日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
恐ろしい1党優位制、つまり自民党1強の弊害

恐ろしい1党優位制、つまり自民党1強の弊害

さて、そもそも1党優位制の何が問題なのか、ここで考えてみたい。自民党1強であっても、良い政治が行われればよいのではないか? 国民が自由に投票して生まれた状況なのだから問題ないのではないか?  これが違うのである。よく耳にするものも含めて、その弊害を挙げていく。

 

➀優位政党が政策等を点検しづらい

日々、行政の仕事に追われる優位政党は、政策等の総括を充分に行うことが出来ない。忙しいから、というだけではない。現時点で自らが進めている政策の、負の面を冷静に捉えるのは難しい。微調整ばかりを繰り返し、そもそもの狙いから外れたり、必要な路線変更が遅れたりするリスクもある。

もちろん、総括が全くできないというわけではないが、自らを点検することは、野党になった時にこそ、しっかりと行うことができる。行政の仕事に追われない中で、自らが進めようとしている政策の正当性をアピールする必要があまりない中で、自らの政権時代を総括し(間違いを認めても、総選挙は行われたばかりで、そのために議席を減らす心配はない)、現政権の良いところ、悪いところを客観的に分析し、次の総選挙で政権を奪還すべく、己を磨くのだ。第2次以降の安倍内閣が、それまでの内閣と比べて安定しているのは、安倍が一度総理を辞して、自民党が一度下野したからだと考えられる。

長く政権にある場合、自らの路線の微調整ばかりを繰り返すことで、その合理性が失われる危険もある。このようなことを避けるために、政権交代は必要なのだ。

 

②優位政党におごりが見られるようになる

感じが悪くなるだけなら弊害も少ないが、優位政党は第1党であり続けていることで、また、自らを脅かすほどの野党が存在しないことで、自分達こそ正しいと考えがちになり、自らの政策の誤りに気付きにくくなる恐れがある。たとえ、有権者が選挙で優位政党の議席を減らしたとしても、それが政権を失うという危機感を伴わせるほどの減少でなければ、優位政党のおごりや油断を正すことはできない。個々の議員のレベルでも、落選する可能性が低くなればこそ、謙虚さを失わず、安定した地位を利用して熱心に仕事をするという人格者もいるだろうが、全体的にはどうしても、熱意や質が下がるものである。

ところが、優位政党が中途半端に危機感を持っても、それはやっかいなことになり得る。権力を握る優位政党が、批判に寛容でなくなるという事態である。

五十五年体制下、優位政党は、余裕があったがゆえに寛容であった。しかしその後、2度の野党暮らしを経験し、選挙制度も変わり、優位政党、つまり自民党から、その余裕は失われていった。1回目の野党暮らしの時は、理念、政策が全く異なる社会党との連立に踏み込み、政権復帰後は、参議院の比例代表制の部分に非拘束名簿式を導入するという、身勝手な改変を行った。2回目の野党暮らしの後は、野党議員の質問時間を減らしたりしている―野党の質問時間を増やすことを求めたのが、野党時代の自民党であるにもかかわらず―)。

政権交代の可能性が高まると、寛容ではいられなくなるというのも、もちろん怖い(野党第1党の党首―小沢民主党代表―の秘書が、確実に総選挙が行われる年に逮捕されるという出来事には、恐ろしさを感じ、それが、自民党を中心とする体制による、恣意的なものではないことを願った)。しかし、政権交代が起こりそうにない中で、政権を握る政党が寛容さを失えば、国民には抵抗する術がない。

今の日本は、中選挙区制の時代と違って、状況によっては、一気に政権交代が起こるということが考えられはするものの、普通に考えれば、起こりそうにない状況であり、起こったとしても、④で述べる通り、そぐに政権が自民党の戻る可能性が高い。このため優位政党、つまり自民党が、プライドだけは高く、寛容さはないという、危惧すべき状況に陥っている。今はまだ、危険というレベルではないだろうが、気がついたら、批判するための情報すら明らかにならないという状況に、なりかねない。特定秘密保護法などの法整備も進んでいる(全く必要ないと言うつもりはないが、危険性のある法律が次々成立しているし、安倍内閣に批判的なニュースキャスターが、次々と番組から消えたりしている)。

