言うつもりはない。それぞれの国に事情はあるし、簡単に善悪を決めるのは危険だ。しかしどう考えても、今、中国のしていることは肯定できないし、警戒する必要がある。だから今のところ日本にできることは、親しくなりすぎず、敵対し過ぎず、ギリギリを行くこと。その間に今後の戦略を練ること以外にない。戦略を練るというのは、様々な事態を想定して、動けるようにしておくということだが、動けるようにするには、それなりの準備が必要だ。その中にはもちろん、軍事も最重要のものとして含まれる(べきである)。

習近平国家主席を国賓として招くことは、たいして時間稼ぎにもならない上に、今、中国がしている人権弾圧、膨張戦略を、少なくとも否定しないという姿勢に見える(まさか、国賓として招いたうえで、追及するつもりであったわけでもあるまい)。これでは対中国包囲網をつくろうとしても、説得力に欠ける。

中国にしても他の国々にしても、原因が伝染病であっては、入国停止もやがては理解してもらえる。入国停止の判断が容易なものではないとしても、それが当然の措置となる状況がやって来ることを、安倍内閣は見通せなかった。これはやはり問題だ。筆者でさえ、「このまま入国を認めていて良いのか?」などと、やきもきした。緊急事態に国民をやきもきさせただけでも、民主党政権のことを笑えない(民主党系よりもはるかに、与党経験が豊富な自民党であるはずだ)。

左派野党も対応は遅かった。彼らが政権を担っていたとして、自民党以上に、中国に対して毅然とした態度を示せたかと言えば、かなり疑わしい。ただし、野党についてはまた改めて述べることとするが、その後の懸命な姿勢は評価したい。これは政権交代を望む筆者のひいきではない。野党が批判、追及するだけではなく、自分が政権を担っていたらどうするかと改めて考える、重要なプロセスにしっかり入っていると見るのだ。これを(不十分だと)批判ばかりするようであれば、その人も「日本の従来の万年野党」と変わらない。それでは野党が、「やはり提案型では注目されない」と、反対・追及路線を強めるだけだ。国会は国民の鏡である。日本人が選択肢を得るために、少しずつの変化であっても歓迎することが重要だ。民主党系の左傾化が問題にされることがあるが、左傾化自体は極端でなければ、そして国防をおろそかにするものでなければ(これこそ問題であるが、あきらめるべきではない)全く問題はなく、左傾化が建設的な提案を伴うものであれば、むしろ選択の幅を広げてくれる。これについても改めて述べる。

維新の会はコロナ騒動で株を上げた。しかし肝心の大阪は、外国人、外資を引き込むことによる劣勢挽回を策してきた戦略に、多少なりとも狂いが生じ、経済がダメージを受けることは避けられない(それだけ早く収束、さらには終息するかにもよるが)。

改革には負の面も当然あるのだが、この場合問題は、維新の会のやり方以外に、一極集中・中央集権の日本、「1強」が大好きな日本で、大阪を栄えさせる方法がなかったということである(自民党政権に頼み込んで、また、自民党内の力関係も時に利用して、首都機能の一部等を誘致するということも当然あり得るが)。

左派野党にはアメリカに懐疑的な傾向、あるいは反米の傾向があり、中国に対する評価は、保守政党よりも相対的に高いように見える(左派政党が中国を批判していても、また自民党にも親中派が、大物を含めて多くいるとしても)。しかしそれには特殊な事情がある。自民党(自民党結成前は自由党の系譜)のように現実的、機会主義的でない政党にとっては、あるいはそのような路線を先にやられてしまった政党にとっては、過去の戦争について反省し(→中国に対して友好的)、二度と戦争をしないという決意(→自衛隊、日米安保に懐疑的、否定的)が、国民に訴えるものとしても重要なのである。問題はその気持ちを捨てることではなく、今できることと、しなければならないことと、区別できるかどうかだ(中国の人権弾圧はあまりに深刻なものであるし、戦争をしないことと抑止力を持たないということは、必ずしもイコールではない)。今しなければならないことを重視すれば、矛盾を生じかねないし、自民党の多くと変わらないように見えてしまう。しかし、その矛盾に苦しむ姿こそ、政治に向き合う真摯な姿勢だと思うのである。

