日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
真の保守も何度もつぶれ仲間を見捨てる

真の保守も何度もつぶれ仲間を見捨てる

第3極が2つに裂かれる傾向を見てきたが、真の保守を自認する勢力にも、そのような傾向はあった。郵政民営化反対派である。

その多くは、情けない議員であった。郵政民営化関連法案を参議院で否決に追い込んだにもかかわらず、小泉総理が強硬な姿勢をとると、多くの議員が腰砕けになった。自らと政策、理念が異なり、刺客候補すら送り込んで来た内閣と、明確な対決姿勢をとらずに、当選しようとした。そして当選することができた議員達のほとんどは翌年、【郵政民営化等の内閣の方針に尽し、反すれば議員を辞職する】という屈辱的な内容の誓約書にサインをし、追い出された自民党に戻った。郵政民営化反対派の中には、郵政民営化に反対であったというよりも、前例を崩す小泉を嫌う議員達や、森派(岸派→福田派→安部派→三塚派→森派)主導の内閣を倒したいという議員達も含まれていた。いずれにせよ、それまでの自民党政治を、部分的にでも、変えようとする内閣であったから嫌われたという面もある。派閥均衡・派閥主導でない閣僚人事と同じく、郵政民営化もその象徴であったのだ。

情けない議員ではなかったのは、綿貫民輔や亀井静香ら、ごくわずかであった。両者は苦境に立たされた郵政反対派の受け皿として国民新党を結成した(綿貫、亀井、解散の影響を直接受けない参議院議員であったが自民党を離党した長谷川憲正、民主党を離党して参加した田村秀昭の他は、総選挙で苦戦することが予想された亀井久興だけであった)。自民党に復党せず、国民新党にも参加しなかったのは、平沼赳夫である。平沼は、4年後の2009年9月に、国益と国民の生活を守る会という会派を結成した。参加者は平沼の他、城内実、小泉龍司という、やはりかつて郵政民営化に反対して自民党を出された、無所属議員であった。この2名は2005年に落選したが、2009年には当選していた。

平沼が国民新党に参加しなかったのは、自民党に戻る意思があったためであろうし、国益会結成当時には、すでに国民新党が民主党に接近しており、その点で国民新党と国益会は相容れなかったのだろう。しかしそれでも、出発点が同じである小勢力が分立している状況は、分かりにくいものであった。

さらに分かりづらかったのは、国民新党の他にも、同時期に新党日本が結成されたことである。郵政民営化反対派では、自民党との対立が決定的になる新党の結成と距離を置く議員が多かっただけでなく、新党結成を決めた議員達(解散後であったので、衆議院議員は正確には前議員)ですら、1つにまとまらなかったのである(ただし総選挙後、国民新党と新党日本は両院で統一会派を組んだ)。小林興起、青山丘、滝実、参議院議員の荒井広幸は、改革派として知られていた田中康夫長野県知事を党首に、新党日本を結成したのである。田中康夫は郵政民営化反対を唱えてはおらず、党のマニフェストにも明記されなかった(税金で給料が支払われていないことから、すでに民営化されているに等しいとし、2年後の改革の成果を見て、さらなる改革を考えるということが記されたに過ぎない)。

国民新党とは別に、わざわざもう1つ新党が結成されたのは、国民新党に、農村部の抵抗勢力というイメージが強かったためである。東京に選挙区があった小林などが、これに参加することをためらったのだと考えられる。そんなことは気にせず、堂々と信念を有権者に語りかければ良いと思うのだが、落選を恐れていたのであろう。それでも津島恭一の加盟で国会議員6名となっていた国民新党は、参加議員が4名にとどまり、政党構成要件を満たせなかった同党に、議員を1人貸して、その窮地を救った(おかしなことだが)。

新党日本は、結成から2年足らずの2007年7月、総選挙で唯一当選した滝と、ただ1人の参議院議員であった荒井が離党したことで、直後の参院選で当選する、田中康夫1人の政党となってしまった。

