日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
日本維新の会の失敗、維新の党大阪派の失敗

日本維新の会の失敗、維新の党大阪派の失敗

日本維新の会が結成された2012年9月、与党民主党が次の総選挙で過半数を大きく下回る大敗をすることは、もはや確定的であった。自民党が過半数を獲得すれば、翌年の参院選で自民党が負けない限り、日本維新の会はキャスティングボートを握る機会を得られない状況であった(参院選までは自民党も民主党も過半数を持っていない状況が続く見込みであったが、日本維新の会には、わずかな参議院議員しかいなかった(結成時が4名で、太陽の党と合流しても、さらには参院選で議席を増やしても、2ケタに届くことはなかった。それは単独でも、みんなの党と合わせても、キャスティングボートを握れる数ではなかった―2013年の参院選以後は、自公両与党で過半数―)。

よって、日本維新の会が現実的に期待し得たのは、結成後初の総選挙(2012年中に行われた)で、自民党に次ぐ第2党となり、野党側の主導権を握ることであった。民主党が50議席台にまで落ち込むことを的中させた予想はなかったと記憶しているが、それでも、日本維新の会が民主党を上回る可能性は、あったといえる。

たしかに、民主党離党者が日本未来の党を結成し、多くの候補者を擁立した。同党は惨敗したものの、第3極の政党同士の票の食い合いには、一役買った(日本未来の党から言わせれば、彼らと一線を画した日本維新の会こそ、問題であったわけだが)。それでも日本維新の会とみんなの党が合流、いやせめてしっかりと選挙協力をしていれば、日本維新の会が民主党以上の議席を得られたはずだ。

選挙協力を限定的にしかしなかった、日本維新の会とみんなの党が実際に獲得した議席数の合計は、民主党の57を、15上回っていた。だから総選挙後に合流して、第2党になっても良かったのである。野党第1党のポジションの重要さを考えると、本当は総選挙で第2党の座を得る(自民、維新、民主の順にする)ということが、文句のつけようがなく、インパクトもある展開であり、重要であったとは思うが。

しかし次善の策として、総選挙後に合流するか、それが不可能であったなら、みんなの党を切り崩してでも、第2党になるべきであった。民主党が、自民党に続く第2党の地位を確保したのでは、右派も離党しにくいというものであった。それも情けないことではあるのだが、民主党の左傾化は、野党に転落してすぐにはじまったわけではなかった。右派が情けなかったのは、むしろ、民主党が逆風の中にあり、社民党のようにしぼんでいくことも考えられる中、党内で主導権を握れなかったことにあると言えるだろう。あの時に勝てなかったのだから、負け続けることはきまっていたのである。

民主党にとって、第2党、つまり自民党に対する最大規模の挑戦者であることこそが、票を集める要素となっていた。民主党が衆議院で第3党に転落すれば、その票を根こそぎ失い、次の参院選で惨敗し、参議院第1党どころか、第2党の地位まで失っていたと考えられる。そうすれば、政権に返り咲いた自民党の挑戦者は、日本維新の会(やみんなの党による新党)となり、再度の、そして今度こそ国政に大きな変化をもたらす政権交代が、実現していたかも知れない(もちろん、うまくいかなかった可能性もある)。民主党が労組の支持を引き留めて、新党と野党同士のつぶし合いを演じる可能性もあったが、民主党の右派が維新の会(などによる新党)に移ることで、連合(日本労働組合総連合会)が分裂するような変化が起こっていたかも知れない)。この機会を活かさなかったのは、やはりもったいない。

もし、民主党から右派の議員達が数多く離党していたら、維新、結い、民主党離党者で新たな第2党ができていただろう。その場合は、(とりあえず、)新進党が第2党で、社会党→社民党→民主党が第3党であった時期に近い構図となっていた。しかし実際には、第3党にとどまったことで、日本維新の会は、そしてみんなの党も、自民党寄りか民主党寄りか、独自路線か、という第3極になり、結局は自民党か民主党かで裂かれるに至ったのである。

なお、野党第1党には社会民主主義的であって欲しい、新自由主義的保守vs社会民主主義が良いという有権者には、保守2大政党制(現実的には利益誘導型対新自由主義、まれに新自由主義同士の競争となる)は、評価できないものであるだろう。保守2大政党制の問題などについては、また述べる。ここではそのような問題は一度置いておき、話を進めている。

次は、維新の党の失敗である。これは、民主党と丸ごと合流しなかったことに尽きる。

確かに丸ごと合流すれば、その新党の中で、民主党系を前に劣勢を強いられる可能性があった。しかし、民主党内には右派がいた(当時の民主党の主流派は、左派と、右派が左派化したといえる勢力であった)。維新の党系と民主党系の右派が結びつけば、党首選挙で十分勝てたはずであった。そうすれば、第2党を動かす存在になり得た。その後、彼らが動かす第2党が混乱しても、改革に反対の議員は切り捨てるという姿勢を示し、第2党の地位だけは維持できれば、良し悪しは別として、展望は開けていたのではないだろうか。左派を切ることになっても、民主党政権失敗の記憶が鮮明であったし、政党への参加を拒むのとは形が違っていたから、希望の党のケースのようにはならなかったであろう。

ここまで見て分かるのは、維新の大阪派の系譜が、名を取ることを重要視して、有利な機会を何度か、生かせずに通り過ぎたことである。スター党首と、その党首が演出するイメージが政党の命運を握る時代ではあるが、組織力が弱い第3極の勢力は、その中でも特に個人商店になりやすく、そのスター党首を後ろに下げることを忌避することで、実は逆に支持を失っているように見える。仮に新党で主流派になれなかったとしても、名を取って、引っ掻き回される側になるのではなく、第2党に入って、それを引っ張る方向で引っ掻き回す側になる方が、有権者を巻き込めたのではないだろうか。

日本維新の会にとっては、憲法改正に必要な参議院の3分の2というラインについて(衆議院では自公両党で3分の2を越える)、キャスティングボートを握っていると言える今、野党共闘よりも自民党との協力の方が、大阪都構想等の実現に有利だといえる。しかし自民党政治を本格的に変えるためには、自民党政権に取って代わり得る政党の、少なくとも発言力のある一部にならなければならない。

 

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