そういう筆者はこれまで、アメリカに反感を持つことも少なくなかった。しかし、現実は単純ではない。少なくとも、中国と比べればはるかにましだということは確信している。

もし、アメリカの従属国であってはいけないと言うのなら(これは本当は右のほうから聞こえてくるべき声だが)、かつての鳩山由紀夫内閣(民社国連立初期)の米中等距離よりもまず、軍事力を大幅に強化するのが先だ。そうでなければかつての左派政党の非武装中立と変わらず、それは中国のこわさをなめているとしか言えない(もちろんアメリカのこわさも)。

筆者は米中等距離にあこがれる。しかし、それはどちらにもこびず、批判もできるというのであればだ。「弱い国」のまま大国の間でバランスをとることがどれだけ難しく、神経をすり減らすことか、筆者は想像するだけで怖くなる。とても胸を張ってなどいられない。

今は与野党の対立よりも、新型コロナウイルスへの対応が最優先だと言われる。ウイルスによる直接の被害だけでなく、経済的なダメージへの対応も重要であることは、言うまでもない。しかしそうであるからこそ、1党優位が問題なのである。世襲議員が出世しやすい自民党の1党優位であっては、政治が私物化され、関係者優先の政治が続く。さらに今のような状況が長く続けば、国民は情報すらまともに得られなくなる。裕福に育った麻生副総理の発言(今に始まったことではないが、「みんな銀行にお金が余っている」など、とても国民全体のことを考えているとは思えない)、自民党の部会で案が出ていた「お肉券」、「お魚券」。そして、実際に予算に約1.7兆円分が盛り込まれた「Go Toキャンペーン」も、全否定すべきものではないが、自民党が国民全体ではなく、特定の利益団体の味方であることを示している。

なお、Go Toキャンペーンから東京を除外したことにより生じるキャンセル料は、国が負担するのが当然だ。予約した人は、補助が出る前提で予約をしたのだから、当然だ。これについて、当初しぶっていたことこそ信じられないのだが、「保証するからそれで良い」ということでも当然ない。これほどまでに、国民の税金がわかりやすく無駄にされたことがあっただろうか(たとえキャンセル料であっても、お金が回ることで助かるという人もいるかも知れないが)。人間、失敗はある。人間の集まりである政府も同じだ。しかし今回の「除外」が、制度的に想定されていなかったらしいことについては、驚くしかない。素人の筆者であっても、状況によっては急な撤回等もあり得ると見ていた。その時、予約した人はどうするのだろうかと、疑問に思ってもいた。筆者にでも分かるようなことだから、「それを考えないで予約した人が悪い。」「自己責任だ。それが新自由主義だ。」 とでも言うのだろうか。

繰り返すが、打撃を受けた業種を救済することは否定すべきことではない。問題は、それが公正に行われると、内閣を信用することができない点だ(これは、消費税を引き上げて社会保障の維持、充実に努めるとする政策が、内閣が信頼されない限りは、大きな反発を招くのと似ている)。

今述べた「自民党らしさ」の対極にあるのが、結局実現した、一律給付なのである(自民党も選挙を意識してこのような「バラマキ」をすることはあるが、今回は違う。リーマンショックとも違う。災害である。被害が大きなところには特別な配慮が必要であるが、皆が多少なりとも被害を受け、また団結を求められる状況、給付のスピードが重要な状況であったことからも、少なくとも第一弾としては、一律が良かった)。自民党が一律給付を渋ったこと、所得制限等をつけようとする傾向があるのは、財務省の「無駄な支出を避けたい」という考えと同じだろう。国の歳入をつまり、自分達のものと考えているのだ。そうでなければ、これまでの「無駄遣い」の説明はつかない。

民主政治において、国政に要望を「上げる」団体(経営者の団体、労働者の団体、職業ごとの団体、同じ考えを持つ人々の団体)が否定されるべきではない。だが日本の場合は、その団体の多くが優位政党、万年与党の自民党に、半永久的にぶら下がっている。もちろん例外はあるし、民主党政権が誕生した時には動揺もあった。その動揺こそが重要だと言えるのだが、気がついてみればあまり変わっていない(民主党政権の期間が短すぎた。民主党が万年与党となり、そこに利益団体が集まるというところまではいかない、あるいはさらに失敗が続いて、再起不能になるところまではいかない程度の、中~長期政権であれば良かった)。

