立憲政友会の、第1次桂内閣期における憲政本党との野党連携路線は、野党的な立場となった立憲政友会の、地租増徴継続への躊躇と、内閣へ自らの影響力を誇示する意図が合わさったことで生まれた路線であった。だから地租増徴の継続が回避され、同党の存在感も示されると、そして、日露戦争で状況が大きく変わると、立憲政友会は薩長閥との接近によって政権を得る方向へと、舵を切ったのである。問題は、かつての自由党系より大きな存在となった立憲政友会に、政権の禅譲がなされるかということであった(それは自由党にかつてなされたような、閣僚ポストを1つ渡すというレベルをはるかに超える)。そして立憲政友会の切り崩しに失敗した桂には、それ以外に道がなくなったのである。
こうして政権を得た立憲政友会は、以後も、政権を2回失いながら、薩長閥に協力することでそれを取り戻した。一度目は山県-桂系への接近による第2次西園寺内閣の成立によって、二度目は第1次山本内閣との提携によってである。後者に際して立憲政友会は、第2次西園寺政友会内閣の後を襲った第3次桂内閣を、第1次護憲運動によって倒しておきながら、次の薩摩閥の山本権兵衛の内閣には、閣内に入ることや閣僚の入党を条件に協力した。それにより第1次山本内閣は、政友会内閣に近いものとなった。この時の立憲政友会の動きは、完全な非政党内閣の継続を回避したという面もあるとはいえ、政権獲得を最優先とする姿勢を、堂々と示すようなものであった。その後立憲政友会はついに、かつての第4次伊藤内閣、第1~3次西園寺内閣よりも政党内閣の色がより強い、原内閣を成立させるに至った。
一方、党内の対外硬派の反発を招いてまで進めた、立憲政友会との共闘路線が失敗に終わった憲政本党は、当然ながら動揺した。これを進めた犬養毅を中心とする、薩長閥に対抗し続けようとする非改革派と、山県-桂系との接近を模索する改革派への、分化が進んだのである。
1列の関係上に同様の展開が繰り返される中、その最後尾にあった改進党系は、先に述べた2つの選択肢のいずれを採るかを対立軸として、2派への分化の明確化と、その主導権の移転に伴う路線変更により迷走した。なお上でも触れた通り、改進党系には総選挙で議席を大きく増やす見込みがなかった。
しかし弱いとは言え第2党。他の党派との合流によって議席を増やす道が、まだ残されてはいた。しかしその、自由党系(立憲政友会)に対抗し得るような政党の結成(改進党系の拡大)という重要課題についても、非改革派と改革派は一致できなかった。非改革派が、薩長閥の影響下にあった党派を排除しようとしたのに対して、改革派がそれらを含む、大合同を志向していたからだ。非改革派が優位にある時、吏党系等、山県―桂系とそれに近い議員達は中央倶楽部を結成し、憲政本党等は立憲国民党を結成した。この結果に不満を抱いた改革派は、桂の新党構想に呼応して立憲国民党を離党した。
上述したように、1列の関係はその意味を失いつつあった。この改進党系の分化は、そんな状況下でのもがきだと言える。改進党系が非改革派と改革派に分裂するというのがどういう事かと言えば、それは本来は、党としての存在感など考えず「ひたすら薩長閥にすり寄る」勢力と、弱くても「反薩長閥を貫く」勢力に割れるという事であった。確かに改革派は、薩長閥にすり寄る事で、自由党系に対する劣位を脱しようとしていた。しかしそれは、少なくとも改進党系がまとまっていなければ成立しない。分裂する場合には、そんな力は無くなる。であれば衆議院では、逆に自由党系にも寄るしかなくなる(もちろん非改革派のように野党同士の連携を意図したものではなく、ともに薩長閥に寄る。場合によっては薩長閥に寄る自由党系に改進党系が。分裂した改進党系の一方なら、自由党系にも警戒されない)。つまり、薩長閥に近い自由党系と、規模が小さく、2つの道の選択について揺れない、明確な反薩長閥勢力による、1党制に近い2党制になる(図補-K参照。当時の状況については図⑩-A参照)。

しかし歴史はそうは動かなかった。それは薩長閥の中の実力者、桂太郎が政党の組織を決めたためだ。