なお、国民新党は民主党に接近し、2009年の政権交代で与党となった。新党日本も、民主党と会派を組んで与党(閣外協力)となった。保守政党が左派政党と組んだという面もあるが、菅直人内閣以後は、むしろ民主党が右傾化し、国民新党と新党日本が左派政党と同様に、増税、TPPに反対した。

民主党は郵政民営化の見直しについて国民新党と合意し、金融、郵政改革担当大臣となった亀井静香(当時国民新党党首)は、改革を実現させた。その主な内容は、国が日本郵政の株式の3分の1以上を保有し、日本郵政が郵便局株式会社と郵便事業株式会社を吸収し、その日本郵政がゆうちょ銀行、かんぽ生命保険の株式のそれぞれ3分の1以上を保有するというものであった。郵便貯金の預入限度額、簡易生命保険の加入限度額も引き上げられた。郵政民営化を支持していた自民党議員などは、改革に逆行する策、他の銀行を圧迫する策だと批判した。

政権交代の前後で野党を貫いたのは平沼(国益と国民の生活を守る会)であった。ひよらなかった郵政民営化反対派は、民主党と組んで郵政民営化の後退を目指す勢力と、自民党の新自由主義路線(事実上撤回されたに近い状態の時があっても、進むべき方向として意識はされている)とは異なる、独自の保守勢力を目指す勢力に分かれたのである。その後亀井が国民新党、新党日本、国益と国民の生活を守る会の合流を模索したが、国益会が民主党との連立に否定的であったことから、実現しなかった。

その国益と国民の生活を守る会もまとまりを維持することが出来なかった。平沼以外のメンバー、つまり木内と小泉は、平沼らによるたちあがれ日本の結成に参加せずに、自民党に寄り、復党を実現させた。

野党となった自民党からは、すでに述べたように、2010年の参院選を前に、与謝野馨、園田博之、鳩山邦夫衆議院議員、舛添要一、藤井孝男、中川義雄、小池正勝、矢野哲朗参議院議員が離党した。舛添は、人気はあったが同調する議員は少なく、荒井ら改革クラブの3名、参院選における公認争いで敗れた小池、矢野両参議院議員と、新党改革を結成した。荒井がまた改革派の、今度は舛添を担いだのである。改革クラブとは、福田内閣期に、民主党を離党した議員や荒井が結成した会派→政党であった。新党改革は衆議院議員0、参議院議員6名の新党で、舛添以外は、2010年夏に任期切れを迎える、つまり選挙が近い議員達であった。

平沼、与謝野、園田、藤井、中川は、彼らと石原都知事を発起人として新党、たちあがれ日本を結成した(鳩山邦夫は、新党改革にも、たちあがれ日本にも、入れてもらえなかった)。皆保守ではあったのだろうが、園田はかつて郵政民営化を進めるポジションにあったし、与謝野、そして石原も郵政民営化を支持していた。平沼の他、藤井、中川は反対票を投じていた(藤井は衆議院議員として反対票を投じて落選、参院議員となったが、元々参院議員であった中川は、総選挙後には賛成に転じた)。だからなんともすっきりしない動きなのだ。

たちあがれ日本は、真の保守の再生を主張したが、民主党の右から民主党の内閣を責める役割は、自民党と重なるものであり、特に安倍が自民党の党首となった2012年9月以降、同党の独自性は相対的に弱まった。同党と、舛添の多少の人気に助けられた新党改革は、2010年の参院選において、共に1議席を獲得した。ミニ政党が頑張ったという程度であったのだが、彼らはミニ政党に甘んじるつもりであったのだろうか。

たちあがれ日本はその後、よりによって民主党に切り崩された。参院選で与党が過半数を下回ると、菅直人総理は数合わせに動いた。そしてたちあがれ日本に協力を求めた。みんなの党ではなかったのは、可能性が低いと考えられたのか、国民新党の亀井が多数派形成に関わっていたため、また、菅直人総理とたちあがれ日本の園田が共に新党さきがけに属していたことがあったためだとだと考えられる。たちあがれ日本の理念は民主党とは遠かったように見えるが、新自由主義的なみんなの党よりは近かったと言うこともできなくはない。たちあがれ日本は応じなかったが、与謝野が同党を離党して入閣、さらに民主党の会派に入った。