さらに、国政政党でさえ、公明党は【創価学会】、日本維新の会は【大阪】というように、人数は非常に多いとはいえ、あまりに限られた、特定の利害を代表するものに近くなっている。不利な少数派の人々を代表する、政権獲得を狙わない政党ならそれもあり得るが、公明党や維新の会はそのような政党とも違う。しかも半永久的に自民党にぶら下がることになると、それ以外の国民の、選択権が損なわれる。そしてそのような状況が続けば、下手をすれば第2党である民主党系【労働組合】すら、その仲間入りをしかねない(追記:その後の国民民主党の分党を見ると、まずは連合の一部の、右寄りの組合を支持基盤とする国民民主党がそうなり、最後に立憲民主党が陥落、という可能性は高まっているように見える。表面上は連合が立憲民主党支持であっても、国民民主党も支援するようなことになったし、筆者は危機感を覚える)。

こんな先進国らしからぬ状況では、救われない国民が多くでてもおかしくない。あるいは多くの国民が、調整ばかりしているうちに遅れ、あいまいになる対応の、犠牲になりかねない(特に関心が強い問題で、かつ取り組みやすい問題以外は、自民党の政治は先送りの政治であった。例えば安倍総理は7年半以上も政権にあり、選挙で大勝を続けていたのに、改憲は全く進まなかった)。

民主党系が労働組合に依存していると言っても、それは被用者という、多くの国民を代表することであって、今のところは他の利益団体とは違う面がある(それが非正規雇用について十分機能していないのは大問題だが)。「今のところ」としたのは、今は連合に多くがまとまっている労働組合が、まとまって民主党系を支持するよりも、業種や雇われ方で割れて、個別に(直接的に、あるいは政党をつくって間接的に)自民党に要望を上げるというようになれば、話は変わるということである。それで実現することが増えるケースもあるだろうが、間もなく非合理的な1強の政治体制の、あまり顧みられないような一部品になってしまうだろう。

何より議会先進国の基本は、経営者側の保守政党と、被用者側の社民系の政党が並び立ち、交互に政権を担うことで、互いの欠点を補うものである。その機能が日本では完全に壊れている。欧米でも基本だけでは対応できない状況となっているが、基本をすっ飛ばして、民主主義がうまく根付いていない日本が対応できるものであろうか。ひずみがとてつもなく大きくなることを危惧する。

さて、新型コロナ対応が遅れた原因としては、東京オリンピックも大きいはずだ。これは関係者への配慮と共に、安倍が総理大臣の間に、小池が東京都知事の間に、なんとしても開きたいという考えから、新型コロナウイルスを軽視することになったのだと想像してしまう。延期、ましてや中止は非常に残念なことであるだけでなく、経済的な損失も大きいから(無観客でも損失は大きいであろうが)、開催できるなら当然すべきだ。しかし、政治を私物化する安倍総理と、希望の党騒動で、野心ばかりが目立った小池都知事では、国、国民のことよりも、自分のことを考えていると見られても、仕方あるまい。為政者に対するある程度の敬意も必要だとは思うが、そのためには、為政者の日々のふるまいも重要である。

彼らの日々のふるまいについて言えば、GoToキャンペーンの迷走がやはりひどい。無理ではないかという声を押し切って実施した割に、東京での感染者数の増加を見て、東京都を外した。その背景には、首相官邸と小池都知事の、責任のなすりつけ合いもあったようである。しかし大阪府だって感染者数は増えていて、人口と比べれば、東京だけが深刻だとは言えない。東京へ通勤する人が多く住んでいる、周辺の県を除外しないのも不自然であった。例えば東京都の最も西の方と、東京都の区部に隣接する神奈川県川崎市では、後者の方が感染のリスクが低いと言えるだろうか。線引きの難しさを分かってはいても、もう少し工夫できなかったのかと、首をかしげざるを得なかった。

それだけではなかった。高齢者、若者の団体など、突然除外例が色々と出てきた。どこかで区切ることは必要で、そこに全て明確な根拠を示すことは難しいとしても、一貫性がないように見えた。何より、高齢者や若者、東京都が問題なら、キャンペーンの対象外とするだけではなく、正式に自粛を求めるのが自然である。「自費で行くなら止められないけど・・・」ということであっても矛盾はするが、「自費で行くなら、むしろ各地でお金を落として経済を活性化させて欲しい」ということなのか、国の姿勢が伝わってこなかった。

