日本維新の会は新たな中道の政党

日本維新の会については、ずっと気になっている。保守政党に分類できるが、伝統よりも効率重視であること(内部に、そして橋下徹との間に違いがあるようにも見えるが)、競争重視でありながら、スタート地点での平等を軽視せず、教育無償化に熱心である点で、欧米の、右に寄った時の社民系の政党に近く、中道に位置しているとも考えられることが特徴的だ(教育無償化は全体的な教育水準を引き上げて、格差が拡大しやすい中で貧困層の増加を防ぐことで、将来の税収確保につなげる政策でもある)。

確かに低負担低福祉というのは右に見える。アメリカの共和党やイギリスの保守党が、基本的にはそうである(保守とは本来自助努力、伝統的な共同体の中での助け合いを志向する)。支配者にとってそれは好都合で、しかし税収が足りなくなった時などには、口を出すのだ。そう、保守派は口を出すのだ。これが本来の自由主義とは異なる点だ。この点で、新自由主義や、さらには政府自体必要ないとする考えもある、リバタリアニズムとは異なる(現実はそう単純ではないし、言葉の定義も難しくはある。新自由主義と言われるもの、見られるものが、実際には強者にばかり都合の良いルール変更がなされ、決して公正でないもの、強者の談合になるということもあり得る)。

だからかつてヨーロッパにおいて、【上から口を出し、増税などで財産権を脅かしてくる保守派】対、【ブルジョワ等の、自由を求める自由派】、さらに【その左の、労働者のための社民系】という構図があった。そのような時代、つまり保守対自由から、保守・自由対社民になる過程では、自由派の多くは中道であった。今、保守派と一定の距離をとりつつ生き残っているヨーロッパの自由派政党は、多くの場合中道に分類される。

なお、維新の会は給付付き税額控除を唱えているが、資産課税にも前向きなようだ。これは資産が寝かされずに利用され、経済の活性化につながると同時に、もちろん格差拡大を和らげる策でもある。筆者はこれを中道の一つの形だと捉えている。ただし、法人税、所得税引き上げの副作用である、企業、人材の意欲喪失、国外流出を解決する策だとは言えない。問題点やリスクはあるし、維新の会もこのことを意識しているようだ。

もう一つ。日本の保守派が、内外に「そんなに右じゃないよ」と言わなければならないのと同様、左派政党は、「そんなに左じゃないよ」と言わなければならない。極右、極左でなくてもだ。筆者は安易に「基準」を手放すべきではないという考えだが、左右の分類はもう古いという声が強くなっていることも、その背景にはある。左右のどちらかであるということになれば、極端ではなくても極端だと見られ、失う票が多くなったり、他国から厳しい目で見られたりするのだ(昔は社会主義的政権、大政党がアメリカに目を付けられたが、今は各国とも極右政党にピリピリしている)。

コロナに対応するための特措法の改正にも、それが表れていた。自民党は強制力を持ちたくてもそれを公言しずらく、民主党系の少なくとも一部、そして社民党は、政府が国民の自由を縛る法律には反対のはずが、反対しにくい。

そんな中、姿勢がはっきりしているのが、日本維新の会だ。「~じゃない」、「~しない」よりも「~だ」、「~する」が目立つ(追記:都構想の住民投票が、再度の、そしてまさかの否決に至った背景には、維新の会が、この維新らしい姿勢をとれなかったこともあるだろう)。これこそ、現状に不満を持つ国民に、好意的に受け止められる所以であると思う。もちろん大阪では様々なことを実行に移している。国政で維新の会にそれができるのかは分からないとしても、大阪で、既成政党にできなかったことをしたことは間違いないから、「国政でも既成政党よりはやってくれるのではないか」と、期待することができる。

このことについて、維新の会の負の面を強調する人がいる。聞いてみるとその通りだと思うことも少なくない。また急成長した維新の会では、問題のある議員が、躍進した後の自民党や民主党系のように、目立っている。個々の問題を見ると、あくまでも主観だが、両党よりも危なっかしいと思うことが多い。

橋下徹の志向を継いでいる限り、維新は合理性を最優先とする政党であるはずだ。橋下を継がない維新の会に価値はないと思うし、継いでいる限りは、合理性ばかり重視することの危険性を、認識すべきだ。

ただしその前提とすべきことがある。維新より前の大阪の政治が、不十分なものであったということだ。

大阪は確かに傾いていっていた。それは何より日本が一極集中型だからであり、それについては大阪に責任はない。

しかし橋下前までは、それに甘んじて、その中での配分について、癒着、利権の政治を、オール与党でしてきたのではなかったか。公務員についても、いたずらに敵視するのは問題だし、必ずしも大阪に限られた問題ではないが、その待遇は確かに良すぎた。それまでの、共産党以外がオール与党であるような体制下でも、改革は必要だとされ、進められても来た。しかし、当事者では限界があったのだと言わざるを得ない。ブログ:以下の矛盾

