日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
民主党は、かつて第3極だった

民主党は、かつて第3極だった

新進党の結成によって、社会党はついに第3党に転落した。しかしそれは有権者が直接そうしたのではなかった。1993年の総選挙では社会党は半減してもなお、第2党であった。その議席数は511のうちの70議席であった(追加公認を含めても77)。例えば新生党、公明党、日本新党のうちの2つが合流するだけで、あるいは新生党が、民社党を含めた他の複数の小党と合流するだけで、すぐに新たな第2党となる状況であった。だから、有権者が、再編によって第2党を交代させることが可能な議席数にしたのだとは言えるが、有権者が、新進党を社会の代わりに第2党にしたとまでは言えない。新進党の代わりに民主党を第2党にしたのでは、全くない(総選挙では新進党156、民主党52議席であったのに、新進党がばらばらに砕けて、民主党が、新進党出身者を吸収する前に第2党になった)。有権者は第1党だけでなく、第2党すら、直接選択したわけではなかったのである。

衆議院が小選挙区制中心の選挙制度になり、参議院の比例以外でも1~2人区が圧倒的に多かったから、社会党が衆議院第3党に転落したことは、政党としては瀕死の状態に陥ったということを意味した。自民党への批判票の流出も、加速することは避けられなかった。

新進党が自民党離党者、特に、当時新自由主義的であった小沢一郎が主導するものであったことから、保守2大政党制になり、革新勢力の需要も残りはした。極端にいえば、自民党が利益誘導の恩恵を受ける既得権益の擁護者、新進党が新自由主義的(新生党の志向を考えればそうなのだが、公明党などにも配慮したのか「活力ある福祉社会」が綱領に謳われ、ブレア労働党の第三の道に近い面もあった)であり、そのような保守政治(アメリカやイギリスで新自由主義政策を採っていたのは、本来最も保守的な大政党であった)の恩恵を受けられない労働者、社会的弱者の利益を代弁する政党は当然ながらなお、必要であったのだ。そこで社会党と新党さきがけの議員達が、両党の党首等の参加を拒みながら新党、民主党を結成したのである。自民、新進両党とも過半数に届かない場合、小さくなってもキャスティングボートを握って、しっかりと影響力を行使し得た。しかしどちらかが過半数を超えれば用済みとなり、左派が少数野党になるという、戦前に近い状況になる危険性があった。その場合、代わりに自民党が平等重視型になれば良いのかとも思うが、左派政党の平等と、保守政党の平等は、やはり種類が違う。また自民党は経営者層とも近く、そこの変化が無ければ、労働者等の利益の代弁は、労働者側に立ったものではなく、経営者側に立った、上からの譲歩に過ぎないものとなりかねない(新進党には、連合の旧同盟系を支持基盤とする民社党系も参加していたが、旧同盟系は大企業の、経営者寄りの労働組合が中心であり、被用者の待遇を、経営者と一致し得る範囲で良くするという以上の、平等重視の政党である必要はなかった)。

さて、このような状況であった中でなぜ、社さ新党という面が大きい民主党が第2党になれたのか(左派政党が第2党に返り咲いたのか)。それは直接的には、新進党の分裂が想像以上の細分化であったためである。なぜそうなったのか。保守系の議員に志の低い者が少なくなかったためである。

新進党の不振は、自民党に勝てなかったことだけではない。新進党結成時、自民党にはまだ、以前の強さは戻っていなかった(連立相手の社会党の政権運営の経験の不足、与党への返り咲きが予算編成に間に合ったことから、権力はだいぶ戻っていたが、党のイメージは変わっており、それは小さなことではなかった)。一方の新進党は、保守系議員の後援会、創価学会、旧民社党を支持していた同盟系の労働組合の集票力、(社会党がかなり手放していた)反自民票を含む無党派層の少なくない票を期待することができた。結局自民党に勝てなかったとは言っても、結成から2年も経たない総選挙での敗北で幕を下ろしている。まだ多少弱っていた自民党にすら勝てず、むしろ4議席減らしたのだから、危機感を持つのは無理もないし、持つべきであった。しかし危機感を持つことと動揺することとは違う。当時は民主党の姿勢も曖昧であったし、まだ過渡期であった。再びチャンスが訪れることは、十分にあり得た。