繰り返すが、急遽対象外となった人々が旅行をキャンセルする場合のキャンセル料も、当初は国の負担にしないとしていた。これはもう詐欺である。助成されるからと高めの部屋を予約して、その助成がなくなれば、自費で無理をして予定通り行くか、キャンセルしてキャンセル料を払うかしかない。国を信じてお金を奪われるようなものだ。反発が強まらなければ、安倍内閣はキャンセル料を負担しないつもりであったのだろう。これは考えてみると、なかなか怖いことである。政権が国民の方を向いてくれていると、思えないからだ。こんなリスクがあれば、Go Toキャンペーンを利用するのをやめておこうと考える人が増えてもおかしくない。

このような安倍内閣の欠点は、2月末の臨時休校の要請にも表れていた。学校を休みにすることが必要であったとしても、それはあまりに行き当たりばったりであった。この措置自体について、コロナ対策の専門家会議への諮問はなかったという。政治的な決断が必要な時はある(しかし、もたもたしてはいられないとは言っても、ある程度相談した上で、政治的な決断をすることはできないのか、秘密裏にしたのなら、なぜそうする必要があったのか、疑問は残る)。問題は、それがあまりに安直になされたことだろう。共働きの家庭はどうなるのか、学童保育などに子供を預けるのは良いのか(児童のほぼ全てが登校する学校と比べると、感染が広がるリスクが低いというのは分かるが)。子供の学校は休みにするのに、大人の通勤はあって良いのか(休校措置の開始は、緊急事態宣言が出されるよりも1カ月以上前であった)。

大変な時、内閣が迷走してしまうことはあるだろう。ちょっとひどすぎるとは言っても、理解することも大切である。だがそれを言うのなら、いつになっても自分の言葉で国民に語っているようには見えなかった安倍総理は、あるいは口を開けば横柄さが出る安倍内閣は大問題である。そして、これは安倍内閣だけの問題ではないが、感染症の蔓延は、起こり得るものとして、もっと準備しておくべきだった(後から言うのは簡単であり、平時に予算を付けるのが難しいのだとしても、700名ほども国会議員がいて、誰かもう少しだけでもうまい提案はできなかったのだろうか。それとも内閣が聞き流したのか)。

あのような調子であったから、「高齢者が減れば社会保障の支出が減る」というのはさすがにないとしても、「時代の変化に取り残された企業、生産性が低い企業にはこの際つぶれてもらっても・・・」と少しも考えていないということはないのでは、と疑いたくなった。

そのような路線も選択肢としてはあり得る。とは言っても、前者はあまりにひどいから、高齢者偏重を改めるという主張であるべきだ。どうであれ、高齢者の中でも元気な人が多くなるように健康寿命を延ばし、そのような人々の力が、自由な中で活かされる社会を目指すしかないのではないか。もちろん、元気でない人々が批判的に見られることは、あってはならないと思う。

一方で後者は、全否定されるものではないだろう。しかしそうだとしても、選挙の段階で明言していなければいけない。そして影響を受ける人々を救済する策も必要であろう(経済的に救われればそれで済むということでもないが、せめてそれだけでも)。

筆者は、このような危機に見舞われればこそ、野党第1党を育てる必要があるという思いを、より強くした。たとえ一時的には自民党の方が頼りになっても・・・、と書こうとしたが、今はそうとすら言い難い状況なのだから、ますます、その思いは強くなるのである。

今の自民党には、東日本大震災の時の民主党政権を批判したり、民主党政権そのものを「悪夢」などと批判する資格はない。リーマンショックの1年後に初めて与党となり、東日本大震災、福島第一原発の事故を経験した民主党系を(与党経験のある議員はいたが)、与党経験の塊である自民党が、この体たらくで批判すれば、逆に反発を招くだけである。むしろ失敗の経験がある民主党系から、アドバイスをもらうべきかも知れない。