ただし大阪の状況を、イコール優位政党自民党だと言える、首相官邸にすり寄ることで改善させようとしてきた維新を、手放しで評価するのも危険だ。それに大阪維新の会は、大阪の自民党から生まれた。彼らは本当に1党優位の癒着構造を克服しているのだろうか。今はまだ変化の時代を抜けてはいないのだろうが、大阪では長く権力を握っているだけに、今後については注意深く見る必要があると思う(筆者は大阪の事情には詳しくないが、勉強しなければいけないと思う)。

地方分権を進めるとしても、1極集中、1党優位の日本の、そのような権力集中を改めなければ、本当の意味での変化はない。むしろ地方がさらに疲弊する危険もある。首長(都道府県知事や市町村長)が首相官邸に気に入られている自治体でなければ、改革を有利に進められないというのでは、改革、それによる発展も一時的なもので終わり、東京へのさらなる集中は止まらない。

まだまだ中央集権の日本においては、首長の政策の実現のためであっても、国の行政、立法の協力が必要なことが多い。東京以外の自治体は大体みな苦しいので、改革等の政策実現を後押しするような希望が必要だが、それにも国、つまり自民党の協力がいる(例えば、維新の場合はIR―カジノ―、大阪万博誘致への協力。さらには今後、国政の機能の一部、企業の一部を大阪に移すようなこともありそうだ。一極集中に否定的な筆者はこれに賛成だが、東京の1強、つまり優位政党の執行部・内閣の恣意的な「温情」であってはいけないと思う)。

維新の会が自民党にすり寄って来るのであれば、彼らの望む道州制を、自民党に実現させるくらいのことはべきだ。それはもちろん簡単ではない。地方分権を進めることで自民党が変化し、利益誘導中心の政党でなくなり、そのカラーも明確になることが多少なりとも期待できるのだとしても、その改革自体のために、自民党にすり寄り、自民党を守らなければいけないというのなら皮肉なことだ。だがすり寄り、守るだけではあまりにひどい。少なくとも特定の重要政策に関しては強硬的であるべきだ。自民党にすり寄ることで日本を変えようとするのなら、自民党にはしごを外される危険を覚悟して、維新はせめて1強を徹底的に利用すべきだ。それなくして、大阪都という名称を手に入れること(都構想が実現しても「大阪都」という名称になるわけではない)、副首都の地位を手に入れることを第一に考えるのなら、それがもし良いことであるとしても、国政政党としての資格はない。地方分権の政党でもない、ということになる(追記:吉村知事は再度の否決となった住民投票の前にも、都構想以上の抵抗が予想されるとして、道州制をあきらめるような発言をした)。

大阪市の解体(大阪都構想)も、当初維新が示していたような節約にはならず(これは維新も認めている)、必要でないという意見がある。だが改革を進め、大阪を発展させるのには有効であると思う(市の解体、その一部の府への吸収において、大きな混乱や憎悪が生じない限りは)。改革や大規模な事業について、大阪府知事と大阪市長が別の政党の支持を受けている場合など、どちらかが反対するということはあり得る(そのようなブレーキが利くことこそ民主主義だとも言えるのだが、ブレーキは議会であるべきだし、議会が偏らないような選挙制度にするなど、工夫はできる。その工夫をおこたることは問題だが、現状においてブレーキばかりを強調するのは生産的ではない。地方、特に大都市以外の地方議会が筆者にはあまりに保守的に見えるが、実際にそうであるなら、変化は必要だ)。

維新の路線がだめだと仮にしても、あるいは、ずっと新自由主義では困るということになっても、都構想の果実は活かせると思う。どうしても問題があれば、ある程度引き返すこと、例えば新たな特別区に、府の権限を委譲することも、難しいが、できないことではない(これは、東京都の特別区に関することと合わせて、現状では東京都議会でも大阪府議会でも多数派ではない左派政党が、国政の場で問題提起しても良い)。

筆者は地方自治、各地の政治について詳しくないが、有名人などが知事になると、問題を実感させられる。それは知事個人についてではない(当選したとたんに原発再稼働に転じた三反園鹿児島県知事のような例もあるが・・・)。そのような知事と、都道府県議会の距離に驚かされるという意味だ。知事が改革を唱えても、議会は抵抗勢力そのものであるということも多い。もちろん改革なら何で正しいということはないが、筆者の印象としては、地方議会はやはり保守的過ぎる。

