日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
(準)与党の不振・野党の2択(⑧)~鉄道国有化法案と大同倶楽部の内部対立~

(準)与党の不振・野党の2択(⑧)~鉄道国有化法案と大同倶楽部の内部対立~

1906年3月8日付の読売新聞によれば、鉄道国有化法案の特別委員会の、大同倶楽部所属の委員9名のうち、法案に賛成であったのは安達謙蔵(帝国党出身)、石塚重平(自由党~立憲政友会、甲辰倶楽部出身)、反対であったのは大戸復三郎、藻寄鉄五郎、雄倉茂次郎、服部小十郎、久保伊一郎、岡田治衛武、未定が南條吉左衛門であった。藻寄、久保、岡田は非幹部派と報じられているが、大戸は幹部派と報じられている。大戸、久保、服部、南條が、甲辰倶楽部の出身である(ただし、久保は政友倶楽部、服部は中正倶楽部の前に、立憲政友会に属しており、また実業家らしい実業家は服部くらいである)。藻寄は会派自由党、雄倉は立憲政友会、出身であった。旧帝国党系に対する旧会派自由党系の反発だけでなく、帝国党出身者と実業派の議員達の間に、政策的な差異があったということも、考えられないわけではない。そうであれば特に、大同倶楽部が帝国党出身者等に強引に動かされていたことになる。同じ3月8日付の萬朝報は、大同倶楽部内に、旧帝国党系に反対の52名に達する一派があり、戦時税継続問題については盲従を強いられたため、鉄道国有問題で、政府に一泡吹かせようとしているとする。会派自由党出身者と無所属出身者は、全員合わせても(もちろん全員が悲幹部派であったとは言い難い)、多くて35名であり、有志会出身者を合わせても40名あまりだ。そもそも、当時80議席足らずの大同倶楽部で、52名の反主流派というのは、あまりに多すぎる。帝国党出身者+他の10名程度を除く全員ということになる。それではさすがに、帝国党系が主流派でいられるはずがない。甲辰倶楽部にも一定数、非幹部派がいたはずで、それを合わせれば、とも思うが、やはり無理がある。考えられるのは、非幹部派と、そうではなくても鉄道国有化には反対の議員達を、合わせて52名と数えているということだ。この記事は、三菱が鉄道国有化法案の衆議院通過を防ごうと、大同俱楽部の重鎮を買収したともしている。だが4月の上旬には、大同倶楽部の一部が鉄道国有化に反対し、憲政本党と接近する可能性が高まった。3月9日付の東京朝日新聞によれば、大同倶楽部の大部分が憲政本党と通じていることが7日に発現し、同日の夜半に、立憲政友会と大同倶楽部の交渉が成立した。大同倶楽部の鉄道国有法案の特別委員が、互選で委員長候補を選ぶ際に、藻寄3票、南條吉左衛門3票、石塚2票となり、藻寄と南條による決選投票を、藻寄が他の委員と意見が異なることから行わず、自派で独自の委員長候補を立てることを断念した。3月8日付の同紙によれば、大同倶楽部の反対派の6委員は、憲政本党と組んで委員長を得ようとして了解を取り付けたが、賛成派の2委員は立憲政友会に譲ってもらおうとしたものの、容れられなかった。鉄道国有化は、山県-桂系が進めようとしていたものでもあったから、非幹部派が幹部派に反旗を翻し、反対派の憲政本党と組もうとしたという面もあるだろう。しかし反対に、鉄道国有化に反対の議員達が、賛成の帝国党系等の主流派に反感を持って非幹部派になったということも、考えられる。そのような状況下、幹部派は急いで立憲政友会と合意をし、内部に賛成の流れをつくろうとしたのだろう。この時はつまずいたが、結局は成功したのである。

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