「書こうとした」ということでいえば、以下もそうである。「野党は本当に試されている。内閣が大胆な景気刺激策を実際に採れば、消費税ゼロを主張するれいわ新選組が唱える、消費税5%での野党共闘の主張すら、埋没しかねない」と書こうとしたのだが、自民党の補償は全く不十分であった。補償と景気刺激策は別物ではあるが、本来倒産しないような会社の倒産の回避、不安の払しょくは、景気と直結する。新型コロナの直接の脅威が去ったところで、例えば自分の、あるいは通っていた店がつぶれてしまったり、過大な負債を抱えてしまったり、というようなことがあちこちであれば、国民の気分は沈み、景気を上向かせる力が削がれることになる(それを機に変化するのだとしても、大ダメージではある)。

日本の政党システムは本当に不幸だと思う。万年与党の自民党は癒着。与党になるという希望を抱けなくなった社会党→民主党系は非現実的なまま、能力不足のまま。長く続くこの状況を前に、1回の失敗(2009年の政権交代)であきらめるような姿勢で、ヒーローだけを求めても真の前進はない。民主主義国としての足腰は強くならない。反発を受けても自民党は持ちこたえる。皆すぐに忘れるし(そうならないことを祈りながら、あえて言う)、選挙になれば野党同士が票を奪い合う(自民党を含めた主要政党が対等に近ければ、それでも良いのだが)。今まで通り、野党の議席数の変化はあっても、自民党と他党(あるいは自公両党とその他の党)の議席数の割合はほとんど変わらない。そうでなくなりそうになっても、自民党のトップを代えればリセット、ということになってしまう。

そしてもし、再び政権交代が起こっても、新与党にすぐに見切りをつけようとするのでは、また、前よりも自民党が強くなるということになりかねない(保守系、社民系が与党である期間が2:1くらいだというように、保守系が優位である国は少なくないが、政権交代がほとんどないのとは全く異なる)。

野党第1党を育てなければならない。そして再び政権を担うことがあるのなら(そうでなければいけないのだが)、民主党系は以前の失敗の経験も活かし、少なくとも「前よりはだいぶ良くなった」と、言われるようにしなければいけない。

今、こんな状況になっても、安倍内閣・自民党は、次の総選挙も自分達は負けないと見ているのではないだろうか。コロナ対策の問題で支持率が下がっても、吉村効果で維新の会の支持率が上がれば、小選挙区中心の選挙制度である限り、民主党系と維新の会が自民党内閣不信任、自民党反対の票を分け合い、少なくない選挙区で共倒れをし、自公合計の過半数割れくらいは、余裕で防げると考えているのではないだろうか。ここに維新の会の罪がある。

なお、維新の会が自民党から票を奪うという見方もある。そのような面は、わずかにはあるというのが筆者の見方だ。「わずかに」としたが、自民党が支持を大きく減らす時には、左派野党に票を入れたくない有権者が、一時的に維新の会に入れるということは起こり得る。しかしそれこそ、かつての新自由クラブのように、「本当の野党」に移るべき票を、自民党の「衛星政党」にとどめておき、ほとぼりが冷めた時に自民党に戻すという、変化、選択の阻止、自民党1党優位の温存を助けることになる。維新の会が明確に自民党と対立し続ける構図になれば別だが、現状はそうではない。そのような段階で、維新に入れる事は、後述する通り、自民党を助けることになる。新自由クラブは、今の維新よりも野党色が強かったとも言えるが、その路線に反対の議員が離党した。そして残留派も、やがて自民党に合流(復帰)した。

野党第1党が自民党ともっと互角に近ければ、内閣が今のようなひどい状態になることはなかったのではないだろうか(民主党政権だって、あんなひどい状態になることはなかったのではないだろうか)。野党第1党は国民にとって保険でもある。それをごくまれに取りかえることはあっても、腹を据えて育てなければ、日本国民は無保険状態のままだ。

国民にも覚悟が求められる。「新型コロナウイルスで間接的にも命が失われた。でも踏ん張った人も多くいた。さすがは日本。選挙では維新が躍進し、嬉しい。批判ばかりしているらしい左派野党は減少。これも嬉しい。え、第1党? それはまあ、やっぱり自民党で・・・。でも総裁が代わってもう安倍自民じゃないんだ。日本も変わったんだ!(それなりに・・・、日本なりに・・・)」。という未来は見たくない。政治にも競争が求められる。政治にはもっと競争が必要だ。

 

国難の時に気をつけなければいけないこと→

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