日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
みんなの党の失敗

みんなの党の失敗

ここからが本題となる。一定の人気を得ていたみんなの党だ。同党は、自民党を離党した渡辺喜美、初当選以来無所属であった江田憲司、民主党を離党した浅尾慶一郎を中心に結成されたが、主導権は、党首(代表)となった渡辺が握っていた。

第1次安倍内閣、福田康夫内閣で規制改革や行政改の革担当大臣を務めた渡辺は、自民党の改革に対する熱意が薄れていた麻生内閣期、同党を1人で離党した。小泉時代の改革路線が後退した自民党を離れ、さらなる改革を模索するという姿勢は、注目を集めた。しかし、与党であり、かつ万年与党の風格も辛うじて残していたとはいえ、人気を落としていた自民党から、追従する議員が現れなかったことが、1人で離党した勇気は勇気として、渡辺の限界を物語っている(みんなの党の結成の時には、自民党の離党者が参加したが、それは次の当選が危ぶまれる、小泉チルドレンの2名だけであった)。

江田憲司は、橋本内閣の行政改革に、総理秘書官として携わった経験豊富な議員であったが、一匹狼的であった(落選した、2000年の初出馬のみ自民党公認で、以後、みんなの党を結成するまでは無所属であった)。浅尾慶一郎に至っては、参議院から衆議院に鞍替えしようとして、希望する選挙区からの立候補を許されなかったことで離党したのであった。当時左傾化していた民主党内で、浅尾は右派であったと言えるが、離党の時期を見れば、選挙区の問題が要因であったとしか考えられない。少なくとも渡辺と浅尾は、議員歴が短いわけではないにもかかわらず、自民党内、または民主党内で、何かを成すことができなかった議員達だと言うことができる(渡辺は1996年、浅尾は1998年初当選であるが、なお議員歴が不十分であったというのなら、党内でもう少し待つべきであったと言うこともできる)。

2009年の衆院解散後間もなく、前衆議院議員5名でスタートしたみんなの党は、自民党に対する批判票を民主党が集める中で、本来7議席を得る健闘を見せた。しかし比例の候補が足りず、2議席を他党に譲り、現状維持となった(重複立候補者は選挙区で供託金没収点(有効投票総数の10%)に達しない場合、比例区で当選できない)。急造の小所帯としての限界が見えた。結成直後に総選挙があり、準備期間が足りなかったわけだが、自ら、総選挙に合わせて結成したという面がある(衆議院の任期切れが近かったから、どのみち近く、総選挙は行われていた)。民主党ブームを避けて結成することが不可能であったのは不運だが、翌年(2010年)の参院選のころには、民主党の人気はしぼんできていた。その参院選でみんなの党は、公明党をわずかに上回る、10名の当選者を出すことができた。つまり民主、自民両党に次ぐ第3党になり得ることが示されたのである。しかし、過去の新党に比べれば大きな成果であったものの、次の参院選で同程度の勝利をしても、定数のおよそ12分の1の勢力に留まるレベルであったから、キャスティングボートを握らない限り、政治に変化を起こすことはできなかった。

しかも、それがピークであった。みんなの党も結局、優位政党に接近しようとする議員達と、野党第1党に接近しようとする議員達に割れたのだが、他の新党とは、少し異なる環境にあった。優位政党の自民党が3年3ヶ月だけ野党であった、その時期の直前にに誕生し、与党民主党が参院選に敗北したことで、誕生後わずか1年足らずの2010年の7月に、キャスティングボートを手にしたことである(民主、国民新の両与党、これと協力し得た社民党に、みんなの党を合わせれば過半数を上回る議席数であった。両与党+公明党でも過半数となったが、公明党はなお、民主党よりは自民党と近かった)。歴代の新党が遭遇していない大チャンスであった(1998年の参院選で与党が過半数を割ったが、その時の与党は自民党であった。協力者を得やすい優位政党の自民党が相手では、キャスティングボートを行使するのも難しく、すでに述べたように小沢一郎の自由党が結果を残したものの、早期に切り捨てられた)。

ところが、みんなの党は、この千載一遇のチャンスを生かすことに失敗した。民主党政権に協力しようとしなかったのである。そう言うと、落ち目で、政権担当能力も十分になかった民主党に協力してどうするのだという声が聞こえてきそうだが、そうとばかりは言えない。

参議院における過半数を、喉から手が出るほど欲していた民主党に、条件を突きつければ、同党がそれをのんでいたという可能性は、低くはない。それで部分的にでも成果が上がれば、少なくとも、注目されずに野党陣営で埋没するよりも、評価を得ることができたのではないだろうか(小沢の自由党は、約半数の議員が出て行っても一定の人気を維持し、2000年の総選挙で議席を増やした)。