優位政党は、余裕があれば間違いに気付かなくなり、余裕がなくなってくれば、批判を封じ込めようとする。政権を取り得る野党が存在しなければ、どちらになっても危険なのだ。

 

③非優位政党が何でも反対に走るようになる

日本の野党は反対するばかりだと批判する人達がいるが、筆者に言わせれば、彼らも野党に反対するだけで、状況を変えようとしない、同類である。野党第1党に問題があるならば、早急に何とかしなければならないはずである。神々などではなく、私たちのコピーが議員をしている。国会が誕生して約130年、選択肢がただ上から与えられるものでないことを、そろそろ理解するべきである。国民が「自分は自民党支持だ」、「維新に投票している」などと言ったところで、それだけでは状況は変わらない。政権党に代わる選択肢があっての民主制である。そしてその選択肢の形勢は、政治家と、他の一般の国民の共同作業でなされるのだ。

非優位政党がなぜ、何でも反対するのか、その原因を改めることも考えなければならない(与野党が対立するのは、本当は一部の法案についてだけなのだが)。

例えば、自分が参加したい仕事から外されたら、それを批判的に見るのが人情だろう。それでもいいのだ。それによって欠点に気付くことができれば。しかし、やりたい仕事からずっと外され続ければ、卑屈になり、ただ、その失敗を願う人間に成り下がってしまうこともある。もちろん、全ての人間がそうだというわけではない。しかし政党は、政権を担うしかない。そうでなければ政策を実現できない(絶対にできないというわけではないし、弱い立場の少数派を代弁するためだけの政党というのも、他国には存在する。しかし基本的には、政権を取っての政党である)。半永久的に野党であっては、個々の党員や所属議員にも、また党全体にも、ゆがみが生じて当然である。政治家は現状の問題点について、強い関心を持ち、改善策について学び、考えなければならない。しかしその多くをどうにもできない野党であれば、問題意識を強く持っている議員ほど、それを改めるために王道を外れたり、スタンドプレーをしてしまったりすることもあるのではないだろうか。

野党が反対ばかりするのには、他にも理由がある。そうしないとテレビに映らないからである。筆者は、野党が「対案型」の政党になろうとして挫折する姿を何度も見た。野党に根気が足りないとも言えるが、根気強くやろうとした日本維新の会は、自民党の補完勢力と見られ、支持を失っている。第2党が現実的な対案型で行くと、まだまだ影響力の強いテレビで、「存在感がない」、「違いが分からない」と言われる。しかし現代では、大政党間に、そう大きな違いはなくて良い。欧米が苦しんでいる難民、移民問題のように、大きな違いが生じる問題が一度に浮上すると、国が不安定になる。

地味な対案型の野党にしっかりと視線を注ぎ、小さな差異や手段の違いを評価するくらいに、国民がならなければいけない。インターネットが普及している今こそ、それができるはずだ。残念ながら、これまで、そのような傾向は見られなかった。マスメディアも、その影響を受けた有権者も、有力政治家同士、政党同士のケンカを好んだ。特に五十五年体制下では、政党同士のケンカすら、自民党の派閥間の対立の前にかすんだ。

あえて横に置いておいたことがある。主要政党間には、理念の違いが無ければならないということだ。「大きな違いはないが、理念が異なる」というのは矛盾しているように見えるが、今、現実に採り得る政策は大きく異ならなくても、その先にどのような国、社会を見ているのかという差異こそ、重要なのだ。競争重視だとか、平等重視だとか、そのような差異がある中で、自分に近い政党を選び、それに問題があると考える場合は、支持政党を変えるのではなく、その政党に根気強く、改善を働きかけるのである。現在は平等を志向する左派政党が全体的に弱い。それにはグローバリズムや分配するための資源の限界も影響しているわけだが、そのような政党が無ければ、世の中がその分だけ多様性を失い、一部の人々が、生きにくくなってしまう(あるテーマではA党に近く、あるテーマではB党に近いということもあり得るが、これについては改めて述べる)。

野党は自民党を負かせることしか考えていないという批判もある。自民党にダメージを与えための、「反対のための反対」をしているだけだろうという指摘もよく耳にする。しかし与党に勝たなければならないのは、野党の宿命である。それすら、内輪もめのために不十分なのだが、そのことも含めて、政権交代がほとんどないことに問題がある。