しかし新進党の保守系(自民党出身者)、公明党系(創価学会)は動揺した。後者はすでに述べたように、優位政党を敵に回せない事情があった。しかし保守系は違った。それなのに、自民党に移る議員が続出したのである。自民党が野党になった時とまさに逆であり、情けないことに、野党に転落した自民党を離党したものの、自民党が与党となると復党した、という議員も少なくない(「保守2大政党制失敗の要因」参照。改革の会の鳩山邦夫以外、自由党の高市以外、新党みらいが自民党下野後の離党者、高志会は自民党が野党から与党に戻る首班指名選挙で、社会党の村山に投じなかった議員隊が、離党後に結成。吹田は、自民党の下野が確実とは言えなかった総選挙後に離党、後に新生党に加わった加藤六月グループ-)。それより議席が少ない社会党→社民党→民主党から自民党に移る議員は皆無であった(社会党から自民党に移り、さらに日本維新の会に移った谷畑孝くらいしか思い浮かばない。谷畑は、2012年の総選挙において日本維新の会から立候補し、民主党から自民党に移ったばかりの長尾敬と戦った。日本の政治の闇である。また五十五年体制より前を見れば、日本社会党を離党して社会革新党の結成に参加し、自由党に移った鈴木善幸がいる。鈴木は後に総理大臣にまで上り詰めた)。民主党→民進党の離党者だけを笑うことはできないのである。

負けた方から勝った方に議員が移るような自民党と新進党が、2大政党制を担えるわけがなかった。このことだけで、直ちに自民党を下せなかった新進党は、終わったのだといえる。その後も、新進党内における、主に自民党出身者同士のぶつかり合いが続いた。それは与党自民党と組もうとする小沢らと、野党になった民主党等と組もうとする羽田らの対立を中心としていた。民主党と小沢系は、細川、羽田内閣期の対立と決裂の影響から、まだ協力することが難しかった(後に結局合流したのだが)。公明党系と民社党系は、真っ二つというほどではなかったが、双方に分裂した。このため、新進党の分裂後に誕生したどの政党も、民主党の議席を下回った。保守系反小沢派(国民の声)は、新進党分裂前に離党していた議員達の太陽党(羽田ら)、フロムファイブ(細川ら)と合流して民政党を結成してもなお、民主党を超えられなかった。

日本には保守2大政党制が合っている、あるいはそれしか政権交代が定着する可能性がない、という見方がある。それならばなぜ、このような結果になったのだろうか。社会民主主義政党はいらないのだろうか。

アメリカ、カナダは主要政党に社会民主主義政党がなかったが、アメリカでは民主党、カナダでは自由党が、その役割を一部引き受け、より右のライバル政党と対峙していたし、カナダでは社会民主主義の新民主党が勢力を伸ばしている。

格差の是正を唱える社会民主主義政党は必要だし、2大政党の一方であるべきだと、筆者は思う(キャスティングボートを握る第3党になっても、その地位は不安定すぎる)。保守2大政党制を唱える人々は、格差の是正を誰に任せるつもりだろうか、官界、財界と密接な関係にある保守政党か、それとも、ポピュリズム政党(に近い存在)が2大政党の一方になった、新たな保守政党だろうか。安倍総理は賃金の引き上げを経営者に働きかけきたし、ポピュリストは貧困層にとっても魅力的な主張をする。しかしやはり不安定だ。資本家、経営者層を重視する保守政党、そして、また改めて述べるが、国民を分断して対立をあおることで支持を得ようとするポピュリズム政党に、常に被用者の味方であることを期待することはできない。

自己責任を旨とする大政党が存在するならば、社会的弱者一般に優しい大政党も必要である。双方に役割があるからこそ、他の先進国のほとんどにおいて、変化を見せているとはいえ、双方の政党が存在するのである。

もちろん、保守2大政党論を出現させるだけの問題点が、日本の社会民主主義勢力にあることも、忘れてはならない。2大政党の位置があまりに離れすぎると(日本の場合、社会党が左に寄り過ぎた)、第1党が弱ければ政治が不安定になるし、そうでなければ政権交代が実現しにくくなることも、確かだ(日本はもちろん後者である。有権者の多くがそのように分化されず穏健であれば、2大政党もその票を求めて中道に寄るものだが、日本の場合、多くの有権者が穏健であったと考えられるものの、そうはならなかった)。

