日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
五十五年体制の第3極

五十五年体制の第3極

多くの政党の離合集散を経て、衆議院はほとんど自由民主党と日本社会党だけになった(共産党は1議席)。したがって五十五年体制には当初、第3極がなかったといえる。しかし1960年に社会党の右派の一部が民主社会党を、1964年に日蓮宗の信徒団体として出発した創価学会が公明党を結成した。さらに1976年、汚職事件(ロッキード事件)に揺れる自民党を離党した議員達による新自由クラブが、1977年、党改革を唱えて強い反発を受けた江田三郎が、社会党を離党して社会市民連合を結成した。社会市民連合は1978年、社会民主連合となった。

これら自社両党の間に位置する政党、そして最も左の日本共産党が、特に市部で一定の支持を得て、多党化(1党優位の多党制)が進んだ。中道に寄っていた自民党の右側に、国会で議席を得られるような政党が表れることは、戦争の記憶がより鮮明であった時代には、ありえなかった。

多党化としたが、新自由クラブが末期に自民党と連立を組んだ以外は、皆野党であったから、これは野党の多党化であった。実際の政策面でも、新自由倶楽部以外の政党は、社会党が取りこぼした利害を反映させる、同党の補完勢力であったといえる。

自民党は優位政党であり、それを離党することには野党に転落するリスクがあり、野党と組むと言っても、社会党(の左派)とは差異が大きすぎた。このこと、元々国家の経済への介入にある程度積極的な勢力(民主党、国民協同党出身者)が入っていたことから、保守から中道の左側あたりまで、自民党は分裂することなく、ウイングを広げることができた。一方で左派主導の社会党は、社会主義、平和主義(中立)にこだわる、幅の狭い政党となった。

社会党の幅が狭かった分、現実的な社会民主主義政党であった民社党、労働組合員以外の、弱い立場の人々の利害を代弁した共産党と公明党が、本来社会党が得るはずの票を得た。

五十五年体制の第3党以下は、第1、2党がすくいきれない民意を代表するという点では第3極であったといえる。しかし五十五年体制以前よりもさらに、中道の展望は閉ざされていたといえる。かつての中道も取り込んだ自民党の規模が大きすぎて、中道の政党が集まったところで、これと対抗する勢力とはなり得ず、もっぱら社共両党と、非自民票を奪い合うことしかできなかったからだ。そうでない新自由クラブは、自民党の分派らしく、影響力が低下すると自民党に復党した。

中道に限界があったことの1つの原因に、それら(与党入りした後の新自由クラブは含めない)が合流しても社会党の議席を上回ることができなかったことがある。そんなことは本来どうでも良いことのはずなのだが、1党優位の日本では特に、反自民を最優先に投票する有権者が多く、その票は、小選挙区中心の選挙制度を採る現在ほどではなくても、第2党に流れるのである。これがすでにみた選挙制度の問題と共に、1党優位の多党制を固定化してしまったのだといえる。

なお、クリーンな保守を売りにした新自由クラブは、保守で行くのか中道で行くのか、路線闘争に揺れたのだが、その前に、都市部以外ではあまり需要がなかったといえる。都市部以外は特に保守的であり、そもそも自民党以外に対する需要が小さかった。

このような壁にぶつかるのも、日本の第2極、第3極に共通する特徴である。2つの道(戦後の第2極は現実的になるか徹底抗戦か、第3極はさらに、優位政党に寄るか野党第1党と組むか)のどちらに進むのかという難しい選択、都市部以外に支持を広げることの難しさ、この2つの困難に同じようにぶつかるのが、1党優位制下の、優位政党以外の勢力なのである。

五十五年体制下も現在も、野党第1党(社会党~民進党)が低迷する中、時折、自民党に対する反発が高まる時だけ、同党に対する批判票を広く吸収して、野党第1党が議席を増やし、野党第2党以下の多くが落胆するということが繰り返されてきた。優位政党対野党の対立だけでなく、第2極と第3極の、多少選挙協力をしたとしても解消されない競合があり、死票の増加、野党間の協力の難航を解決することが出来ていない。