政権交代が起こりやすければ(一定の期間内に起こっていれば)、次は自分達が政権を得られるという期待を、野党第1党は抱くことができる。この安心感(絶望に至らない程度の危機感と言った方が良い)の中で野党第1党は、政権を得るための魅力的な政策づくり、政権を担った時のシミュレーションに、行政の仕事に追われることなく取り組むことができるのである。これが野党であることの魅力だ。なにより、政権交代の可能性がある程度あれば、「なんにでも反対」というわけにはいかなくなる。そんなことをしていては、政権を担う立場になった時に困るからだ。

政権交代が起こり得る状況であったとしても、かつての社会党に、上で述べたようなことが出来ていただろうかという疑問は、当然わいてくる。もちろん断言はできないが、与党としての経験をもっと積んでいれば、さらなる離合集散を経てはいただろうが、可能であったと、筆者は思っている。そして社会主義体制の失敗を目の当たりにし、再編を経て社会主義政党でなくなった今は、社会党の流れを汲む民進党系には、絶対に可能だと考えている。

 

④いざ政権を交代させても機能しない

1党優位の弊害は、政権交代が起これば解決するものである。と言いたいが、そうではない。政権交代があまりに長期間起こっていないと、政権交代によって新たに与党となった政党には、政権運営の経験を持つ議員がほとんどいない、という状態になる。しっかりとした政策を組み立てるために優れた人材を得ることも、容易ではなくなる。

政権交代は、それまでの政権に、疲労も含めて問題がある場合に起こることが多い。にもかかわらず、それを正す能力が、新与党にはないということになる。特に、衆議院の総選挙で第2党に100議席も与えない現状では、それが深刻だ。100議席未満の党は、議席数をおよそ2.5倍は増やさなければ政権を得られない(連立を組むにしても、野党がかなり大きく議席を増やさなければならないということは、変わらないはずだ)。2.5倍になって政権を手にした時、その党は新人だらけとなる。政権担当能力どころか、新人議員を育てるだけで精いっぱいになってしまう(大敗した時には、支持基盤が安定したベテランが残るのだが―これも問題である―、その後の議席の増加は、減った分を大量の新人で埋める形になる)。

もちろん新人と言っても、官僚など、素人とは言えない者もいる。しかし、長く弱い野党であれば、優秀で、なおかつ、不利になっても党に留まるような候補者を集めることは難しい。

100議席未満であった期間が長過ぎなければ、新人ばかりではなく、以前議員であった者が返り咲くケースが多くなる。だから、負けた方がたとえ100議席を割るような負け方であったとしても、一定のサイクルで与野党が入れ替わるのであれば、問題はそれほど深刻ではない。

このように、与党の経験はもちろん、議会での経験でさえ不足する政党であっては、怖くて政権を任せられないということになってしまう。だから経験を積めないという、負のループだ。

さらに、優位政党と官界、財界の癒着構造がある。政権交代が起こっても、(民主党のように官僚を敵視すれば当然だが、)官僚達は新与党を警戒する(警戒するだけなら良いが、足を引っ張って自民党政権に戻そうとする危険がある)。政官のチームワーク、政財の一定の協力は、新たにゼロから形成されなければならない。

このことを考えると、自民党との大連立を組もうとした、2007年の小沢一郎民主党代表は、間違っていなかったように思われる。

地方議会は、共産党以外のほとんどが与党だというところも多い。そのようなところでは、民主党→民進党は第2自民党であった。だから民進党系はダメだというのではなく、そうでない道を、国民が作ってあげなければならない。第2党をきちんと育てなかったツケを、今払わなければ、本当に手遅れになりかねない。

 

⑤人材が偏る

優秀な人材は、例外はあるとしても、自らの力を発揮できる、優位政党に行こうとするものである。幸いなことに、と言わなければならないのがつらいが、自民党には世襲議員が多く、出世においても有利になっており、そうでない優秀な人材が、ある程度野党に流れている。しかしそれにはそれで、本当は優位政党(自民党)で力を発揮したいという思いが、非優位政党に参加しても残り、そのような参加者によって野党の団結が、特に逆境において乱されるという危険性がある。本来は保守なのに、左派的な政党の中で少数派として耐えなければならないという状況は特に、離党者を発生させやすい。

