1-20期待の星、第3極の新党の問題点1.政権交代論

第3極右派もまとまらず・・・

何度も気を取り直して票を投じてきた自民党に対する失望、それは、代わりの選択肢であった民主党に対する失望で容易に変わるものではなかった。民主党(政権)に対する失望は、選挙に行かなくなった有権者と共に、民主党から自民党に投票先を変える有権者と、第3極に変えようとする有権者を生んだと思われる(ただし投票率低下のため、自民党の得票数は減った)。

元々自民党に投じられていた票に、恒常的に、または一時的に民主党に投じられていた票が加われば、自民党はかなり有利になる状況であった。しかし民主党から大量の票が流れ出て、それが自民党にあまり流れず、主に第3極に流れこめば、第3極が第1勢力になる可能性も、自民党が野党であった状況下、ないとは言えず、少なくとも、民主、自民(自公)双方が共に過半数を下回ることで、キャスティングボートを握る可能性は、当初(2012年)、十分にあった。

しかし第3極はまとまらなかった。当時の第3極は前述の通り左右に分かれていたが、議席数では民主党離党者ら左派が多くても、国民からの支持については右派が断然有利であった。しかし、その右派ですらまとまらなかったのだ。

国会の議席はゼロであったものの、人気は非常に高かった大阪維新の会は、国政政党を結成する際、人気では後発の維新にやや劣るものの、すでに衆参両院で一定数の当選者を出していたみんなの党を、切り崩したのである。このことに関するわだかまりと、双方が主導権を握ろうとしたことで、合流することはもちろん、しっかりとした選挙協力を行うことすら、できなかった。第3極の、他国のポピュリズム政党に似た、スター党首が支持の要因であるという要素も、その結集を妨げたのだと言える。

日本維新の会だけでも十分に戦えたし、みんなの党もまだまだ躍進し得たが、1人しか当選できない小選挙区で競合するとなると、その選挙区では共倒れとなる可能性が高かった。与党の民主党、かつての優位政党の自民党、そして民主党から票が流れてきそうであった共産党、さらには現職議員が多い第3極左派とも戦わなければならない中で、似た政党同士が争うのだから、普通に考えれば、ばかげたことである。日本維新の会が、みんなの党の地盤であった関東地方にも候補者を擁立していくと、総選挙は、自民党が圧倒的に有利になった。

結成直前に民主党、みんなの党、自民党から、少数の議員を厳選する形で集めたという形を採った日本維新の会であったが、大躍進を確実にし、かつ実のあるものにするための、即戦力となり得る議員や候補者の不足、国政に関する経験の不足は、他の勢力との合流を不可避にしていた。自民党を切り崩せていれば、維新にとっては最高であった。しかし、自民党が政権に復帰する可能性が日に日に高くなり、しかも維新とみんなの党も一枚岩ではないとなると、維新の大勝が予想された大阪府以外で、日本維新の会に移ろうとする自民党議員が現れるということは、考えにくくなった。結局、大阪府の自民党議員の移動すら、2人にとどまった。

そんな日本維新の会が合流相手に選んだのが、少数ながら、国政の経験が豊富な議員達による太陽の党(たちあがれ日本に、石原慎太郎都知事が加わった政党)であった。もっとも橋下は、石原とだけ合流したかったようだが、結局は太陽の党を丸ごと吸収した。

日本維新の会の失敗の1つに、国政政党結成時、民主党とみんなの党の離党者を基盤としたことがある。みんなの党については上で述べた。問題は、民主党出身者である。彼らは菅内閣以降の路線転換に批判的であった。つまり菅、野田内閣ではなく、鳩山由紀夫内閣の政策を志向する議員達であったといえる。日本維新の会は菅、野田両内閣の消費税増税の方針には反対であったが、TPPには賛成であった。一方、新自由主義的であった大阪維新の会と、少なくとも政権担当善後は社会民主主義的であった鳩山系の松野頼久らでは、いわゆる脱官僚的な改革、新自由主義的政策の一部については合意できても、本来の主張は異なるはずであった。

代表の橋下は国会議員ではなかったから、日本維新の会の国会議員団は党内で大阪維新の会から、半ば独立したような存在となった。初めて迎えた総選挙では大阪で圧勝したが、大阪府内選出の議員は新人ばかりで、国会における党の主導権は、本来の日本維新の会とは差異があった。旧太陽の党系(旧たちあがれ日本系)と、松野らが握った。この両者も相容れないはずであったが、これらをクリアにしたのが、次世代の党の結成による、分裂であった。

結いの党は、自民党との接近にシフトしたみんなの党内で、これに反発した江田らによって結成された。彼らは集団的自衛権に否定的であったから、右派に勢いがあり、左派が壊滅した第3極において、突如左派が顕在化した。江田憲司らが、新自由主義的な面では右派、安全保障政策等に関しては左派であったのが、安倍内閣のタカ派的な姿勢が、経済政策よりも目立つ対立軸を生んだことで、顕在化したのだと言える。新自由主義的改革が第3極の事実上の旗であったし、自民党の右傾化、民主党の左傾化は、安倍内閣の成立後に明確化したから、第3極右派の中の、他の違いは当初、目立たなかったのである。

左派の「壊滅」について補足したい。結成後初の総選挙で惨敗した日本未来の党は、小沢派と嘉田派に分裂し、嘉田派唯一の国会議員であった阿部知子(社民党出身)、どちらにも属さず、対立に愛想をつかしたのだと思われる亀井静香を除いた議員達が、生活の党を結成した。生活の党は民主、社民、共産3党と、左派連合を形成するに至ったから、第3極とは呼び難い勢力になった。

話を戻すと、日本維新の会は、橋下の決断により、結いの党と合流した。これは当然ではあった。元々みんなの党と日本維新の会は合流すべきところ、主導権争いによって、失敗していたからだ。橋下は民主党全体との合流に否定的であったから、結いの党との合流によって、民主党抜きでも野党再編を進んでいるということをアピールすることができたし、それは民主党の右派から議員を得るためにも、良い策であった。

日本維新の会と結いの党の合流によって誕生した維新の党では、江田(元結いの党)、松野(元民主党)が中心となり、前回からわずか2年で訪れた2014年の総選挙において、大阪系が消極的である中(新しく候補を擁立して、わざわざ競合する選挙区をつくることはしないという程度)、民主党と一定の選挙協力をし、かつて民主党の議員であった公認候補を少なからず当選させた。これによって維新の党は、民主党出身者と結いの党出身者の、民主党との合流に積極的なグループと、民主党丸ごととの合流に否定的であり、安倍内閣と主張が近い大阪派に、分裂することになった。