五十五年体制の終焉後の第3極の傾向を見ると次の通りである。非常に大雑把のものではあるが、見やすさを重視した。

なお、優位政党である自民党の長きにわたるばらまき政治とそれが招いた多くの無駄な支出、利益誘導と票や資金の事実上の取引き、政官財の癒着に対する反省から、3大政党ともし得る主要政党が改革競争一色になったことは、その前の状況と合わせて、1党優位の弊害として記憶しておかなければならないと思う(首相など、少数の有力政治家のリーダーシップによって改革を進めるイメージの自民、新進両党に対し、民主党は、官僚から国民―同党は市民としていたが―に政治を開放するというイメージで、やや左であったと言えるが、この民主党らしさは、民主党が再編によって拡大すると、薄まっていった―保守系議員が入ってきたということもあるが、党の規模が急に拡大し、自らへの政権の交代を期待する、第2党になったことによる変化だと思われる―)。

このことに関して言えば1997~98年は一つのターニングポイントであった。改革競争の中心でもあった節約型の緊縮財政、つまり古い自民党政治の象徴であるばらまきの反動が不況を深刻にし、改革競争が「撃ち方やめ」となった。金融機関の救済も大問題となったが、社さ両党の連立離脱の後、残された自民党が参院選でも全く振るわず、同院で過半数を大きく下回っていたにもかかわらず、民主党の菅直人代表は政局にしない(自民党政権を倒すために、問題を利用しない)とした。何でも反対、与党の足を引っ張る姿勢を採らなかったのである。しかし民主党の支持率が大きく上がるということはなかった。それどころか、これに失望した小沢一郎の自由党、そして、本当は自民党と組みたかった公明党系が、自民党の陣営に移るきっかけとなってしまった。今野党を批判している人は、この新しい歴史を知っているのだろうか。

話が少しそれたが、見ていこう。

 

1994年~ 第1極  第3極  第2極

・      自民党  社会党  新進党

・      保守   社民   自由

 

 

1996年~ 第1極  第3極  第2極  改革姿勢の競争により政党間の差異があいまいに

・      自民党  民主党  新進党   (改革=新自由主義では必ずしもないが自民党の

・      自由?  自由?  自由   ばらまきへの反動からそのような傾向を持った)

 

 

1998年~ 第1極  第3極  第2極  自民党は新自由主義的方向性を一定程度含んだ

・      自民党  自由党  民主党  政策が支持を得られず転換。自由党は新自由主義

・            公明党      を維持、公明党と共に一時は民主党側となったが

・      保守回帰?   社民回帰?   自自公連立政権に

 

 

2001年~ 第1極  第3極  第2極  ※社民党は上では省略したが、社共両党くらいしか

※小泉内閣  自民党  社民党  民主党   第3党以下が存在しなくなった

からとし   自由    社民   社民   (自由党は2003年に民主党に合流)

たが傾向    対米追従    やや親中    イラク戦争の勃発などにより、

は徐々に                    外交に関する差異が浮上した

 

新自由主義の台頭も、バブルの崩壊まで経済が好調だったこともあるが、周回遅れに近かった。民主党は「改革の本家」として、時に小泉総理を評価する姿勢を採ろうとしたが、それでは埋没するだけだと、報道、国民によって思い知らされた(民主党は、自民党が分裂して政界再編が起こることも期待したのだろうが、権力にこだわる自民党は、そんなことでは大分裂を起こさなかった―自民党も民主党も幅が広い政党であったから、自民党が弱って大分裂を起こし、民主党を巻き込む、理念、政策を軸とした再編が進むことは有意義であるが、当然ながらそのようなことがお起こる可能性が非常に低い。200年代初頭には加藤の乱などもあり、自民党が分裂する可能性は、与党であったにもかかわらず比較的高かったが、それが真に理念、政策を軸にしたものとなることは、さらに考えにくいことであったはずだ―)。

2000年前後は、社共両党がそれぞれ第3極を自負し、公明党を第3極とする見方もあったが、共産党以外は2つの陣営に整理され、共産党も大政党の間に位置するわけでもなく(五十五年体制に比べて2大政党が似ており、間に位置することの意味はそもそも小さくなっていた)、独自性といっても民主党の左の社民党のさらに左という、非現実的であり、あまり需要の見込めないポジションであったから、第3極は消滅したといって良いような状況となった。議席数を見ても、2003年の総選挙によって、自民、民主両党以外の政党が全て、衆議院で1ケタにとどまる状況となった。

 

2009年~  第1→2極  第3極   第2→1極

・       自民党   みんなの党    民主党

・       保守     自由       社民

 