野党第1党が明確に社会主義政党ではなくなったことで、自由主義者・資本主義者が第1党に、社会主義者が第2党に、という人材の住み分けはなくなった(資本主義を肯定する社会民主主義の民社党などもかつてあったが、少数であった)。しかし今でも、競争重視は自民党へ、平等重視は民進党系へ、という住み分けは可能だし、それくらいの理念の差異があり、有利な方に移動することがおかしく見える方が良い。

 

⑥野党の主張が不健全になる

現在の日本では、冷戦下と比べ、与野党の政策的な差異は小さくなっている。財政上の余裕もなくなり、採れる手段に、以前よりは制限がある(借金を際限なく増やしても良いと言うのなら、別と言えば別だが)。与党第1党と野党第1党の力がほぼ互角で、政権交代を期待することができる状態であれば、その中で採り得る具体的な政策、その実行プランの差異を巡って戦うことができる。もちろん力が同等であるからこそ、政権をかけてなりふり構わない戦いが繰り広げられるという可能性もある。しかし、これが国民に支持されないものであることは、歴史が示すところである。1党優位でない状況下でそんなことをすれば、第1,2党が共に沈むだろう。

ところが、与党第1党と野党第1党の力の差が大きく、政権交代をほとんど期待することができない場合、細かな点を争っても、野党第1党に注目は集まらない。地味な論争である上に、野党第1党の政策は、どうせ実現しないと分かっているからだ。与党第1党の路線を正す有意義な指摘は、野党第1党がするよりも、与党第1党内の、有力者がした方が、党の内紛につながり得ることからも、注目が集まる。それは、与野党の対決よりもまだ、優位政党内の対立の方が、勝負が読めないからでもある。しかし今は、自民党内の「1派閥優位制」がそれをも抑えている状況だ。

政権獲得を期待し難い野党第1党は、とにかく目立たなければならない。そこで優位政党の議員のスキャンダルの追及に熱心になったり、政策についても、派手だが実現させる根拠に乏しい主張、偏った主張をしたりするようになる。

どのような内容であれ、野党第1党が内閣、自民党の法案に対案を出した場合、提出したことを肯定的に取り上げつつ、内容を検証するべきだと思う。それも目立つ形で報道するべきだ。これによって野党第1党は、良い意味で活性化する。しかし、現実はそうなっていない。政治に関する報道で目立つのは、やはり圧倒的にスキャンダルだ。マスメディアが現状のままでは、大臣などの首を取ることを勲章とする日本社会党以来の文化は、なくならない(インターネットに関しては別の問題があるが、それについては改めて述べる)。ある程度の追及をした上で、「あとは有権者の投票行動に委ねます。」と、野党第1党が堂々と言える状況になって欲しいと思う。

 

⑦野党が与党にぶらさがる

自らが政権の中心とはなり得ないような、中小規模の政党は、大政党と結びついて政策を実現させようとするものだ。普通は、現に政権を担っている政党と、そんなには遠くない時期に、政権を獲得すると予想される大政党がある。中小規模の正統は、その2つから、自らにより近い方を選んで、協力を求める。その時の与党に協力を求めるのが近道にみえても、日本の自民党のような、何でもあり(特に困っている場合)の大政党ではないから、野党第1党のほうが近ければ、まず、譲歩は引き出せない。キャスティングボートを握れば別かもしれないが、機会は限られるし、もめることも予想される。

ところが、政権交代がほとんどなく、また起こりそうにも見えない日本においては、政策を実現させるには、基本的には与党第1党、つまり自民党にぶら下がるしかない。野党第1党ですら、自民党と取り引きをしなければ、政策を実現させる機会がない。だから表、で戦って、裏で手を握っているなどということが、多々あるのだ。これでは、強い野党は育たない(野党第1党が保守政党の場合、自民党と取り引きをすれば吸収されかねないから、政権獲得を望めなくなった時点で、あるいはその前にも、進んで自民党に吸収されるか、むしろ左派政党以上に、激しく対決することになるかも知れない。新進党はその双方に分裂したのだと見ることもできる。どちらが良いか、安易には言えない)。

 