そして「抵抗勢力」とはいっても、郵政民営化の時の抵抗勢力とは違う。郵政民営化問題は、自民党内の権力争いとも結びついていた。しかし地方における知事と議会の対立は、そのような政局ですらない。自民党の癒着・利益誘導政治の中の、古い調整型の議員達と、変化の時代の象徴である知事という、相容れないものを混ぜたことで、異臭が発生するといった感じだ。知事が正しいと見られがちだが、どちらかを正義とするのはもちろん危険だ。苦しい地方の政治を、改革派の首長がきれいごとでひっかき回したという言い分に、安易に耳をふさぐのも極端だ。「野党がだめだ」というのと同様、もし本当にそうであるのなら、なぜそうなったのかを考え、そこから改めていく方法を考えることが重要だ。

長野県ではかつて、田中康夫知事の脱ダム宣言が、議会との対立を深刻なものとした(もちろん、理由はそれだけではなかったが)。このダム建設の問題は、日本の政治の未熟さを象徴している。利益誘導の権化のような公共事業(しかし、より大きな利益を生む大規模なものほど大手ゼネコンが儲かる―大手ゼネコンの経営が楽だというわけではないが―)を改革派が止めようとする。しかし、建設中の需要の増加も含めて、建設による利益を重視し、親分である国政の意向に逆らうことを避けようとする地方議員等が、反発する(「やればやるほど住民のためになる公共事業」に、つけた予算を使い切らないことを問題視する議員も少なくないようだ)。その後、水害が発生し、ダムの有用性が示される。このような傾向がある。ダム以外の方法が全否定されたわけではないが、その是非を冷静に議論できる状況にはない。

こんなことになるのは、1党優位だからだ。自民党の政治には利益誘導の傾向が強くあり、その結果、無駄な公共事業が多々あった。予算を使い切るための事業もある。一方で、重要でありながら地味な、都市部のライフラインの再整備が遅れたまま、寿命を迎えようとしている。「地味」というのは、新しく建設するようには目立たず、都市部での公共事業は、たとえ必要なものであっても、農村部などのようには喜ばれにくい、ということだ。

コロナ対策で各県の知事らが話題になり、維新の会がもてはやされている今だからこそ、以上は考えたい事柄である。

ところで日本維新の会以外にも、姿勢がはっきりしている政党がある。それはれいわ新選組だ。彼らも民主党系と同様に、自分達を左派とは言いたがらない。しかしレッテル貼りを恐れる様子はない。社会党や共産党の流れを汲まず、従って理念、政策でもその呪縛から自由である。双方のように労働組合の支持を受けていないから、危険性、古さを取り除いた、共産党と見ることができる(共産党の危険性ももはや心配しなくて良いと、むしろ自民党の方を警戒する必要があると、筆者は思うが)。他の左派政党の失敗、その何が嫌われるかを見た上で動けるから、かなり良いところ取りである。左派ポピュリズム政党だと言うことはできるが、ヨーロッパのそれのように、反EUという具体的な「使命」を負っているわけではない。貧困解消という目標は定まっていても、手段は比較的自由に選択できる立場にある。

だから筆者は、性格は正反対だが、日本維新の会とれいわ新選組がこれから浮上すると見ていた。れいわ新選組は確かに今、埋没、支持低下の危機にあるが、再び注目されるはずである。同党については改めて述べることとする。

日本維新の会に戻ると、中道に位置するとしたが、それは戦後の、保守対革新、保守対左派に埋没した中道(民社、公明両党の中道路線や新自由クラブ)とは違う。ちょうど間に位置するとか、そういうことではない。「ちょうど間」というのは、希望の党も打ち出していたし、左右の声のうるささに辟易している人も多い中、無難なものだと見られやすい。しかし同時に埋没しやすいという欠点があるし、あって当然である。理念があって、気が付けばそれが保守と社民の間であったというのなら分かるが、最初から平均を目指すのでは話にならない。その点維新の会は、積極的に主張する中道だと言える。

例えば国防の問題。「強い日本がいい」というような幼稚な右でも、「軍隊などという言葉は聞きたくもない」というような、感情的、非現実的な左でもなく、費用対効果を冷静に見る政党で維新はあるはずだ。

 

(追記:イージスアショアの配備が中止となったように、国民の漠然とした不安、近隣住民の具体的な不安を取り除くために費用をかけるよりも、安倍前総理が辞任前に改めて話を持ち出した、敵基地攻撃能力を持った方が合理的だという判断を、維新の会がする可能性はあると思う。もちろんどちらか一方だけがあれば良いということではないだろう。それでもこの例を持ち出したのは、合理性、効率を重視することによって、かえって軍事力の強化につながるということも、特に日本のように特殊な国の場合は、あるということを確認しておきたかったからだ。良い悪いではなく、それは議論を巻き起こすし、左右がそれぞれの理念を大事にしつつ、現実も冷静に受け入れ、議論をすべきである。2大政党がそれを避けても避けなくても、維新の会の役割はある。)