そもそも中道の陣営は、非自民・非共産の協力体制を目指したのに対して、社会党では右派がこれに近かったものの、左派が共産党を含めた協力体制を志向していた。社会党の右派が決断すれば、非自民・非共産各党の協力体制、またはそこから社会党の左派を切り離した協力体制(社会党が分裂すれば、これらの政党が合流することも比較的容易になっていた)が実現したであろうが、決断はなされなかった。選挙制度が違うし、共産党の姿勢も異なるものの、民主党→民進党内が、共産党と選挙協力をするかどうかについて、内部対立を抱え、小池新党を選ぶか共産党を選ぶか、という選択でも揺れた今と似ている。そして、五十五年体制下には、社会党右派・公明・民社対、社会党左派・共産という分化は起こらなかったが、2013~2017年には、ついに、民主党右派→民進党右派・維新・希望―2017年―対、民主党左派→民進党左派・生活→自由・社民・共産への分化が起こった。民進党右派(希望の党を経た議員達を含めて国民民主党を結成)、希望の党(小池派ともいえる議員達が新たに結成)、日本維新の会がばらばらになったのに対して、民進党左派(立憲民主党を結成)、共産党、自由党、社民党は連携を維持している。立憲民主党の支持率は高いし(まだ足りないが)、左派が勝利したと言って良い状況だ(民進党は左派と右派にきれいに割れたわけではないが、そのことは、立憲民主党に新たに入党する議員を増やす働きをするだろう)。

この左派の勝利というのも、過去の繰り返しであるから、過去の勝利とは違う、意義のある「新しい勝利」にしなければならない。なお、過去の勝利とは、2党に分裂した時に左派の社会党が右派の社会党を抜いて、優勢になったこと、右派社会党の一部が結成した民社党の流れを汲む新党友愛が、社会党の残部の流れを汲む民主党に合流したことである。

話を五十五年体制に戻すと、結局、中道諸党が社会民主連合を除いて全て、自民党との協力(新自由クラブは自民党への復党)を選択したところで、自民党の最大派閥を小沢一郎らが離脱し、その翌年に新党を結成、五十五年体制自体の終焉を告げる鐘を鳴らしたのである。

以上のような状況が変わるかに見えたのが、鐘が鳴っていた1993年の、第40回総選挙であった。社会党は第2党の地位を維持したものの、議席を半減させ、自民党から分かれ出た新党等が議席を増やしたため、第3党以下の一部が合流するだけで、容易に第2党になり得る状況になったのである。第3極(それまでは中道という共通項を見出せたが、第3党となった新生党などは当時、自民党よりも右だと言えた)と第2極が入れ替わる時が来ていた。

なぜ「入れ替わる」のか。それは、自社両党の対立が時代遅れになったからであった。その対立とは次のものである。

・公共事業ばらまき(自民党)対社会保障ばらまき(社会党):両党の性質から導き出されるべき対立であったが、経済がしっかりと成長していた時代には、双方とも否定されるものではなく、実際にはそのような対立はほとんどなかった。しかし経済成長がより小さくなり、分配するための原資が自由にならない時代になると、難しいことだが、いかに成長させるかということと共に、どこをどのくらい切り詰めて、どこにどのくらい分配するのか、ということが論点とならざるを得ない。

・消費税増税賛成(自民党)対反対(社会党):後に社会党が5%への引き上げを認めた通り、税の直間比率について議論の余地はあっても、消費税の導入と一定の引き上げ自体は、不可避な状況であった(少子高齢化等による、社会保障費の増加と、将来の所得税収の減少、そして企業、個人の国外流出を招き得る直接税の限界のため)。

・自衛隊の海外派遣賛成(自民党)対反対(社会党):社会党の非武装中立がそもそも理想主義的であったが、冷戦が終わり、アメリカと組んでさえいれば安心、あるいは逆に戦争に巻き込まれるという主張は現実味を(ますます)失った。冷戦のたがが外れたことによって生じる新たな脅威に、どう対処するかを迫られる時、自社両党の対立は、以前にもまして不毛なものとなった(湾岸戦争が良い例だが、北朝鮮の核開発も、新進党結成時には問題となっていた。もし中立の立場を採るのだとしても、それは冷戦下とは異なる意味を持つことから、変化に応じた議論が必要であった)。

 

以上から、非自民、非社会、非共産の多くが合流した新進党が第2党になったことは、必然であったのだと言える。かつての中道勢力は、新生党系の指揮下に入り、新自由主義的であり、自衛隊の国際貢献に積極的な、新たな第2極になったのである。

 

民主党は、かつて第3極だった→

 

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