⑧腐敗する

これについて説明は不要だろう。長く権力にある勢力は腐敗するものである。そして政財官の癒着は、税金の無駄遣いと一体的なものでもある。

 

以上である。1党優位制の負の面には、気付かないうちに徐々に進行する病のようなところがある。その状況に慣らされてしまい、痛みを覚えて気が付いた時には、もう手遅れだということは、十分にあり得る。その危険性は、五十五年体制下よりも高くなっているといえる。自民党が、一般的な保守、自由主義政党と、右翼ポピュリズム政党の双方の性質を併せ持つような存在になってきているからだ。他の先進国などでは通常、それらは別々の政党である。

今の自民党の強さは、景気を人質に取っていることにある。しかし、自民党政権に戻って景気が良くなったといっても、景気が悪化し始めたのも自民党内閣期である。民主党内閣の経済政策が成功したとは言えないが、東日本大震災の影響もあった。そして何より、景気はそんなに良くなっただろうか。中間層、貧困層が景気の回復を実感するにはタイムラグがあるとされるが、(かつてのように、)大企業、富裕層が潤えば、国民が全体的に豊かになるということはないとする説もある。

つまり、有権者が半ば架空の人質を取られ、手なずけられているという面もあると考えられる。もちろん野党こそ、経済政策を問われているということも、確かである。

自民党内での疑似政権交代は、有権者の選択による結果とは言い難いし、所詮は同じ組織である。政権を奪い合うのに分裂しないということこそ、各派閥に自民党への帰属意識があり、自民党という組織を守ることを重要視してきた証である。自由民主主義で共通する複数の政党が、自由民主主義体制を守りながら政権を奪い合うというのと、全く似ていないとはいわないが、大きく異なる。

五十五年体制の初めには、自民党以外に複数の議席を持つ政党は、自由民主主義だとは言えない左派が優位の、社会党しかなかった。第3党は、今よりもずっと強硬であった共産党だと言えた。ところが現在は、一定程度軟化はしている共産党を除いて、全政党が自由民主主義である。そのような状況下、政界のほとんどだといえる自由民主主義勢力がまとまっている必要はないし、それは危険なことである。自民党が1つである必要はないのである(また自民党が分裂して・・・という再編は望まないから、筆者としては、「自民党が圧倒的な議席を持つ必要はないのである」と、言いたい)。

1つの政党内だけで政権を争うという面は、むしろ中国(の共産党)に似ているし、党対党と比べてチェック機能に乏しいから、民主性が弱まる危険が、より高いといえる。公職選挙法の適用外である自民党総裁選が、イコール「総理大臣選挙」であるということは、おかしいと言えば、おかしい(そして内閣-≒自民党総裁-の支持率が大きく下がったにもかかわらず、総裁選すらまともに戦われない現状は、とても恐ろしい)。

人や組織は、逆境に置かれた時にこそ、試される。野党になった自民党が出した答えは、初めて野党となった細川、羽田両内閣期には、どんな党と組んででも与党になる、というものであった。民主党内閣期には、右傾化であった。後者については、ライバル政党とは異なる立ち位置を明確にしたという点では、評価できる。しかし行き過ぎている面は否定できない、特に、民主党内閣期に出された自民党の改憲案は、あまりにひどい。本来は権力を縛るものであるところ、国民にかなり右寄りの、国家中心の価値観を押しつけるものである。その自民党が優位政党に戻った(長期的に見れば優位政党の地位を維持した)のだから、怖い(資金も潤沢な優位政党であるから、憲法改正を巡る宣伝合戦についても有利である)。

戦前長く優位政党であった立憲政友会は、真っ二つに分裂し、その地位を失った時、与党第2党になってもプライドが高く、連立のパートナーである、憲政会(与党第1党)を下すことばかり考えていた。

(大)政党とは、与党になったり野党になったりするものであり、与党になれば、謙虚でありつつも信念も持って、約束した政策などを実現し、野党になれば危機感を持ち、しかし絶望したり、すぐに、無理に与党に返り咲こうとしたりせず、自らの問題点を改善し、より魅力的な、あるいは時代が必要とする政策をつくるべきものだ。「野党になるなどありえない」、「野党でいるなどありえない」というのでは話にならない。

 

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