註1:原敬が第1次護憲運動を利用してこれに党全体を事実上同調させたのは、桂総理が同党を切り崩そうとしていたためだと考えられる(原の立憲政友会内での力が低下し、それもあって桂との距離がやや遠くなった事、第1次護憲運動の盛り上がりが想像以上に大きかった事もあるが)。しかしそれでも、立憲政友会はそれを警戒するばかりで対抗できないような、弱い勢力ではなかった。衆議院で過半数を上回る同党が首を縦に振らなければ、予算案、法案が通らなかったためだ。それが近く崩れる可能性があろうと、本当に立憲政友会に取って代わる強力な政党ができるという確信がない限り、そうそう離党できるものではない。そもそも、桂側に切り崩されないように動く事にある程度希望を持てた事自体が、立憲政友会の強さを示していると言えよう。
註2:立憲政友会の力は貴族院に浸透していく過程にあったが、貴族院で政党を名乗って活動する事は非常に困難であった(衆議院でも政党としてではなく会派として各党の活動がなされていたが―それは現在も同様―、各党の会派は早期に政党と同じ名称となった。しかし貴族院で会派名に政党の名称を含める事は、同院の趣旨に明確に反するものであり、薩長閥どころか当時の政治体制全体に挑戦するような事であった)。
註3:これは第1次護憲運動に参加する非改革派にも言えた。立憲政友会と立憲国民党をまとめて憲政擁護派などと定義すれば、立憲国民党は経験的にも、またより強硬であったことからも、その中心部に位置していた。衆議院においては立憲政友会の劣位にあっても、非権力側である第2極の中心勢力と、見えないこともなかったのだ(本来は薩長閥が第1極。立憲政友会が政治全体ではまだ挑戦者、つまり第2極。同時に衆議院やその選挙では優位政党という第1極、他が第3極(改進党系は衆議院では第2極)という形。
註4:その当時の立憲政友会の2大派閥が総裁、主導権を巡って取り返しのつかない対決をする事態を避けるため、外様のベテランであった犬養を総裁にする事となった。
註5:立憲国民党が薩長閥山県系の桂に切り崩される。と言うより、立憲国民党の改革派を桂に持っていかれるというのが犬養の心配。もっともこの頃にはそれを覚悟し、それを前提に動いていたと思われるわけだが。