桂新党には立憲国民党内の改革派等の他、中央倶楽部等が参加を決め、これが衆議院第2党となることは確実となった。だがそれでも、新党の議席は90程度に留まり、1913年12月に立憲同志会として正式に結成される前に桂が死去するという、厳しい状況に立たされた。立憲同志会は、第1次山本内閣の次の、第2次大隈内閣において与党となり(原内閣の2つ前の内閣である)、同内閣期の第12回総選挙で第1党の地位を得た。しかしそれ以外の内閣では、同党、そしてその後継といえる憲政会は、1924年6月の加藤高明内閣の成立まで、常に野党であった(図補ーL参照)。それは同党の加藤総裁が、立憲政友会の原総裁ほど、元老との信頼関係の構築を重視していなかったためだと言える(第2次大隈内閣の外務大臣として二十一箇条の要求を中華民国につきつけ、元老の信頼を失ったことも要因であるが、加藤は元老つまり薩長閥の要人に取り入って、信頼を回復しようとすることに、熱心ではなかった。そもそも、薩長閥中心の内閣、山県-桂系に反対の立場であり、元老としっかりとした信頼関係があったわけではなく、消去法によって政権を得た大隈の信頼があった事、桂亡き後の第2党で党首に就いていたことから、外務大臣のポストを得たのであった―その間に、山県と考えに違いがあり、世代交代を志向していた桂との関係が良くなっていた―)。

この立憲同志会の結成は、4極構造を終わらせた。吏党系が丸ごと参加したからである。立憲同志会が吏党系の性質を継いでいたら、大きくなった右の極、大きな中央右の極(立憲政友会)、小さくなった中央左の極、小さな左の極となり、4極構造自体は続いたかもしれない(あるいは中央左と左の極の多くが合流したかもしれないが)。しかし立憲同志会は改進党系(中央左の極)を継ぐような勢力となった。それにより衆議院は、中央右の極(立憲政友会)、中央左の極(立憲同志会とその後継政党)、左の極(立憲国民党残部と又新会の流れを汲む会派が存在し、これらはまとまっていたわけではないが、後者が中央左の極に吸収されるような形になる)の3極構造に近いものとなった。「近い」としたのは、立憲同志会結成後初の総選挙で、山県系に近い会派が改めて誕生したからだ(山県らの相変わらずの鼎立構想―吏党のような存在が、自由党系と改進党系の一方を強くし過ぎないように動く3極構造の構想―に基づく)。しかしこれは、かつての吏党系のように安定的に存続する事はなかった。
さて、桂が政党の結成を決意した事で、構造はどう変わったのだろうか。まず前提として、桂は本来、立憲政友会からも多くの議員を切崩し、1党制に近い状況をつくろうとしていた。それが実現すれば上述した1党制に近い2大政党よりは、やや1強の傾向が弱い政党システムとなる。立憲政友会の中の(残部か、離党者かは分からないが)、これに反発する議員等が反薩長閥の勢力と強く結びつくからだ。しかしその野党が政権を得る可能性は非常に低かったと言える。議席数を伸ばすことはあっても、優位政党に勝つのは、少なくとも10年、15年程度では難しかったのではないだろうか。
しかし私達が知る通り、実際には桂新党は第2党に留まったわけである。しかしこれもなかなか難しい状況で、山県が桂新党結成に反対であったとは言え、桂新党は薩長閥と最も近い政党になる。しかし議席数は立憲政友会の方が多い。この場合、立憲政友会は強硬姿勢を採って薩長閥を揺さぶり、あるいは薩長閥の不一致につけ込んで、状況を打開しようとしていただろう(図補-M参照)。

しかしこれも私達が知る通り、桂内閣は立憲政友会や立憲国民党の強硬姿勢・第1次護憲運動で総辞職に至り、しかも桂が死去した。これによってむしろ薩摩閥と結んで見せた(つまり薩長閥の不一致に乗じた)立憲政友会が与党となり、桂新党(立憲同志会)が野党となった。これによって日本の政党システムは大きく変わった。第1、2党が同じように薩長閥の一部と合流したにもかかわらず、置かれた状況の違いから、立憲政友会(自由党系)がどちらかといえば欧米で言う保守系、立憲同志会(桂亡き後の桂新党。改進党系の半分だが、改進党系の捉えられている)を自由党系とし得るような、政党システムになるのである(もちろん色々と差異はあるし、欧米の保守系、自由系も変化しているが)。
