日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
第3極(⑤⑥⑧⑨⑩)~野党化した中立派の役割~

第3極(⑤⑥⑧⑨⑩)~野党化した中立派の役割~

独立倶楽部の分裂は上奏案によるものであったといわれているが、溜池倶楽部の結成はそれより少し前であり、溜池倶楽部の参加者は事実上独立倶楽部と分立したことから、独立倶楽部の分裂は、地価修正を巡るものであったと捉えることができる。上奏案については、その手法や文面が穏やかでない点を問題視し、かつ決議案にとどめるならば支持をするとした独立倶楽部は、中立派らしい判断をしたといえる(あくまでも全体的に見た場合であり、実際には双方に反対した議員もいた)。そして上奏案が否決、決議案が可決に至ったのだから、それらの成否を分ける一因にもなったのだといえる。しかしそのことに意義があったとは言い難い。独立倶楽部の動きだけが成否を左右したわけではないし、上奏案と決議案で成否が分かれたことが状況を決定したとはいい難いからである。政府を追及する案件の可決は、政府が少数派である状況を明確にする効果があるが、この場合、その効果は限定的であったといえる。独立倶楽部の中で、地価が比較的高い選挙区から選出されていた議員が溜池倶楽部に移った。上奏案に賛成して独立倶楽部を脱した紀州組は、やはり地価が高い和歌山県の選挙区から選出されていたが、彼らの指導者であった陸奥は、中央政界の再編という大きな目標を持っており、地元の地価には関心が薄かったようである。これが和歌山県の地主層(の一部)の反発を招き、陸奥系衰退の一因となっていることは十分に考えられる(第3回総選挙において陸奥派は、岡崎が立候補辞退-立候補制ではなくても、当選しても辞退するという意思表示になる-するなどし、当選者は3名に減った)。また陸奥系は、鉄道を走らせる路線などを巡って和歌山県内の都市部の有権者と利害が対立していた。衆議院議員と有権者の相互作用によるものであった地価修正運動が、和歌山県では、地価が高いにもかかわらず、早期に萎んだ。

ともかく独立倶楽部は、地価修正優先派(溜池倶楽部)、政界縦断優先派(紀州組)、その他(独立倶楽部残留者)に分立したのである。またこれとは別に、地価修正回避を目指す東北系の会派も存在していた。地価修正は全体的には減税となる(多くの地域で負担増となるような修正は難しい状況であり、民党の案は有権者、議員への配慮から、専ら高地価地域の地価を下げることで平等にするものになった)ことから、準与党が否定的であった。また肯定的であった野党、準野党の内部でも、地価が低い東北や北陸の選挙区の議員が消極的であったことから、可決には幅広い勢力の協力が必要であった。中央交渉部は、国庫に影響がない程度の地価修正は肯定していた(1892年4月26日付東京朝日新聞)が、同派には地価の低い山口県内選出の全議員が属していた。このような事情から、政党に属さない地価修正派は中立の立場を採り、陸奥にも期待したのかも知れない。しかし陸奥系との優先順位の違いが立場の違いとなって、分裂したのであった。地価修正は、衆議院では賛成派が多数になったものの、薩長閥政府の意も汲む貴族院では反対派が多数であったことから、成立の見込みが立たなかった。第4回帝国議会では薩長閥政府が地価修正案を提出したが、それは野党が反対する増税を実現させるための、取引材料としてであった。

衆議院における多数派工作の意味も当面はなくなったように見え、溜池倶楽部は、中立の維持を志向する議員達(≒芝集会所、無所属)と、薩長閥政府に反発して野党に寄る議員達(≒同盟倶楽部参加者)に分裂したのである。そのような意味では、結局は上奏案の是非と類似する、政府に対する姿勢を巡る分裂に終わったということになる。

しかし内閣の交代によって変化が起こった。政局の勝者となった陸奥は、伊藤と共に不平等条約の改正という課題を改めて設定したが、それは中立派の志向とずれていた。第3極の多くの議員の関心事は、本来は地価修正であったからである。このずれが、中立会派に対外強硬姿勢を採る議員が含まれていたことと合わせて、中立派の多くを結局は野党に追いやったのだと考えられる。

こうして、陸奥系が民党寄りから実質政府寄りに、中立、野党寄りの会派が共に、対外硬派としての野党となった。政界縦断の進展を意味した内閣の交代は、中立会派を、薩長閥側と民党側、というよりも政界縦断を進展させた成功者の勢力と、そうでない勢力に分裂させたのである。中立派の多くは成功者でない側(衆議院では紀州組、自由党以外の党派)について、その勢力を強め、衆議院において優勢にした(非成功者=失敗者ではない。立憲改進党は野党共闘に失敗したのであって、縦断を目指し、失敗したのだとは言い難い)。衆議院の副議長に中立会派(東北同盟会→有楽組→政務調査所)出身の安部井磐根が、議長に同盟倶楽部の楠本が選ばれたことが、立憲改進党と国民協会の緩衝剤となり得る存在であったことも含めた、中立出身者の役割の大きさを示している。

※陸奥系について特に、伊藤之雄「自由党・政友会系基盤の変容」(山本四郎編『近代日本の政党と官僚』第Ⅱ部第2章)参照。

 

 

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