なにしろ、みんなの党は、2009年の首相指名選挙で民主党の鳩山由紀夫に投じていた。民主党政権を自らが求めていた形にしようと試みても、変節とまでは言えなかった。当時のみんなの党の人気や、自ら選んだ民主党政権を見捨てることに、躊躇していた有権者が多かったであろうことを考えれば、民主党に条件を提示して手を差し伸べ、それが容れられなかった場合、実現されないと判断した場合に離れるというのは、民主党とみんなの党の将来、あるいは民主党に変わる「第2党」の誕生にとって非常に有効な選択肢であったと考えられる。しかしそれでも、みんなの党は、自民党や共産党と同じく、野党として民主党を責めたのである。

第3次安倍内閣期の、民進、共産、生活、社民の左派連合には、一定の魅力があった。共通点があり、政権と差異があったからだ。しかし、菅直人内閣期の野党はそうではなかった。共に民主党を追及しても、自民、共産、みんなの3党を見ると、相乗効果は期待できない。自民党とみんなの党を見ても、みんなの党が結成された経緯、みんなの党の人気の理由、両党(と公明党)が組んでもすぐに与党にはなり得ず、みんなの党の政策を実現させることもできなかったことを考えれば、当時、連携するのは不自然であった。

自民党が政権に戻ると、みんなの党は2度も、自民接近派と野党共闘派に分裂した。1度目は、第2次安倍内閣の特定秘密保護法が直接の原因であった。内閣に寄ろうとする渡辺邊代表らと、監視機能が不十分だとする(十分なものとするだけの修正に自民党が応じない限り賛成すべきでないと考える)江田憲司らの相違が浮き彫りになり、江田らが離党して、結いの党を結成した。2013年11月から12月にかけての出来事である。江田は日本維新の会、民主党の細野豪志らと接近して、野党再編を実現させようとし、その独自の動きを警戒する渡辺に、党の幹事長を降ろされていた。また、安全保障政策等に関して右寄りの渡辺らと、左寄りの江田らの差異が浮き彫りになった上での分裂でもあった。

2度目は、渡辺から党首を継いだ浅尾慶一郎らが、民主党への合流も視野に入れる、野党共闘路を採り、自民党に寄ろうとしていた渡辺らが反対したものである。この対立によって、みんなの党は解党するに至った。

なお、結いの党は日本維新の会と合流したが、日本維新の会の党首(分裂前は石原慎太郎と共に共同代表、分裂後は単独で代表)であった橋下徹らは集団的自衛権の行使容認に肯定的であった。結いの党は否定的であったから、やはり行政改革を共通項とし、安全保障政策に関する一致を見ないままでの合流であった。

経済政策の左右と、他の政策の左右が一致しなかったのは、全て右の自民党と、全て左の民主党(双方とも、実際にはそうではなかったり、そうでない議員が多くいたりと、複雑だが)が第1、2党であり、他の小党もいずれかに近づく中、少なくとも残りを結集しなければならない第3極の、限界を示す事象であった。

興味深いのは、民主党と組もうとした浅尾が自民党入りし、自民党と組もうとしていた渡辺が、自民党の陣営に加わらなかったことである(2014年総選挙で落選した渡辺は、2016年の参院選に日本維新の会から立候補したが、小池都知事に寄ったことで離党するに至り、にもかかわらず希望の党入りを拒まれ、現在は無所属である)。みんなの党の分化が、理念や政策ではなく、第3極にとってどの路線が有利かという、選択を巡るものであったことを示す事象である。

無能な若手が多くなるというリスクはどうであったかというと、大政党にならなかったから目立たないが、そのような傾向が垣間見える事件があった。それは2010年にみんなの党から出馬して当選したばかりの3人の参議院議員が、2012年に日本維新の会に参加したことである。当時、みんなの党に特に大きな問題がなかったにもかかわらず、より人気が高くなりそうな日本維新の会に、全参議院議員11名の、4分の1以上にあたる3人が移ったのである。しかも、非拘束名簿式ではあっても、比例選出の議員達であった。みんなの党への支持で当選していたのは、間違いないと言える。彼らは結局、2012年の総選挙に出馬したために参議院議員を辞職し、みんなの党は3名の繰り上げ当選者を得て議席を11に戻すことができた。また確かに、みんなの党は渡辺代表の独裁に近い状態であった。しかし、だから比例選出の新人議員が離党して良いということにはならない。

 

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