それでも存続していたたちあがれ日本に、大きなチャンスがやって来た。日本維新の会との合流、それを前提とした石原との正式な合流である。日本維新の会の橋下徹が、石原と党を同じくすることを決めたのだ。橋下、石原は共に改革派のスター知事であった(橋下は大阪市長に転身していた)。しかも東京都と、大阪府である。しかし、たちあがれ日本の郵政民営化反対派と日本維新の会は、とても近いとは言い難かった。

日本維新の会は、たちあがれ日本と石原が結成した太陽の党を吸収したとはいえ、そのリーダーであった石原を代表に迎えたことで、変化した(橋下は当初は代表代行、2013年1月以降は、石原と共に共同代表)。右に寄ったといえるし、象徴的であったのは、原発廃止の主張が、事実上取り消されたことである。

その後の顛末についてもすでに述べたが、維新と袂を分かち、次世代の党→日本のこころを大切にする党→日本のこころと、議員を減らしながら名称を変えてきた旧たち日系は、ついに参議院議員2名のみとなった(たちがあれ日本結成時からのメンバーであり、生き残った2人だけの衆議院議員であった平沼と園田も自民党に復党した)。さらにそのうちの1名、しかも2015年から代表を務めてきた中山恭子が、希望の党に参加した。夫の当選のためであろうと何であろうと、自由民主党→たちあがれ日本→日本維新の会→次世代の党→日本のこころを大切にする党→日本のこころ→希望の党という遍歴は、民主党→維新の党→民進党→希望の党→国民民主党という遍歴を笑えない。それどころか、小池百合子は、中山のかつての同志、石原慎太郎を、豊洲移転問題に関して、東京都議会でつるし上げた人物である。その小池の新党に参加するなど、全く筋が通らない。

所属政党と、それに残る人々、引退したかつての同志(石原)を見捨てて、権力を持つ優位政党、人気のある党に移るのが保守だろうかと、やはり思わずにはいられない。そもそも、たちがあれ日本系自体も、新党改革と参議院で統一会派を組んだものの、同党を捨てて自民党と統一会派を組み、次に自民党を捨てて日本維新の会に合流、さらに日本維新の会を捨てて、自民党と再び統一会派を組むという、軽さであった(統一会派は全て参議院の話だが)。

自民党の右の政党が第3極のスターになることには、無理があったと言える。ネトウヨがインターネットの中に限れば元気だとは言っても、右寄りの有権者が本党に急増したのかは分からなかったし、その多くは、やはり自民党に入れる。安倍晋三が党首では最右翼の票も自民党に流れる。ただし、たちあがれ日本系に、自民党を批判する覚悟があれば、話は別である。特に自民党が与党となってからは、民主党政権を倒すために自民党に遠慮するという必要もなくなったのだから、自民党の問題点を突くことこそ、自民党以外の保守勢力の拡大には必要であったのに、全く不十分であった。

共産党と民主党ほどの違いが、自民党とたちあがれ日本にあっただろうかということは置いておいて、共産党は左の有権者の票を一定程度集めて、議席を増やすことがあるが、積極的に候補者を擁立すれば、民主党→民進党系と、左派系同士共倒れをするという、問題を抱えている。しかしたち日系は、自民党の票を食っても、それだけですぐに共倒れするほど自民党は弱くなく、たち日系も弱くない。むしろたち日系の影響力が強まるという利点があるし、非自民票を得ることも、以前なら多少はできた。もっと頑張れたはずである。

端が駄目だというわけではない。第1、2党の間(戦後、五十五年体制成立前ならば自由党系と社会党系の間)に位置しても、埋没することはすでに見た。2大政党にはないものを持っていなければならないのだ。自民党にも、労組の支持を受ける民進党系にもできない改革を断行するというものである。改革といえば新自由主義というイメージはあるが、そうとは限らない。新自由主義に反対であるならば、新自由主義的にならずにすむ方法を見出すことが必要である)。かつて小沢一郎は、改革に積極的であることで多くの支持を得た。「自民党よりももっと右です」というだけでは、警戒されるのが関の山である。

 

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