こうして日本の政党システムは、1党優位に代わる新たなものに整理されたと言える。1党優位の傾向はまだ少し残ったし、1党優位の傾向を完全に終わらせたのが立憲政友会の大分裂だとしても、その下地にはなった。
1列の関係も終わった。立憲同志会の誕生直後(1913年2月)に成立した第1次山本内閣から、立憲政友会が大分裂を起こした2024年1月までは、立憲同志会が政権の中心となった第2次大隈内閣期(1914年4月~1916年10月)と、その間に行われた第12回総選挙(1915年3月。次の総選挙は1917年4月)の一時期を除き、立憲政友会(自由党系)が立憲同志会とその後継の憲政会(共に改進党系とされる)より優位にあった。しかし立憲同志会と憲政会は無理に与党になろうとする事はなかった(前述の加藤高明総裁の性格によるところが大きい。党内に不満はあったが、それはどちらかといえば官僚出身者と議員出身者の対抗意識であり、分裂もあったものの、ごく小規模なものに留まった)。そして立憲政友会の優位性も、2024年1月の大分裂で終わるのである。
なお、この立憲政友会の大分裂により、2大政党+αの政党制が一時期、3大政党+αとなったが、これは再び2大政党+αに再編され、その再編後の2大政党も、上述の特徴を保持していた。「+α」の部分には、新民党的なものの終焉と社民、右翼の台頭という変化が見られるが、それについてはいずれ改めて考える事にする。
最後に補足として、立憲政友会の原敬が、薩長閥との距離が改進党系よりも大きくならない事を重視していた事を、彼の日記の記述で確認したい。まずは1904年12月9日の記述(『原敬日記』第2巻続篇208頁)だ。当時は第1次桂内閣期であり、立憲政友会は過半数を大きく下回っていた。なお、進歩党とは憲政本党のことである。
進歩黨の決議は増税案を刪減したる不足は公債に依るの原則を取りたるものなれば、政府案に對し距離遠く三千餘萬圓の缼額あり、政友會の決議は政府案に近く凡九百萬圓を減じたるのみなりしに因り進歩黨との相談は纏まらず、
その2日前、12月7日の原の日記(同204頁)には以下のような、上の記述を説明しているかのような記述がある。
夕に松田正久と政友會の前途に關して内議せり、桂より申越もあるに付此機會に於て政友會に對する政府の決心を確め置くこと必要なり、何となれば現内閣もし政友會に信賴し我黨の決議に從ふときは自然進歩黨と我黨と遠かるの結果を生ずべし、是れ我黨に取りて大切なる事柄なれば桂の意志を慥むること必要なりと考へ、松田も同意したれば兩人相携へて西園寺を訪問したり。
そして、12月6日付の日記には次のようにあり(同203~204頁)、当事者の原が書いたものであるとはいえ、第1次桂内閣が2大政党の中でも、明確に立憲政友会を重要視し、尊重していた事が分かる。
政務調査會の決議を議員總會に諮りたるに、明日政府と交渉確定し居たるに拘らず三票の多數を以て二日間延期することに決せり、鹽専賣、通行税等に關し例の腐敗議員の運動と總務委員に對する不信任と各種の原因集りて延期の決議をなしたるが如し。
右に付大岡育造をして總裁に報告し且つ進歩黨並に政府に延期を申込ましめたり。
桂首相本日午後より數回余と大岡に面會を求めたるに付電話にて其用件を尋ねたるに、桂自ら電話口に出て政友會の決議は政府の意見に近く、同意することを得れども、進歩黨の決議は政府の意見に甚だ遠し、交渉の際に如何すべきやとの相談に付後刻延期通知の爲め大岡参るべきに付篤と内談ありたしと返答したり。
夜に入り大岡來訪、西園寺の許諾を得て進歩黨に延期を申込み、又桂を訪問せしに交渉の件に付内談あり、政府は政友會を基礎として行動するの決心もあるに付進歩黨の決議と政友會の決議と合一せざるときは政友會の決議に從ふ積なれども、交渉の際政友會の意見のみを容ゝるも如何あらん、其邊に付相談したしと云へりと云ふに付、今日に至り進歩進歩黨と提携を絶つも甚だ妙ならず去ながら兩黨決議の距離甚だ遠き次第なれば何とか調和の道を講ぜざるべからず、幸に明日は参院するに付犬養又は大石と内々熟議を試むべしと告げ置きたり。
