日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
オーストリア

オーストリア

オーストリア帝国はハンガリーとの同君連合となったが、オーストリアも多民族であり、他国と同様に、保守系、自由系、社民系の勢力、政党こそ誕生したが、オーストリアやチェコに、それぞれ同様の政党が存在、誕生し、政党の数が非常に多かった。自治を求める勢力もあったが、異なる民族が混在していおり、複雑であった。

やがて保守系はキリスト教社会党を、社民系は社会民主労働党を結成、自由系からはドイツ民族主義的(親プロイセン、プロテスタント)な勢力が誕生した(この時代の自由系には、国民国家を成立させるという課題もあった)。キリスト教社会党は、親ハプスブルク・親カトリックで、資本主義を警戒する温情的な路線を採った。

第1次世界大戦で敗北すると、帝国は解体され、オーストリアの領域はほぼ現在のものとなり、議院内閣制に移行した。このため政党の数は大きく減り(終戦後にもさらに減り)、2大政党+小党という政党制になった。2大政党は保守系と社民系であり、この2党は現在まで優劣が固定化していない。だから第2次大戦後は政権交代が定着したのだが、今に至るまで、どちらか一方だけでは過半数に届かない場合が多い。第3勢力として、議席はあまり多くなかったが、ドイツ民族主義的な政党があり、これも現在まで存在している(篠原一『ヨーロッパの政治』321頁によれば、ナショナリストは都市中間層、特に官吏を主体とする大ドイツ人民党、富裕な反カトリック農民からなる農民同盟。キリスト教社会党とナショナリストは反自由主義・反資本主義・反教権、反階級対立観、反ユダヤ系で共通する面があった。同時にキリスト教社会党は、ナショナリストと社会民主労働党の反教権とは一致し得ず、ナショナリストはキリスト教社会党と社会民主労働党の寛容な言語政策とは一致し得なかった)。

第1次大戦後は、民党が首相を出す挙国一致的な内閣で始まったが、総選挙でキリスト教社会党の勝利が続き、よって同党の政権が続いた。当初はドイツ民族主義の大ドイツ人民党との連立であったが、さらに農村同盟を加えた3党連立から、農村同盟のみとの連立か単独政権の時代となった。政権は、国土が大幅な縮小し、工業地帯も失う中で広く求められていた、ドイツとの合併(親ハプスブルクには旧帝国領との一体化を志向する傾向も)を、戦勝国に対して否定して見せねばならず、これが大ドイツ人民党との間の火種となった。社民党は国政では野党であったが、長く、分権が進んだオーストリアにおいて、州と同格の首都ウイーンにおいて自治を担った。同党は国政においては、1930年に第1党の地位を取り戻したが(1927年にはキリスト教社会党は大ドイツ人民党と選挙連合を形成して勝利した)、政権は取れなかった。

もともと、キリスト教社会党寄りの右翼的な武装組織(護国団。1930年に議会進出)と、それに対抗するための、社民党系の武装組織ができていた上に、世界恐慌もあり、オーストリアは不安定さを増した。ついにはキリスト教社会党政権(農村同盟、護国団との連立)が議会を停止するに至った。キリスト教社会党政権は穏健な社会主義者を含む連合政権を作ろうとした事もあったが、ついには同党の政権(農村同盟、護国団との連立)が議会を停止するに至った。キリスト教社会党は農村同盟、権威主義的な色を強めていた護国団と合流し、祖国戦線を形成した。左派政党、ナチスは禁止された。しかしやがてオーストリアは、ナチスドイツに併合された。

第2次大戦後にオーストリアが独立を回復すると、キリスト教社会党系は国民党、社民党系は社会党を結成した。大ドイツ人民党、農村同盟、護国団系の、親ナチスになっていた者が多かったドイツ民族主義系の政党の結成は、戦勝国が許し難いものであった。許される範囲の政党として、再編を経て、1956年に自由党が結成された(国民党が社会党と連立を組む事に否定的な保守派の支持、第1、2党の協力体制を問題視する人々の支持も得た)。

戦後はまずは、社会党が首相を出す、国民党、共産党との挙国一致的な内閣ができたが、1945年中に国民党と社会党の大連立となり、その後は1966年に国民党単独、1970年に社会党単独の政権ができたが、1983年より社会党と自由党(この時期は穏健化していた)の連立、1990年から社会党と国民党の大連立(自由党の右傾化を受けて。この時代の右派ポピュリズムはフランスもそうであったように、新自由主義的でもあった)、1999年から国民党と自由党の第2、3党の連立となった。自由党は2005年に分裂し、ほとんどの議員(閣僚は全員)が未来同盟を結成した(自由党を右傾化させたハイダーが党首であったが2008年に事故死、党は後に中道に寄った)。政権は国民党と未来同盟の連立として続いた。2006年からは社会民主党(社会党が1991年に改称)と国民党の大連立、2017年からは国民党と自由党の連立、自由党党首のスキャンダル、連立崩壊を受けた短期の非政党内閣を経て、2019年からは国民党の単独政権、2020年からは国民党と緑の党の連立となっている。国民党は野党である期間が非常に短いが、これは国民党の方が社民党より、第3党である事が多い自由党と、組みやすいためだと言える。共産党は1950年代に議席を失った。

1970年以降の選挙結果は次の通りで(それ以前もほぼ同様だが、国民党が社会党を上回っていた)、90年代半ばからは、3大政党制と言っても良いような状態になっている(緑の党も主要政党の仲間入りをしていると言える。2016年の大統領選はむしろ、緑の党と自由党の戦いとなり、緑の党が制した。大統領は選挙で選ばれるものの、その権力は事実上強くない)。緑の党は1993年に緑のオルタナティブが改称。リベラルフォーラムは自由党の右傾化に反発した離党者(議員5名)が結成。

1970国民党78 社会党81 自由党 6 計165

1971国民党80 社会党93 自由党10 合計が183に(以下同)

1975国民党80 社会党93 自由党10

1979国民党77 社会党95 自由党11

1983国民党81 社会党90 自由党12

1986国民党77 社会党80 自由党18 緑のオルタナティブ8

1990国民党60 社会党80 自由党33 緑のオルタナティブ10

1994国民党52 社会民主党65 自由党42 緑の党13 リベラルフォーラム11

1995国民党52 社会民主党71 自由党41 リベラルフォーラム10 緑の党9

1999国民党52 社会民主党65 自由党52(国民党の得票を上回った) 緑の党14

2002国民党79 社会民主党69 自由党18 緑の党17

2006国民党66 社会民主党68 自由党21 緑の党21(自由党の得票を上回った)、未来同盟7

2008国民党51 社会民主党57 自由党34 未来同盟21、緑の党20

2013国民党47 社会民主党52 自由党40 緑の党24 チームStronach(未来同盟の議員も参加した右派ポピュリズム政党。国民党等に移る議員も出て、次の総選挙には参加せずに解散)11、NEOS-新オーストリア(オーストリアの腐敗と停滞を問題視して結成された中道政党、議席はリベラルフォーラムとの選挙連合として獲得)9、未来同盟は0に

2017国民党62 社会民主党52 自由党51 NEOS-新オーストリアとリベラルフォーラム(2013年に合流)10、Peter Pilzリスト(緑の党の分派)8

2019国民党71 社会民主党40 自由党31 緑の26、NEOS-新オーストリアとリベラルフォーラム15、(Peter Pilzリストは「今」と改称したが0)

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