 

政権にあった自民党、次に、次に政権を得ていた民主党は、人気を得ていた路線を、中央に寄るように軌道修正した。野党が社会のニーズを見て変化したイギリスと違い、与党が、

その新たな党首の性格のために変わったことで、「ぶれた」と失望されたのである。

 

 

2012年~ 第2→1極 第3極右派 第3極左派 第1→2極 民主党離党者等が第3極左派

・      自民党  みんなの党  未来の党  民主党   形成。 民主党は政策を大き

・           維新の会   に結集         く変え、小泉内閣期より前に

・      保守     自由    社民        ?              戻るような面があった

 

 

2013年~  第1極   第3極   第2極  自民党が新自由主義の色を再び強め

・       自民党   維新の党  民主党  (全体的には混合型)たことで、

・       保守・自由  自由    社民  民主党が社民主義の傾向を強めた

 

 

2017年~  第1極 第2→3極 第3→2極  ※最近の状況なので本来省略する

※希望の党   自民党 ←維新の会   立民党   ような政党も記した

結成以後    公明党   希望の党→ 社民党  ※民進党については、あえて記さ

・       こころ    自由党→ 共産党   なかった

・       保守   自由    社民・社会

 

迷いがあるように揺らいでいるが、結局、保守対自由(第3極は社民)から、保守対社民(第3極は自由)となり、自民党にも新自由主義的な面があるものの、保守対社民という五十五年体制からの変化を、小さな第3極が一身に背負わされるという、結果に落ち着いたようだ。

2001年、小泉純一郎を党首とすることで、民主党に押され気味であった状況を変えようとした自民党は、新自由主義的な志向を強めた。それに対する懸念は、消費税増税をしないという「アメ」でかき消した。とにかく改革で無駄、腐敗の温床をなくすという姿勢は、小泉の容姿、キャラクターと相まって、爆発的な人気をもたらした。細川内閣と同様、古い政治との決別が、(なんとなく)期待されたのであった。以後、新自由主義的改革と、それが招く格差の是正が、人気のある主張として、明確に定着する。

格差の是正は、小沢の自由党を吸収した民主党が、その小沢一郎の主導の下、左に寄ることで小泉改革に対する不満を吸収しようとして、掲げた。小泉改革の負の面も認識されるようになると、この路線は支持された。

これにより、新自由主義志向の政党と、社会民主主義志向の政党による、欧米でスタンダードな2大政党制(あるいはより多くの政党による2ブロック制)に、日本もようやく到達したかに見えた。しかしその後、まず自民党がぶれて、格差の拡大以上に、このブレに対する反発から政権交代を実現させた民主党も、ぶれた。

1980年代には新自由主義対社会民主主義となっていたイギリスだが、日本とは大きな差異がある。ヨーロッパでは福祉重視が財政難を招き、新自由主義が台頭した。新自由主義となった保守党から政権を奪還した社会民主主義政党(労働党)は、新自由主義と社会民主主義の間を採ることで認知されていたのである。

当初の民主党にもこの傾向はあったが、同党が政権を取ったのは、新自由主義的な面を排除したことによる。歳出削減に対する努力も見られたが、それによって浮いた分も含め、社会保障等(「コンクリートから人へ」)の充実が最重要視されていたといえる。イギリスでは、かつて保守党が労働党に寄ったように、今度は労働党が保守党に寄ったのだが、2大政党が近づくと、双方と考えが異なる多くの有権者が、第3党以下(新党であることも多い)に支持政党を変える可能性がある。しかし社会に不満があまりたまっていなければ、政治が安定するというメリットが光る。

日本では自民党が社会党に寄っていたという面もあったが、自民党がイギリスの保守党のように新自由主義になると、社会党の流れを汲む民主党は、イギリスの労働党とは逆に、自民党と反対の姿勢を採った。これは自社両党がヨーロッパの左右のポピュリズム政党の傾向を併せ持って対峙する、不安定な状況をもたらした。

原因は、第2党に政権担当の記憶が乏しいことにあるように見える。万年与党(優位政党)が左右に肥大化することでライバル政党(非優位の第2党)に接近し、ライバル政党はその時々、ちょうど採られている万年与党の姿勢に反対することに徹し、奇跡的に政権を得ると、今度は万年与党を真似することしかできなかったのである。

 

人気者に頼るという第2党交代の問題点と、中途半端な再編の繰り返し→

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